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「あらわしたい」と「ならべたい」

 こんにちは。銀野塔です。
 私が詩歌を書く理由についてはひとつ前の記事でも少し触れましたが別の側面から。よろしければどうぞ。

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 ひとつ前の記事で、私が詩歌を書く理由のひとつは「通常の、伝達と理解を前提にした言葉の世界で疲れているところがあるから」ということを書いた。それは私の経験とそれにまつわる心理から見えてくる側面なのだが、それ以前の、もっと素朴なところで「あらわしたい」という欲求がある。この「あらわしたい」という欲求は、気づくと自分の中には当たり前にあったものなので、そういう欲求が他の人にどのくらいあるのか、ない人もいるのか、など実感的にはどうもつかみづらいのだが、とにかく私には「あらわしたい」欲求が物心ついたときにはもうあって、最初は主にお絵かきという形であらわれていたのだが、言葉をそれなりに使えるようになると言葉による表現の方がメインになっていった。
 なぜ自分がそんなに「あらわしたい」のかよくわからない。以前出した五行歌集『硝子離宮』(市井社)のあとがきに「過剰な自意識をちぎっちゃ投げちぎっちゃ投げしないと気がすまないたち」という話を書いたのだが、で、それはそれで間違っていないのだが、なぜ自意識が過剰なのか、それがなぜ書くというかたちを取るのか、ということは分析してみても根源的なところに至るのは難しいなあと思っている。ただ、以前「自分はそこそこハイパーグラフィア(書きたがる脳)らしい」という記事を書いたが、そこでも述べたように、ある程度遺伝的、生得的(父もハイパーグラフィアっぽい人だった)なものかなと思っている。とにかく、言葉で何かをあらわしたい欲求が強い(ついでに云うと、以前どこかで、詩歌を書く人にも「伝えたい」タイプと「あらわしたい」タイプがいるという話をしたことがあって、もちろん明確に二分化はできないにしても、私は「あらわしたい」に比重があるタイプ。ひとつ前の記事に述べたことと関係するけれど「伝わらなくてもいいからあらわしたい」という動機で書いている)。
 あともう一つ、これも『硝子離宮』のあとがきで触れた話なのだが、自分の中に子どもの頃からある欲求として「ならべたい」ないしは「配置したい」というのがある。ままごとの道具なんかを並べて遊ぶことが好きで、並べること自体が楽しかった。他にも、意味なく自分の好きな本を並べて眺めてたりとか。それが「言葉を並べたり組み合わせたりすることが楽しい」につながって詩歌を書くようになったような気がしている。これもひょっとしたら遺伝かなと思うのは、母が、書き物は特にする方ではないのだけれど以前パッチワークが得意だった(年老いてからはしなくなったが)。といっても特に込み入ったデザインのパッチワークをやっていたという意味ではなく、娘が云うのもあれだが、どの布をどう組み合わせるかの配置のセンスはあったと思う。で、母と一緒にパッチワークをしていた人が何人かいたのだが、母いわく「他の人は配置を決めるところをやりたがらない」とのこと、私は「え、そこが一番面白いところじゃん!」と云った記憶がある。私は不器用なのでパッチワークそのものをやりたいとは思わないが、配置を決めるところだけなら面白そうなんでやりたいと思う人である。
 とにかく並べ好き、配置好きというところがあって(なのだが、なぜか部屋の中は全然センス良くものが配置してあるとかではなく雑然としているのだが)、だから、詩集『錬銀術』を作る過程の話でも書いたが、言葉を配置して詩歌を作ることも好きだし、自分の書いた詩歌を編集して何らかの作品を作るということもすごく好きなのだ。並べるという快感が私を大きく衝き動かしている。考えてみれば、ままごとの道具とかだと、並べても、そのうち片づけなければいけないわけだが、言葉の作品は作ってしまえば片づける必要はないというメリットもある。
 もちろん、詩歌を書くときに「あらわしたい」と「ならべたい」は密接不可分ではある。でもその二つの衝動が私の中でまったく同一のものではない。その両輪が、私の詩歌を駆動しているという感じ。
 この「あらわしたい」と「ならべたい」が本当に遺伝的生得的なものなのかは本当のところは突き詰めようもないわけだが、これがあるために私は詩歌を書くということが出来るわけで、詩歌を書くことは自分にとって楽しい、もちろん思うように書けなくて苦しいということもあるわけだが、それも含めて詩歌の楽しみだと思っているので、そういう自分であることについては感謝したいなと思っている。

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