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「崔杼弑君」~中国人の歴史にかける覚悟

「三国志」「史記」をはじめ、中国史の虜となる人は多くいます。悠久の歴史の中には、人生の教訓や創作の題材などが無数に存在します。

 中国には、歴代王朝が公式に記した歴史書や在野の学者が編纂した「野史」など、膨大な史料があります。
 中国人は、世界でもまれにみる「記録魔」だったと言えるかもしれません。

 中国人が歴史に対して特別な意識を持っていたことについては、次のエピソードが良く知られています。

 紀元前6世紀、春秋時代の斉の政治家・崔杼さいちょをめぐる話で、出典は『春秋左氏伝』です。

 斉の政治家・崔杼は、斉の君主の地位に荘公を擁立し、実権を握っていました。しかし、荘公が崔杼の妻と密通したため、怒った崔杼は荘公を殺害。代わりに景公を擁立しました。

 臣下が主君を殺すことを「しいす」と言います。

 斉の太史(記録官)は、荘公の殺害後に「崔杼弑其君(崔杼、その君を弑す)」とありのままを記しました。崔杼は怒り、その太史を殺しました。崔杼にとって不名誉な事実が後世に残ってしまうからです。

 その後、太史の地位についた弟も同じことを書いたため、同様に殺されました。

 しかし、彼らの弟も同じことを記したため、崔杼はついにこれを許しました。

 また、二人の太史が殺されたことを知った別の記録官が、同様のことを書いた竹簡を携えて駆けつけました。しかし、事実が無事に記録されたことを知り、矛を収めて帰ったとのことです。

 登場する歴史記録官たちは、生命を奪われる覚悟で歴史を記していました。その凄みには鬼気迫るものさえ感じます。

 彼らの名前は史書に一切残っていませんが、彼らの行為は「崔杼弑君(崔杼、君を弑す)」という故事として歴史に刻まれています。

 


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