広島・長崎の真実 1
広島・長崎原爆による死亡者数
1945年(昭和20年)、広島と長崎で2発の原爆が炸裂しました。
8月6日 午前8時15分、広島原爆が炸裂、
8月9日 午前11時02分、長崎原爆が炸裂しました。
広島と長崎、2発の原爆による死亡者数は、広島31万9186人、長崎18万2601人、合計50万1787人です。
原爆により、これだけの罪のない人々が亡くなっています。
B29爆撃機「エノラ・ゲイ」
上の画像が原爆を投下したとされているB29爆撃機「エノラ・ゲイ」です。
1945年8月6日未明にテニアン島を発進、同日午前8時15分に高度1万1500メートルから広島市中心部に原爆を投下したとされていますが…
この爆撃機に、重さ約4トンもある原爆を搭載したとするのは、あまりにも無理があるのではないでしょうか。
広島に投下されたという広島型原子爆弾は、長さ約3.2メートル、最大直径71センチ、重さ約4トンのウラニウム型原子爆弾で「リトルボーイ」と呼ばれていました。
1945年(昭和20年)7月16日、アメリカが史上初めて総重量240トンもの長崎型原爆の地上起爆に成功しました。
その1ヵ月足らずの8月9日には、エノラゲイに搭載できる約5トンの50分の1の小型化に成功し、なおかつ原爆投下の実験もせずに一発で成功させた?
常識的に考えても、実現が無理な話です。
長崎原爆投下の映像
長崎原爆の地上起爆を隠す隠蔽工作でしょうか?
長崎に落とされたとされる、直径1.52m、全長 3.25m、質量4.5トンのプルトニウム型原爆「ファットマン」。
しかし、B29はこれを載せて飛ぶことなどできません。格納庫にさえ入らないでしょう。
日本は核実験に成功していた!
天皇による終戦工作の人工地震と世界初の日本製広島原爆地上起爆成功と北朝鮮でのチッソの原爆開発‼️|アトランタ紙の記事より
学校で習ってきた歴史は、全て嘘で塗り固められています。
広島と長崎に大被害を与えた原爆は、日本の東京大学で開発されました。
広島の原爆爆破で、日本製広島型原爆の開発に成功していました。
原爆・原発製造の特許権は日本の裕◯天皇です。
起爆装置の肝は富山藩の花火技術(硝石乳酸菌培養技術)の応用
※理研の○和発酵が実施
1940年、Nature に掲載された日本の核実験は、1939年、戦艦大和を使った大阪での核実験でした。
大阪帝国大学は、すでに禁野火薬庫爆発 (1939年) より前の1937年、
高速中性子を照射できるサイクロトロンを完成していました。
表題は「高速中性子によって生成されるウランの核分裂生成物」とあります。これは、核実験が行われたという意味です。
さらに、明確に、水で爆発させる原爆が日本で開発されていたと述べています。「水が入ってきたら爆発する。これが原爆の規則的な考え方。」ということのようです。
日本の意向を受けてキッシンジャーが日本の核兵器技術を世界中に販売しました。
※原爆開発国の日本の技術でなければ原爆は起爆せず、起爆装置は100%日本製。
世界初の核実験は1939年3月1日大阪府枚方市で行われました。
原爆製造の中核は理研でした。理研という組織は、まさにイルミナティの代理組織そのものでした。小保方さんのスタップ細胞の騒動も、全て説明がつきます。
当時、原爆を起爆可能な技術は日本だけが開発できていました。空中起爆できる技術など、世界中どこにもなかったのです。
当時の技術は、最先端のサイクロトロンから中性子を加速させて打ち出し、ウランにぶつけて爆発させています。つまり、空中から落として爆発させることは不可能だったのです。
1945年、8月12日、北朝鮮の機関紙「労働新聞」には、「日本は敗戦直前まで北朝鮮 咸興 (ハムフン) の興南沖水域で核爆発実験を行っていた」と掲載されています。
1939年~1940年の間、中国の遼寧省でウラン鉱を発見し、その後、日本国内で核兵器を製造して実験を進め、ウラン鉱を盗んで空輸を始めたと、中国の公式サイトに掲載されています。
朝日新聞は1944年7月9日付けで、日本の原爆保有を報道していました。
原爆は飛行機から投下されていなかった!!
