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広島城~西国の覇者の城の楽しみ方

 広島城は、毛利輝元が太田川の河口に築いた近世城郭です。関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れると福島正則が入り、福島氏改易後は浅野氏の居城となりました。

 明治以降も、天守や表御門、太鼓櫓といった貴重な建物が残っていましたが、1945年8月6日の原爆投下によって全壊。残念ながら現存建築はありません。


二の丸の防御上の役割とは

 現在の城址公園の入口にあたる表御門は、平成時代の再建です。ここから二の丸に入ることができます。
 現在、広島城の遺構は本丸と二の丸程度しか残っていません。下図の左側に突き出た部分が二の丸です。

広島城案内図

 曲輪の外につくられた小さな空間を馬出といい、城兵を置いて敵を攻撃したり、敵兵を誘い込んだりするのに使います。
 広島城の二の丸は、本丸の馬出の役割を果たしています。二の丸が馬出になっているのは、全国的にも珍しい構造です。

復元された建物

 二の丸には、表御門・平櫓・太鼓櫓・多聞櫓が木造で再建されています。

中央の長い建物が多聞櫓、左奥が太鼓櫓
内部は資料館になっている

本丸の防御構造

 中御門(本丸の正門)は、入ってすぐ右に折れる桝形虎口になっています。

 中御門も原爆で焼失。石垣に歯、原爆の時に赤くひび割れた石が残っています。

 本丸はほぼ正方形をしており、北西の隅には天守があります。他の隅にも櫓がありましたが、今は櫓台だけが残っています。

 休日なので混んでいましたが、曲輪の隅をたどっている人はほとんどいませんでした。一見して地味ですが、櫓台を見ると「城をどのように守るつもりだったか」が分かってきます。

知られざる歴史的遺構

 本丸の北東部には、「崩された石垣」という遺構もあります。普通の旅行者はほとんど訪れませんが……

 広島城主となった福島正則は、幕府に無断で城を改修したとして武家諸法度違反に問われました。正則はやむなく石垣を取り壊しますが、幕府は「取り壊しを命じたのは別の場所である」とします。幕命違反として、福島氏は改易の憂き目にあいました。

 これは、福島正則の命令で壊された石垣であると考えられています。歴史が動くきっかけになった遺構が、意外なところに眠っているものです。

天守台の石垣にも注目

 本丸の北、石垣の下から見上げる天守も中々にかっこいいです。

 1958年に再建された天守は単独の建物ですが、本来は東と南に小天守が付属していました。

 ゆえに、現在の天守の東と南に突き出すように、天守台が残っているのです。

東小天守の天守台
南小天守の天守台

 毛利氏が築城した壮麗な五重天守が失われたことは痛恨ですが、現在の城址公園にも多くの楽しみが隠れています。


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