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『信長公記』の割とどうでもいい記述を紹介していく①~妖刀のたたり

『信長公記』は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将・太田牛一が書き残した史料です。桶狭間の戦いや長篠の戦いなど、信長の生涯のできごとを知るための基本史料です。

 記述も詳細で精度が高いと評価されていますが、通読すると面白いことに気づきます。

 若いころ「うつけ」と呼ばれた信長の奇行、斎藤道三と対面した逸話、浅井久政・長政父子と朝倉義景の髑髏を酒の肴にした――といった有名な話に混じって、世間の人々の噂になった事件など、大衆紙の三面記事のような記事がしばしば挟まっているのです。

 このシリーズでは、数回にわけて『信長公記』中の割とどうでもいい記述を紹介していきましょう。別に何の役にも立ちませんが、記録者の牛一や、世間一般の人が何に興味を持っていたかが分かると思います。

怪刀あざ丸のたたり(首巻の五)

 信長の父・織田信秀と、美濃の斎藤道三が戦っていたころ(1547年)の挿話です。

 織田・斎藤の合戦で討ち死にした千秋せんしゅう紀伊守は、平家の盲目の武将・藤原景清が所持していた名刀「あざ丸」を差していた。千秋の死後は、斎藤方の武将・陰山掃部介かもんのすけが差すようになったが、城攻めの時に城内から射かけられた矢が目にあたり、盲目になってしまった。

 その後、「あざ丸」は織田家の武将・丹羽長秀のものになったが、長秀も眼病を患った。「この刀を所持すると、必ず目を患う」と人々は噂した。そこで「あざ丸」を熱田大明神に奉納すると、眼病は治ったという。

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