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ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第二番》は、本当にカウンセリングの成果だったのか?(前編)

 ラフマニノフの代表作であるだけでなく、古今のピアノ協奏曲の中でも屈指の人気を誇る《ピアノ協奏曲第二番》。

 ロマンティックで憂愁を帯びた旋律は、映画やフィギュアスケートなどでも使用されているため、クラシック愛好家でなくとも耳にしたことがあるでしょう。


ラフマニノフの経歴

 セルゲイ・ラフマニノフは一八七三年、ロシア帝国に生まれました。幼少から音楽の才能を発揮し、一八歳でモスクワ音楽院を優秀な成績で卒業。同期生には、同じく高名な作曲家であるスクリャービンもいました。ラフマニノフはピアニスト・作曲家として人気を博しましたが、一九一七年にロシア革命が勃発すると国外亡命を選びます。彼はその後二度と祖国ロシアの地を踏むことなく、一九四三年にアメリカで没しました。
 傑作として名高い《ピアノ協奏曲第二番》は、一九〇〇年から翌年にかけて、作曲者が二七~八歳だった頃に書かれました。この作品をめぐっては、次のような逸話が広く知られています。

《ピアノ協奏曲第二番》作曲をめぐる神話

 一八九五年、二二歳のラフマニノフは、大作《交響曲第1番》を完成させました。二年後の一八九七年、この意欲作はペテルブルクにて初演されます。しかし、この演奏は大失敗に終わり、聴衆の罵詈雑言を浴びました。作曲家で著名な評論家だったツェーザリ・キュイは、新聞紙上で「地獄の住人なら熱狂しただろう」「破たんしたリズム」「同じ身近な技法の無意味な繰り返し」などと、言葉を極めて酷評しました。


 失敗の原因は、指揮者のアレクサンドル・グラズノフにありました。彼自身も有名な作曲家ですが、ラフマニノフの作品の前衛性は理解していませんでした。しかも彼はアルコール中毒であり、ほろ酔いの状態で指揮をしたためひどい演奏になってしまったのです。


 この失敗に、繊細な青年ラフマニノフは大きな打撃を受けました。音楽家としての自信を完全に失い、極度のノイローゼ状態に陥った彼は、その後三年ほどの間作曲ができなくなってしまいます。


 一九〇〇年の初め、ラフマニノフは精神科医のニコライ・ダーリ(一八六〇~一九四〇)の治療を受けました。ダーリ博士は、催眠療法において「あなたの書きかけのピアノ協奏曲は必ず完成する」と暗示をかけます。少しずつ心の健康を回復したラフマニノフが完成させたのが、《ピアノ協奏曲第二番》でした。


 一九〇〇年一〇月、《ピアノ協奏曲第二番》はモスクワで初演されました。列席した音楽家たちはそろって作品を絶賛し、ラフマニノフは作曲家としてこの上ない名声を得ることになったのです。この作品は、ラフマニノフを治療したダール博士に献呈されました。

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