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私が詩歌を書く理由のひとつについて

 こんにちは。銀野塔です。
 詩歌を書く理由のひとつについて、またいつもながらとりとめない長文ですがよろしければどうぞ。

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 詩歌を書く理由はいろいろなことが絡み合っていると思う。そのうちのひとつとしては「詩歌以外で通常使う言葉に疲れている」ということがあるのかなと最近あらためて思った。
 言葉は、ものすごくざっくりと云えば、たいていの場合「伝達と理解のため」に使われていると思う。話し言葉であれ書き言葉であれ、カジュアルなものであれ形式張ったものであれ、受け手を想定し、その受け手に何かを伝えて理解してもらうために発されている。日常の会話なんか典型的にそうだし、講義とか講演とかももちろんそうだし、広告や説明書や記事の言葉だってそうだし、小説やエッセイなどの多くの文学もそうだ。
 意識的にであれ無意識的にであれ、言葉は受け手を想定し、その受け手に伝わるように選ばれて発されている。というか、それが言葉の機能だとおおざっぱに云って差し支えないだろう。
 たとえば誰かに何かを話して、それが「理解された」と感じればそれは大なり小なり達成感があるものだと思うし、また誰かの言葉を「理解できた」と感じたときもそれはそれで達成感だと思う。伝わらなかったと感じたときは言葉を変えてみたりする。もちろん伝わらないものとあきらめることもある。
 私は多分、言葉を使うことが得意な方ではあるのだと思う。語彙も多い方だと思う。しかし、だからといって、言葉によるコミュニケーションがうまくいっているのかというと、そうだとは云えないのだ。
 たとえば、日常の会話の中では、普通はお互いある程度短い言葉でやりとりがなされる。またネット上などでも、SNS上のやりとりだと特に「短く端的に云えたもん勝ち」みたいなところがあると思う。だが私の場合、性格がくどいので「それについてはこの立場から見るとこうなんだけれど一方でこの角度から見るとこうだし云々」となってしまうことが多くて、端的にぱんと言葉にできることってなかなかない。だが自分の考えていることをもらさずに言葉を尽くしてたとえばブログなどに書こうとするとそれはそれで時間とエネルギーがかかる。それを読んでもらえて誰かに理解してもらえるのかどうか、ということを別にしても、それだけの時間とエネルギーを割く元気というのは私の場合そうそう出てこない(ので、このnoteに書きたいと思っているネタもいくつもあるのだが溜まってゆく一方である)。
 あと、言葉を尽くせば理解してもらえるかというとそうでもなくて、どんなに一生懸命言葉を選んだりしてみても、伝わらないことってあるわけである。それは当たり前と云えば当たり前のことなのかもしれないが、なんというか「ああ、これだけ云ってもこのひとには全く私の意図することは伝わってないんだな」と感じるあの徒労感……そういう思いをするのがイヤになっているところは正直ある。
 それは云ってみれば、相手が悪いのではなく、また私の言葉の選び方が絶対的に間違っているのでもなく(そういうこともあるかもしれないが)、なんというか、その話を理解してもらうための共通基盤がお互いの間にない、ということなのだと思う。
 共通基盤というのがコミュニケーションを大きく左右することは云うまでもない。そもそも言語自体が共通基盤として大きい役割を果たす。私の場合やはり日本語話者どうしでないとコミュニケーション能力はほとんどゼロになると云っていい。それ以外にも共通基盤としてたとえば文化であるとか、住んでいる地域の話題であるとか、個人的な興味関心の持ち方であるとか、いろいろあると思う。たとえば、同じ趣味を持っている人どうしだとすごく話がよく通じるのに、そうでない相手に自分の趣味の話をしても全然受け止めてもらえなかったとか、そういう経験をした人は多いと思う。
 私の場合、この共通基盤を相手と持てる確率が、人並みに比べて低いのかな、という感じがしている。
 子どもの頃や若い頃「変わっている」と云われた(あるとき家庭訪問に来た担任の第一声が「変わった雰囲気のお子さんですね」だったことがある)。でもその頃は、自分を相対的に見る力がまだなかったから、自分が「変わっている」のかどうかがわからなくて憤慨していたりもした。だけれどもそのうち「人が『変わっている』というからには私にはそういう要素があるんだろうな」と思うようになり、年を経るごとに、いろいろと人の性格や気質などについて知るようになって、どうやら自分の性質はどちらかというとマイノリティだぞ、という認識に至るのだった。
 どこがどういうふうにマイノリティかという話をしだすとまた長くなるのでここでは省くが、そういうわけで相手と共通基盤がないことも多々あり、だからといって共通基盤を築くところから始めるのもエネルギーのいることだし、だいたいそれを始めると相手にとって私はただの面倒なやつになってしまうではないか(だいたいこの文章がすでに面倒なやつの書く文章である)。
 もちろんこれは当然逆もあり得るわけで、相手から見て私が「話が通じないやつ」ということも多々あるだろうと思う。なんだか申し訳ない。

 だからといってもちろん別に全てのコミュニケーションに徒労感があるというつもりはない。これまで私なりに、充実したコミュニケーションも経験してきたつもりである。
 ただ、やはり言葉によるコミュニケーションの世界での疲れは一定程度いつもあるもので、だから、私は詩歌を書くのだろうと思う。
 けれどそれは、普段コミュニケーションがうまくいかない内容を詩歌に書くのだ、ということではない。むしろ、私にとっての詩歌の魅力は「伝達と理解のための言葉」という前提を外せることにある。
 もちろん、人によって詩歌をどう定義するか、詩歌にどういうものを求めるかは異なる。ただ、私にとっては、詩歌とは、通常のコミュニケーションとは違う、伝達と理解を前提としなくてもいい言葉の使い方が許されている場所、だと思っている。私は私があらわしたいと思うことをあらわす、それは伝わらなくても理解されなくてもいい、ただそういうものとしてそこにあればいい。
 もちろん、多くの人と共有している言葉というものを使って書くからには「読む人」を全く想定していないわけではない。ただ、理解されるとかより、波長の合う人に(私という書き手に対しての波長でも、個々の作品に対しての波長でも)受け取ってもらえたらありがたい、という感覚である。
 私が、詩歌に感情や思考をそのままにあらわすような表現をあまりせず、イメージ化することを重視している理由も多分ここに根ざす。思考や感情だとやはり「伝達と理解」のための言葉になってしまいがちなのだ。そうではなくて、私はただあらわしたいことをあらわしたい、理解とか伝達に縛られたくない。もちろんイメージのもとが思考や感情に根ざしていることは多々あるけれど、詩歌になったそれは、そのもとになった思考や感情を見抜いてほしいという願望を含んでいない(ゆえに、私の意図と全く違った解釈をされてもそれはそれでいいのだ。むしろその人の中でそのイメージが自由に展開してくれたら嬉しい)。
 そういう、詩歌という場があることで、私は「伝達と理解」の言葉の世界で少々疲れても、息をつくことができるのだと思っている。

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