服飾と私
こんにちは。銀野塔です。自分と服飾をめぐる雑感(と、川野芽生さんへのファンレターめいたもの)を。
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約三年前に書いた記事で私は自分の身につけるものについて「身体性をコーティングして、私という存在をある意味記号化してくれるような服やアクセサリーや持ち物」を選ぶ傾向があり、どうコーティングしてどういう記号として見せようかというコーディネートを考えるのが楽しくなってきた、といった話を書いた。要するに私はかなりある意味概念先行で服飾品を選ぶ傾向があり、それを楽しんでいるということだ。こういう色柄テイストのものが欲しい、それによってこういう雰囲気を作りたい、というような。コスプレほどはっきりしたキャラクター性はないものの、コスプレにある意味方向性は近いと思う。和洋折衷コーデを始めた話も以前書いているが、和洋折衷コーデもそういうテイストを作るのが面白くてたまにだがやっているわけである。
そんな中、数か月前に歌人であり小説家でもある川野芽生さんのエッセイ集『かわいいピンクの竜になる』(左右社)を買った(ちなみにサイン本)。服飾にまつわるエピソードとそれをめぐる川野さんの思索や経験の話が集められている。川野さんはロリィタファッションをするようになった方だが、私も上記引用記事でもちょっと触れたように、実際にはしないけれどロリィタファッションに精神的な親和性はあると思っているので、読んでいて私なりにすごくわかると思うことが多かった(川野さんほど頻度高く着るわけではないけれど、私の場合ロリィタファッションに当たるものが和洋折衷コーデというかたちで出ているのかもと思う。するのにちょっと勇気が要るけれど、誰かのためでなく、この服装をする自分を肯定するための服装というような)。川野さんの、身体性、恋愛や性にまつわる志向性、価値観などにも共鳴するところが非常に多い。ちょっと服飾の話から逸れるが、川野さんの短編集『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社)の中の『卒業の終わり』という作品、これはおそらく川野さんの実感をもとに綴られた物語だと思うけれど、そうだとしたら、親子だとしてもおかしくないくらい私より若い川野さんでも、まだ私が感じたような違和感―つまり、若い女性に対するある種の偏重がある社会、でありながら同時に「若い女性」であること以外の価値は無化され、また容姿によるヒエラルキーに勝手に当てはめられ、獲得されるターゲットとして当然視されてしまうような社会に対する違和感―をおぼえるような社会のままなんだ、ということにちょっと頭がくらくらした(表題作『無垢なる~』も別の意味で身につまされる話だったし、この本や他の本でも川野さんの作品における視点や思索は鋭くて好きだし共鳴する要素が多い。歌集『Lilith』(書肆侃侃房)も好き。要するにファンだ)。
全体のトーンとしても共鳴する要素が多いし、それにまつわるディテールにおいても、たとえばピンクが好きなんだけれどそれはぶりっこだと思われるとか従順な女性とみなされがちということに対する複雑さであるとか、結婚する気はまるでないがウェディングドレスは着たいのだということとか、少年装をすることもあるけれど別にそれは異性になりたい願望というわけではないとか、私にとっては「そうそう!」であった。ピンクを身につけていて「あらピンク、珍しい。似合うのね」的なことを云われた記憶が何回かある。多分私の性質から云って「ピンク? けっ」と思っていそうと思われていたのだろうが、私は子どもの時からピンクが好きだし似合うのも知っている(もちろんピンクといっても幅があるので好きなピンク似合うピンクの一定の範囲はあるが)。でもたしかに一般にピンクが好きというと連想されそうな「女の子らしさ」みたいなものを自分が持っているとは思わないしピンクを身につけることによってそれを演出したいわけではない。結婚は、以前はするかもしれないと思っていたがある時期以降完全に「ねえな」になり、でもウェディングドレスというものは衣服としては着てみたいという気持ちは残った。ボーイッシュ、ないしはマニッシュな格好をしたいと思うこともあり実際にある程度はすることもあるが別にそれは男性になりたいわけでも「男装」という感覚でもない。ただ私が、好きだから、そういうテイストの服を着るというだけである(そういえば数年前「イギリスの良家の子弟が履いてそうな、膝下丈くらいのニッカボッカーズが欲しい」という非常に概念的な欲求にかられてネットで探し、色、形、丈とも理想的! しかもお値段も手頃、というのを見つけてとても嬉しかったことがある)。
川野さんほどいろいろな面で徹底してはない(し、川野さんと違って化粧はせいぜい色つきリップくらいだ)けれど、服飾についてあれこれ考えたり実際に身につけたりするのが、生まれてこの方、今が一番楽しいような気がしている。多分「女性の若さ」が偏重される社会の中にあって、年齢的に人より早くグレイヘア移行したりしたこともあって、若い女性が偏重される価値観とかと完全に関係ないところに行きましたよ、という感覚が自分の中でもしっかりできてきた分、身につけるものは以前よりずっと「なんでもあり」感が出てきたというのが大きいと思う。といっても小心者ゆえ、それほど大胆なことができるわけでもないし、好きなものをばんばん買うような経済力もないので、どちらかというと手持ちのものを活かす方向で、できる範囲でだが、そして私の場合外出機会自体がとても少ない(日常の買い物などは面倒くさがりの方が勝つので判で押したように同じ格好で行ってたりする)のでコーデを楽しんで考えても実践する機会が少ないということでもあるのだが、これからも楽しんでゆきたい。
余談だが、最近つくづく思うのだが、私は「組み合わせを考える」のが異様に好きなのではないだろうか。言葉を並べるのが好きだから詩歌を書いている、書いた詩歌を組み合わせて作品集を編むといったことも好きだ、という話は以前も記事に書いた。服飾関係が楽しいのも「どう組み合わせるか」ということを考えることなわけだし。あと、私はたまに突発的に何かを作ったりすることにハマることがあって、それも「組み合わせ好き」の発作の一つのかたちかもしれない。ここのところしばらくひょんなことから隙間時間にアクセサリーや小物を作ることにハマってしまっている。子どもの頃などに買ったりもらったりしてそのままだったビーズ類とかがあったというのが大きいのだが、ビーズやパーツを若干買い足したりもした。あと、手持ちの装飾品で「このままのかたちだともう使わないけれど、このチャームを外してこれに作り替えればいけるかも」といった、魔改造の夜(違)的なことも若干したり(副産物的に、持っていたアクセサリーでちょっと金具が壊れていたものが自力で修理できたり)。しかし面倒くさがりと不器用ゆえ、そんなに完成度の高いものや凝ったものはできない。でも、ビーズやパーツをどう組み合わせてどういうものにしよう、とやってゆく過程が楽しくてしょうがなくて、実際に使う機会があるかどうかとは関係なく、いかにも素人のハンドメイド品ですね、というものが積もってしまった。特に、根付が、和洋折衷コーデもそうする機会がなく、帯をまがりなりにも締めるコーデを実践したのはまだ二回だけなのに、そんな頻度から考えると何年分あるんだよ、というくらい増殖している。根付って組み合わせの自由度が高く、小さくてすぐできるし、ストラップでもいいのだがストラップだといろいろなものの摩擦とかあるだろうから飾りの強度をある程度気にしないといけないだろうが、根付だとそこまでないしということでついつい作ってしまうのだった。
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