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「あの人と比べてもっとすごいことをしてやろう」の正体は何なのか?

松田聖子が中央大学法学部通信教育課程を卒業したというニュースが流れた。
あっぱれである。
正直すごい。
62歳にしてその集中力、気力、体力。
私が卒業したのは40歳のとき。それでもヘロヘロだった。
もっとも、当時は卒論が必須だった。今はないらしい。それは相当助かる。

・・って、ここで張り合おうとする自分が情けない。

双子がまだ小学生で、夏のスクーリングの際には帰省して、二人を両親に任せ、実家から八王子のキャンパスまでほぼ始発で通った。片道約二時間半。大教室の中でいい席を取るために。
そうそう、学割が使えるのが気分よかったな。

聞くところによると、今年の卒業式は後楽園キャンパスだったようで、もしかしてスクーリングも文京区でやるようになったのかなあ。
だとしたら、通学もかなり楽だったのに。
(調べたら、法学部は茗荷谷キャンパスになった模様。えーいいなあ。)
当時は八王子キャンパスまで、毎日高尾山に登りに行くような気分で電車に揺られていた。

中央大学法学部通信教育課程のメリットは、なんといっても学費が安いこと。
それでいて、通学過程と全く同じ教授陣から講義を受けることができる。
現在は値上がりして年間八万円(それ以外にスクーリング費用等が必要)らしいが、それでも四年生大学としては破格の安さだ。

ただし、実際に卒業するのは至難の業。
私は学士入学だったのでまだしも、聖子さんは一般教養課程からだろう。それを最短の四年間で卒業となると、相当の努力をしたものと想像できる。
レポート提出は教科書や専門書を読み込んで、時間をかければ何とかなっても、試験は一発勝負。短期スクーリングの後に受ける試験の場合は、講義の中で「このへん出すよ」とヒントを出してもらえることが多いが、たいていは膨大な範囲の中からどこが出るかさっぱりわからない状態で臨む。論述式がほとんどで、「時効について述べよ」とか、そんな感じだ(った)。

忙しい生活の中でレポートを書く時間がなかなか取れず(まとまった時間が取れないのが一番の悩み)、一度は卒業を諦めかけた。そんな時に、たまたまスクーリングで知り合った「あとは卒論を残すのみ」という先輩が、「絶対に諦めちゃだめ。何が何でもやり遂げて!」と励ましてくれたので、どうにかこうにか必死に食らいついて卒業にこぎつけた。
オールAに近い評価を取り、卒業式では成績優秀者として壇上で表彰され、その姿を娘たちに見せることができたのは懐かしい思い出。

がんばったと思う。
私もがんばったはずなのだけど、聖子さんが卒業したなんて聞くと、(えーやっぱりもっと難しい試験に挑戦すればよかった!)と思ってしまう、この「やっぱり」って何なの?
この張り合う感じって何?
そんな自分が本当に嫌。

有森裕子さんがアトランタ五輪で銅メダルをとった時に、「初めて自分で自分をほめたいと思いました」と仰ったことに憧れ、私もいつか自分で自分をほめたいと思えることをしたいと考えていた。
パソコン抱えたまま、娘たちの布団に倒れ込んで寝落ちするような生活をしながら、無事に卒論を書き上げ卒業することができたら、そんな気持ちになれるかなと期待していたのだが、全然そんなことはなかった。友人にも「akarikoなら当然でしょ」とクールに言われてしまった。
何を根拠にそんな自信があるのか自分でもわからないが、「私ならこれぐらい当然」と思ってしまったのだ。

「自分で自分をほめたい」と思うほどすごいことって何だろう?法学部を出たとなると、頭に浮かぶのはやはり司法試験。
そもそも私が法学部に行こうと思ったのは、心理学科の学生だった頃からずっと携わってきたターミナルケアやグリーフケアのセミナーで、とある医師が「人の死の場面には法律が絡む問題が少なくなく、グリーフケアの心得のない法律家が遺族の悲嘆をより深刻なものにしている」という訴えを聞いたのがきっかけだった。ならば、グリーフケアのわかる法律家になればいいじゃないか、と。
卒論の担当教官には、「心理学の分野から刑事政策に携わっては?」と大学院進学を勧められたこともあり、迷っていたところにグリーフケア研究所が開所されるというニュース。
一度は、法律の世界から心理学の世界に舞い戻った。そこで大きく落胆する出来事があり、そちらの方面にはキッパリ背を向けることになったのだが。

そんなふうに行ったり来たりしているうちに、旧司法試験制度が終わってしまい、予備試験なんていう厄介なものが入り込んできた。それでもチャレンジするつもりでいたのだが、そこへ降ってきたのが病。50代の入口だ。
その時点で、それ以上の成果を諦めた。

そう。
あの時は、「生きているだけで素晴らしい」確かにそう思えた。自分で自分をほめるなんていうふわふわした次元の感覚ではなく、空を見上げるだけで嬉しい、町を歩けるだけで楽しい、そんな純粋な気持ち。
机に向かって肩をバリバリにする生活はもうやめ。行きたいところに行き、見たいものを見て、美味しいものを食べる。今のうちに。そう思ってワクワクしていた。勉強なんかどうでもよくなった。
それが、二年、三年・・と過ぎていくうちにどうだろう。
いつの間にか、「あの人と比べてもっとすごいことをやってやろう」の自分が戻ってきてしまった。
就職を機に宅建士の試験を受けるという娘と一緒に試しに受けてみたらすんなり受かってしまったことも影響している。翌年、予備試験への足がかりとして行政書士試験に挑戦し合格。行政書士試験もそれなりに難しいので、合格すれば満足するかな?と思ったが、またもや全然だった。
やっぱり予備試験しかない。予備試験に合格すれば、きっと、自分で自分をほめたいと思えるはず。
そう考えて準備を始めたのだが、次から次へと災難は降ってくるもので。

というか「言い訳」ね。

極め付けは夫の膵嚢胞による膵頭十二指腸切除術。
夫の手術が決まってから、毎日のように手術のリスクや合併症について調べてはガクガクと怖くなり、起きていないあれやこれやを想像しては鬱になり。
夫の手術が無事に済んで、夫が回復してきた頃にはまだ、その翌年の試験を受けようという気がなくもなかったのだが、年末に父が亡くなり、それによってすっかりやる気の糸が切れてしまった。

もういいや。
やめた。
これからは楽なことだけして生きる。
あきらめた。

そう思ったのは確かなのに、「あの人」の成功を耳にするたびに、どうして私はもっとできないのだろう、なんでやらないのだろう、「あの人」よりもっとすごいことをしてやるんだ!というおかしな自分が姿を現す。

「あの人」って誰?
どこの誰?

人と比べることに何の意味があるの?

https://note.com/touno_akariko/n/n80389a288765?sub_rt=share_pw

自分でこんな記事も書いているのに。

病気がわかり、手術をすることになって、命には限りがあることを改めて意識したあの日、私は真に幸せだった。その時、その瞬間を生きていることが本当に幸せだった。アスファルトの感触が自分の足に届いていることが。頭上に広く青空が広がっていることが。それは具体的な何かを成し遂げることよりも、はるかに確実に、私の心に安寧をもたらすものだった。
ずっとそうならば幸せなのに。幸せなはずなのに。
なぜ正体のない競争に、自らを引っ張り出そうとするのか。そうならないように心を保つにはどうすればいいのか。
山崎ナオコーラさんの新刊が一つの答えを示してくれそうで、読むのを楽しみにしている。

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