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亡き王女のためのパヴァーヌ

中高は吹奏楽部で、大学はオーケストラ部で、ホルンを吹いていた。かたつむりのような形の、右手を入れて吹くアレ、と説明すれば、わかってもらえるだろうか?ころんとした形の金管楽器だ。

最初から最後まで、10年間ずっと、上手になれなかった。ギネスブックに載っている難しい楽器なんだから、という慰めを差し引いても。
一曲をノーミスで吹けたことが、私にはおそらくないと思う。さらに困ったことに、私には努力する才能もなかった。

一人暮らしを始めるまでマンションの8階に住んでいた私は、いつも、私と一緒に階段から身投げするホルンのことを想像していた。金管楽器は、ぶつけるとへこんで音が変わってしまう。卵のように慎重に扱わないといけない。8階から落とされたべこべこのホルンを思い浮かべると肝が冷えた。同時にちょっとだけほっとした。
 

中学二年生の夏の吹奏楽コンクール、派手に自由曲のソロを外した。あんなに練習したのに、と保身のために私は思った。周りの人も慰めてくれた。でも練習は不十分だったと思う。
「吹奏楽は全体でつくるものだから、一人のミスだけで何もかも壊れるものじゃないんだよ」と先生は言ってくれた。それでも、自分の方にしか目を向けられなかった。
翌日、音楽室でコンクールの反省会が開かれて、「星食べよ」が出た。私は何も話したくなくて、ずっと星を見つめていた。

翌年、中学最後のコンクール、私たちは、学校の歴史で初めての金賞を取った。上位の大会に出られるようなレベルじゃなかったけど、ともかく嬉しかった。
だけど、と私は思った。1stで出られなかったのは、残念だったな。1stは、特に金管楽器の場合、基本的にそのパートの中で一番上手な人が担当する。一番高い音で目立つし、ソロも割り当てられることが多い。高い音も低い音も出せない、大きい音も小さい音も幅が狭い、腹式呼吸ってなんなのかもわからない、そんな私が任されるものじゃないのはわかっていた。でも、任されたかった。
演奏が終わった途端に感動で次々と泣けてきてしまうような、夢みたいな時間を過ごしたその直後にも、自分が特別扱いされなかったことを悲しんでしまう私のことが、私はとても嫌いだった。


楽器がうまくなりたいんじゃなくて、楽器が上手な人だと周りに思ってほしかった。


体育も家庭科も不得意ではあったけど、テストで点数を取るのは得意だったから、10代はじめの私は、まあまあの天狗だった。だから楽器のツボがみつからないことは、ほとんど初めての決定的な挫折だったと思う。

理想をイメージすることが大事、と聞いたから、私は毎夜、ホルンアンサンブルの曲をMDで聴いていた。彼らの音色が円だとしたら、私の音は、だいたい五角形だった。同じ楽器を使っていることが、まるで信じられなかった。

そもそも、音色がどうこう、なんて考えられるレベルに、私は全く至っていなかった。

リコーダーの場合、穴をおさえる指さえ変えれば一応出る音が変わるけれど、ホルンは、勝手が違う。息の使い方や唇の調整で、指使いが同じでも、いくつも違う音が出る。つまり、それらがうまくいかなければ、私が出したい「ソ」の代わりに「ド」がうっかり飛び出してしまうのだ。
思い通りの音を出すための練習中ずっと、遠くにある直径1ミリの的を目指して矢を放ち続けるような気分だった。放っても放っても当たらなかった。的なんて本当はないのかもしれない、と信じようとすると、周りの優れた射手たちが、何度も何度も、軽々と、その小さな的に矢を命中させるのだ。


私はとても虚しかった。


自分が、練習に専念できないことも含めて、楽器に向いていないことはもう半分わかっていたけれど、奇跡を信じたい気持ちもあって、高校でも吹奏楽部に入ることにした。
ただ、自分の心を守るための言い訳がほしかったから、演奏以外の点で存在意義をつくろう、と決めた。

それで、2年生になるとき、部長に立候補した。

部長業は、楽しかった。
私はなんでも要領が悪くて、必要な手続きを忘れていたり、段取りができなかったりしたけれど、周りの器用な人や優しい人が助けてくれた。

でも部長だから、一層苦しかった。
なんで、部長なのに、どうしても出せない音があったりするんだろう。ミスばっかりしちゃうんだろう。
なんで、高校からホルンを始めた同級生のほうが、どんどん上達していくんだろう。
なんで後輩の方が、スムーズな音を出せるんだろう。そんな後輩を差し置いて、最後の年だから、って、一軍としてコンクールに出てしまう私は、何様なんだろうか。