「原爆は飛行機から投下されていない」という証言があります。
8月6日、広島上空約500メートルを、紫電改で飛んでいた元海軍航空隊、本田稔少尉の証言です!
「広島市内が見えていた時、爆風が下の方から来て吹き飛ばされ、舵がしばらく取れなくなった。そして前を見ると真っ白い光る雲が上がっていて広島市内が消えていた。
私はエノラゲイ・B29を見てませんし、空中から爆弾が落ちたとは思ってないんですよ、下(地上)から爆風が来たので…」
B29 : エノラゲイ最後の乗組員の証言
広島原爆投下機、B29 エノラゲイの乗組員で最後に生き残ったヴァン・カーク氏は、日本の取材AERAに対して気になる意味不明の言葉を残しました。
その言葉とは「物事には諸説ある。一部は事実だし、真実でない情報も紛れ込んでいる。実際に何が起こったかの詳細は、あなた方は決してみつけられはしないさ」と・・・
これはB29-エノラゲイが広島に原爆を投下したのではない秘密の暗示だった。
日本人が知らなくてはならない本当の昭和史
http://kisarazu.org/?page_id=35
前日、広島の支配層には大型爆弾破裂の知らせがあり、誰も死んでいません。大衆は空襲警報解除で街中に出され、被曝の実験台にされました。
市民は犠牲になり、支配層は生き残ったのです。
広島の萬代橋には、原爆の光源が下から上へ移動した軌跡が残っています。
日本で原爆を開発している槌田敦さんは理化学研究所の研究員でもあります。
槌田さんはこのように語っています。
「大きな原爆なら作れます。しかし、飛行機で運ぶことは重くて不可能でしょうという提案。」
そして、仁科 (芳雄)、武谷 (三男) が作った原爆と一緒のものが広島原爆と言っちゃってます。
アインシュタインがルーズベルトに宛てた手紙
1939年、アインシュタインとシラードがルーズベルトに宛てた手紙には、「爆弾を航空機で運ぶには重すぎる」と書かれています。
「船で運ばれ港湾で爆発されるこのタイプの爆弾は、たった一つで、その周辺の領域と港湾全体を見事に破壊するでしょう。ただし、こうした爆弾は航空機で運ぶには重すぎることを見事に証明するでしょう。」
NHKスペシャルでは、封印された原爆報告書について報道されました。
都築教授が被爆者を使ったある実験で、治療とは関係のない検査を毎日行っていたことがわかりました。人体実験です。
朝日のザ・ドキュメンタリーで都築教授が「天皇の要望されることに従って」と語っています。
原爆は地上(水上)起爆だった!!
原爆はB29エノラゲイから投下されて爆発したものではなく、広島原爆は原爆ドームの横を流れる元安川、長崎原爆は浦上川で水上爆破されたものです。
原爆は米軍によって投下されたのではなく、日本製の原爆を戦艦にて広島・長崎まで運び、地上(水上)起爆させたのです。
その実行犯は、米国の工作員であった裕◯天皇と大日本帝国海軍。
壁に焼きついた花が爆心地付近で発見されています。これは上空起爆ではありえない事。上空起爆なら地面に焼きつくはずですね。
原爆が炸裂したのは、なぜ初めに広島だったのか?
裕◯天皇と大日本帝国海軍は、アジア開放を行っていた陸軍を何とか壊滅させようと考えてました。
その陸軍が招集されて集まっていたのが、広島だったのです。
(当時、陸軍は広島に招集され、無意味なことをやらされていました。)
一発の原爆により、陸軍を壊滅させることが可能だったのではないでしょうか?
東京裁判で、天皇と海軍は戦争責任を逃れるために、陸軍にその責任をなすりつけました。
戦犯とされ処刑されたのは、東條英機を含めすべて陸軍でした。戦犯に海軍は1人もいませんでした。
このブログ作成にあたって、
「エンドゥ一日一食 OMAD」さんの動画
「ボーっと生きてんじゃねえよ!」さんのブログ
を参照させていただきました。
https://rakusen.exblog.jp/26284880/
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