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私の詩歌に出てくる色彩と松本隆氏

 こんにちは。銀野塔です。
 豪雨や突風の被害の被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。避難やその後のことがよいかたちで進みますように祈っております。まだしばらく雨の時期は続きそうです。被害が出ていなくても地盤がゆるんでいるところなどもあるかと思います。引き続き皆様お気をつけて過ごされますよう。

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 先日、五行歌の筆名南野薔子で、栢瑚五行歌部(仮)のnoteに「五行歌と色彩と私」という記事を書いた。私は、詩歌を書くときに、色名や色を連想させる言葉を意識的に使うことが多いという話。私は、詩歌を書く動機として「イメージを呈示したい」というのが強く、それが視覚的イメージだった場合特に、色が重要な要素になってくることが多いので、という話。で、そうやって入れた色彩が、私の思うような効果を読み手の方に実際に伝えているかどうかは別だが。
 なぜ私がそうやって「色が重要なポイント」と考えるようになったかということをつらつら考えてみるに「十代の頃に松本隆氏の歌詞を浴びて育ったからではないか」と最近思った次第である。
 今年は松本隆氏の作詞家生活50周年ということで、雑誌などにいろいろと特集が組まれていたりして、私が接したのはおそらくそのごく一部なのだが(SWITCH誌など)、あらためて私がいかに松本氏の歌詞の世界に影響されてきたかを再確認している今日この頃なのである。
 そして松本隆氏の歌詞には「色」が印象的なものが多い。テレビ番組「石橋貴明のたいむとんねる」でもたしか「言葉の36色鉛筆」みたいに喩えられてなかったか。「普通は12色なんだけど」みたいな感じで。
 私が触れてきた松本氏の歌詞は大瀧詠一氏と松田聖子氏関係が多いのだが、大瀧詠一氏の「君は天然色」ってもういきなり色彩そのものが重要ポジションである。松田聖子氏には「白いパラソル」「赤いスイートピー」「ピンクのモーツァルト」とシングルのタイトルで色名が出てくるものもあるし、歌詞の内容にも色が印象的なものが多い。「渚のバルコニー」の「右手に缶コーラ 左手には白いサンダル」、「時間の国のアリス」の「鳶色のほうき星」、B面の名曲と云われる「制服」の「真っ赤な定期入れ」、そして私が大好きなシングルの「ガラスの林檎たち」の冒頭「蒼ざめた月が東からのぼるわ 丘の斜面にはコスモスが揺れてる」そして最後の方の「せつなさも紅を注(さ)してゆくわ」この水彩画のような美しさよ。あとちょっと不思議だなあ、と思ったのが「白いパラソル」の「青空はエメラルド」という表現。青空は青く、エメラルドは緑なのに、なぜ「青空はエメラルド」なんだ、と思った。でも、青空のイメージとエメラルドのイメージがオーヴァーラップするとき、そこには単に明るいだけの青空ではない、透明感がありながらちょっと翳りもあるような色彩が見えてくる。
 「たいむとんねる」では「実際には存在しない色の表現」というのも触れられていたかと思う。松田聖子氏の「瞳はダイアモンド」の「映画色の街」とか。大瀧詠一氏の「恋するカレン」の「せつない色のまぶた」も好きな表現だ。
 といった具合に挙げてゆくときりがなくなるのでよすが、こういった多くの曲たちから私は「色彩イメージが詞の世界を構築するときに果たす力」を思い知ったのだと思う。
 詩歌の書き手としての私は松本隆氏とは違う方向に行っていると思うし、上にも書いたように私の詩歌の中の色彩が効果を上げているかは別問題なのだが、松本氏の歌詞を聴いてきた、ということをあらためてしみじみありがたく思っている次第である。もちろんそれは色に関することだけではないのだが。

 余談だが、私はポストカードを集めている。といってもレアものを探して歩くコレクターとかではなく、ただ漠然と、雑貨屋さんとか美術展とかに行ったときに、気に入ったものがあれば買う、という感じである。下の写真は十代の頃に入手したものだ。

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 で、私は松田聖子氏の「渚のバルコニー」でこのポストカードのイメージが浮かんでしまうくせがある。このポストカードの入手と「渚のバルコニー」のヒットの前後関係はちょっとよくわからないがいずれにしてもそう離れた時期ではなかったのだろう。しかし歌詞は「ラベンダーの夜明けの海」である。このポストカードの色彩は「ラベンダー」ではまったくない。なのにどうして結びついてしまったのか、謎のままである。

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