金管8重奏でアンサンブルコンテストに出て都大会まで進んだことは、私に一瞬自信をくれたけれど、同時に劣等感の輪郭をはっきりさせた。
一緒に演奏した同級生がくれた手紙には、「最初は正直、赤司ちゃん、ついてくるの大変そうかもな、心配だなって思っていたけれど」等とあり、これは優しい彼女が一生懸命オブラートに包んだ、「あんたが下手くそで足引っ張られるなあ、と不安だったけど」だな、と考えて、やっぱり、そうだよね、と申し訳なく思った。一回落とすのは、褒めを際立たせるためだ、重きをおいてるのは後半に書いてあることだ。彼女は、私を責めてるわけじゃない。そんなことは、よくわかった。でも、だめだった。やっぱりね、という気持ちの力が、あまりにも強かった。


たぶんこの頃から、ホルンを吹くことを趣味だと言わなくなった。
 
私にとって楽器を吹くことは、修行だったから。

自分に甘い自分を、戒めるための。
努力できない自分を、忘れないための。
調子に乗りやすい自分の鼻を、きちんとへし折っておくための。


それでも、たった一つだけ希望があった。
それは、私たちの一つ上の代にいた、絹のような音をするする出せる先輩の、なにげない言葉。


「諦めなければ、いつか、Xデーが来るよ。出せなかった音が、突然出せるようになる」


私は、先輩の言葉を、たぶんそれだけを信じて、ホルンを吹いていた。


私の高校には備品としての楽器が少なくて、親にプレゼンをして、お年玉も活用して、条件付きでホルンを買ってもらった。50万円はしたと思う。
そのときの条件が、「大学でもホルンを続けること」だった。

絹の先輩は、高校卒業後、大学でオーケストラ部に入った。
「オーケストラのホルンは、いいよ。メインの旋律もたくさん吹けるよ」

心底楽しそうに先輩は話し、私は、メインの旋律で音を外しまくる自分を想像した。

一般的にオーケストラというのは吹奏楽よりも金管楽器の人数が少ないから、失敗したら、吹奏楽の比じゃなく、曲を壊してしまうんだろうなあ。考えるだけで、ぞっとした。


大学に入った私は、しかし、親との約束の手前、進まない足をなんとか運んで、オーケストラ部の門を叩いた。私の大学には、吹奏楽部はなかったからだ。

入部したそうな気配だけはまとって、ホルンの先輩に相談にいくと、「今年は希望者が多いから、全員に入ってもらうことができないかも」と返ってくる。心の中で、ガッツポーズした。「外的な理由で楽器が続けられないのなら、親だって仕方ないと思うだろう」。

ところがどっこい、希望者はその後ポロポロ減って、私はうっかりホルンパートに迎え入れられることになったのだった。

初めて同じ楽器の人たちだけで集まる練習の日、私は、恐怖でいっぱいだった。ずっと緊張していて、自分の音を出すのが恥ずかしかった。帰宅して早々に、「みんなうまくて、辛い」と当時の彼氏にメールした。

彼氏はストイックな木管吹きで、この男の返信が、いよいよ私を追い詰めた。
「周りがうまい人だと、燃えるじゃん?」


いいえ、まったく、燃えません。


大晦日にTVのクラシックコンサートを観ていない私を、「バカ」呼ばわりする男を頼ったのが間違いだった。『亡き王女のためのパヴァーヌ』を教えてくれたことは、ありがたかったけどな。そのときも、この男は「ホルン吹きなのに、この曲を知らないの?」と、私をなめきった態度だった。

だけど、彼がそう思うのも無理はなかった。その曲は、繊細だけど伸び伸びした、ホルンのよさがぎっしり詰まったソロで、有名な曲だったから。私は一発で、その暗く美しいメロディの虜になった。想像力を刺激するタイトルもいいな、と思った。鬱蒼とした森の中、古城のかび臭い部屋の中で、一人静かに横たわって固くなっていった小さい王女のことをイメージしながら曲を聴いた。

私は自分のホルン吹きとしての才能をすっかり諦めながら、それでも、いつかこの曲が吹けるようになりたい、と願っていた。


楽器の練習を修行と考えるのは、あながち、過激なことでもないと思う。曲を演奏するために、曲ではないものを、あるいは、曲の細切れにされた断片を、まるで石でも積むように静かに訓練し続けることが、大半の楽器をするものの宿命であるからだ。

例えば、「ロングトーン」という基礎練習がある。運動部でいう、走り込みみたいなものだと思う。同じ音を真っ直ぐ長く吹く練習だ。例えば4拍とか、8拍とか、16拍とか、同じ音をずっと伸ばす。途中でかすれないように、音程が変わらないように、色んなところに気をつけながら、それを、1オクターブ分とか、2オクターブ分とか、まとまった量やる。そうすると、楽器を吹く基礎力がつくのだ。

しかし、とにかく、辛い。
「本来、息を吸うのは生き物にとって楽しいことだから、楽器を吹くことも楽しいはずなんだよ。吹くことは、吸うことだから」と、前述の彼氏は言った。

本当に呼吸を楽しみたいなら、わざわざ自分で妨げる必要はないはずだ。16拍分も我慢して息を吐き続けるなんて、生き物として自然の選択だとは思われない。


なのに、そんな選択を何年も続けてしまう私は、なんなんだ、一体。


よし、この30分は、この曲の最初の音の出だしだけをひたすら練習しよう、と、取り組んだりもした。唇をどのタイミングで、どんな位置でマウスピースにあてるのか、いつから、どんな速さで息を入れるのか、舌の位置は?動きは。どのくらいの深さで手を入れるか、お腹の力をどう入れて、どのくらいの浅さで椅子に腰掛けておくのか。発音が成功するときの条件を探して、それを体に染み込ませるために、何回も繰り返す。


なんで、こんなことに、貴重な若人の時間を費やしているんだ、私は。


基本的に劣等感と憎しみに溺れていたから、あんなに心待ちにしていたXデーがせっかくやってきても、それがいつだったか、私には思い出せないのだった。


気がついたら、高校生のときに出せなかった高い「ソ」の音が、出せるようになっていた。


やっぱり長くは吹き続けられない、音量もうまくコントロールできない、それでも。

それでも、私は嬉しかった。

高校生のとき吹けなかった曲を吹いてみよう!と楽譜を引っ張り出してきて、やっぱり吹けなくって、それでも。

それでも、私は嬉しかったのだ。

そうして、少しだけ、『亡き王女のためのパヴァーヌ』のホルンソロを、練習したりした。


気持ちは突っ張っていたけれど、音楽が楽しくなかったか、と言えば、嘘になる。

下手くそなりに本番には達成感があった。
何度も練習している曲には、お気に入りの箇所、というのができるもので、ああ、ここのクラリネットは物憂げで最高だな、とか、このチェロの動きがかっこいいんだよなあ、とか、よく考えていた。
先輩や同輩や後輩が必死に練習していた箇所は、心の中で応援しながら聴いた(信頼がないなあ、失礼だなあ、って、きっと思われてしまうけど)。

同じ楽器の人と音を重ねるのは、楽しかった。

念願の1stをもらって、ソロだって吹いた。

ホルンの先生だって、褒めてくれた。
「あなた、普通に吹けるじゃない」


でもこれらの材料だけじゃ、まだポジティブになるには足りなかった。

ホルンはあまりにも言うことを聞かず、放り込んだ先から、ちょろちょろと自信が漏れていったからだ。「普通に吹ける」程度の賛辞じゃあ、全然補いきれなかった。

最後の演奏会は楽しかったけれど、それでも、最後までホルンが思い通りにならなかった、という印象は残った。才能のなさを丁寧にたしかめた、という思いがあった。
後輩があの手紙をくれなかったら、私はずっと自分を許せなかったと思う。

今でも、死にたくなったときにクローゼットの奥から出してくるその手紙には、こうあった。


「先輩の音は天国に近いと思うのです」

「先輩の音は、私が喉から手が出るほどほしい力強さがあって、本当に憧れです。芯があって美しくて、先輩のようです」


私は後輩の、真っ直ぐに音楽を愛する素直な姿勢が素敵だな、と思っていた。
さすがにその人の言葉を疑うことは、できなかった。

泣いてばかりいた10年間の最後、私はやっぱり泣いていた。



そして、もう修行はしない、と、決めた。


油絵を習ってる時間に、たっぷり居眠りしてしまっても、オンラインスペイン語の月10回のプランがたった1回しか消化できなくても、自分を責めないように注意している。


だって私は、私の人生を楽しくするためにそれらをすることを選んでいるからだ。


そして、もっと自分を褒めよう、もっと人に、褒めてほしい、って素直に言おう、とも決めた。
やれなかったことより、やれたことを見つめた方がいい。自己満足かなと不安になったら、世間に問うてみればいい。インターネットに放り投げたら、きっと何人かの人は、褒めてくれるだろう。それは立派な、自信の根拠になる。
褒めてもらった言葉だけ集めて、幸せな気持ちで生きていけばいい。


始めれば即ち修行になってしまう危険性があるから、たぶん、ホルンを本格的に練習することは、今後一生ないだろう。

それでも、私が本当に死んだときは、楽譜と手紙を、ぜひ一緒に燃やしてほしい、と思っている。

あと、『亡き王女のためのパヴァーヌ』をかけて、骨になった私に聴かせてほしい。

私は王女じゃないけれど、いつまでもいつまでも振り向いてもらえなかった楽器だけど、

それでも、ホルンの音が好きだから。

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