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「フェミニズム批評」の発見〜北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』〜

『読みたいことを、書けばいい。』(田中泰延著)という本がある。内容を至極簡潔に要約すればこうだ。

”文章はライターになりたい、自分の考えを読んでほしいという目的意識のために書くのではない。「自分が読みたい文章」を書けばよい。そしたら自分が楽しいと思える。”

しかし「自分が読みたい文章」を自分で認識するのは、思った以上に難しい。ぼやっとしたイメージのままだと、「自分が読みたい文章」を書いているつもりが、いつの間にか他人に読んでもらうための文章を書いてしまう危険がある。

そんな中読んだ北村紗衣さん(以下著者)の『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』は、まさに「自分が読みたいもの」を明確に具現化したものだった。

本書は年間に演劇100本、映画館で映画を100本、本を260冊読む著者が、「フェミニズム」の視点からの映画や小説等の作品を「批評」したものを集めたものである。著者はシェイクスピアを専門としている研究者だ。過去に『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)、『批評の教室』(ちくま新書)等フェミニズム批評についての著作をすでに数冊出版している。

自分が読みたい文章の特徴

本書を通じて知った「自分が読みたい文章」の特徴は5点ある。

①一見関係ない話から始まる

本題とは関係なさそうな閑話休題から始まるが、実はそれが伝えたい内容をよりわかりやすくする補助線の役割をしている。

例)例えば本作のプロローグは突然、イギリスのバンドOasisのアルバム『The Masterplan』の話から始まる。面食らいながら読み進めると『The Masterplan』と本書の類似点を提示して、本書の特徴について説明する。

②簡潔な文体ながら、たまに登場する比喩が最適。

研究者らしく、著者の文体は簡潔で余計なものが過ぎ落とされている。しかしたまに登場する比喩によって作品の雰囲気を的確に読者に伝える。比喩とはそれっぽい文章を書くための装飾ではない。現場の雰囲気や空気感を臨場感を読者に最大限に伝えるための技法だ。

例えば映画『お嬢さん』(2016)と原作の『荊の城』の特徴を比喩を用いて以下のように表現している。

『荊の城』が冬の初めの霜が降りたイバラの茂みのような深い味わいがある風景で終わる作品だとすると、『お嬢さん』は増え放題の野バラが初夏に咲き誇ったところで終わっているような作品だ。

『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』p105,l8-l10

③アカデミックライティングの基礎が堅固な文章。

引用がしっかりしている。文章構造が論理的。そして専門用語を使う際は必ず最初に言葉の定義を明示する等々、アカデミックライティングの基礎に則られている。

例)ソフィ・コッポラ『マリー・アントワネット』での1980年代のニュー・ウェイブ系の楽曲がふんだんに使われている演出を、「リヴィジョニスト」という語句を使って説明する。

④著者が「オタク」であり、作品に対する愛情を感じる。

『私は一年に百本くらい映画を映画館で見て、かつ百本くらい舞台も劇場で見ます。その全部について簡単な批評を書いて自分のブログにアップしています。また、一年に二六〇冊くらい本を読みます。』

『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』p8,l3-6

と本人が言うように、北村さんは「オタク」と自認する。それは本書にも度々登場する。

「レオナルド・ディカプリオやガス・ヴァン・サントに人生をメチャクチャにされた人々である(中略)とりあえずここに一人いる。」(p42,13-l5)
「強くも正しくも美しくもないオタクっぽい成人女性としては」(p75,l10)

『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』

ここでのオタクは「作品に対してとてつもない愛がある人」のことを指す。映画、ドマ、音楽まで作品を愛し、そして作品たちに救われてきた私は、著者に共感する部分が多い。

⑤フェミニズムの視点で批評するということ。

私の大学を選択する時の基準は表象文化論を学べる大学、特に現代カルチャーを勉強できることだった。K-POPが昔から好きで、その中でも女性アイドルを研究したかったからだ。当時は「フェミニズム」という言葉をきちんと理解していなかった。だが今振り返ればフェミニズムに近い観点でK-POPを見ていたと思う。

結局第一希望の学部には落ちた。それと同時にK-POPを研究することを選択肢から外してしまった。そこから6年間のあいだにフェミニズムを勉強し、フェミニストという自覚を持つようになった。その結果回り回って映画やK-POP、ドラマ等のコンテンツに接する際にフェミニズムの視点で見るようになった。それだけでは飽きたらず文章として残すようになった。

文章の形態だけでなく、テーマも私が読みたいもの、そのものだ。
以上の点から、著者の文章は私が読みたい文章の要素を兼ね備えている。

「フェミニズム批評」という言葉の発見

本書を通して「自分の読みたい文章」が具体的になったことは大きな発見だった。しかしそれよりも「フェミニズム批評」という言葉の発見はそれよりも大きい、”エポック的出来事”だった。長年燻っていた欲望に名前がついたのだ。

「名前がないものはそれは認識していないと同じことだ」
と社会学者の森山至貴さんに教わったことがある。森山さんと著者は東京大学院時代からの友人だったそうで、著者の別著『批評の教室』を出版した時トークイベントで対談している。

今「フェミニズム批評」という名前を著者を通して知ったことにより、私は水面下にあった欲望を明確に認識した。ずっと別々の欲望から起因する行動だと思っていた下には、一貫した欲望があったのだ。

・K-POPが好きでYoutubeでMVを見ること、
・友人とK-POPのニュースを共有すること、
(それがフェミニズムの話にもなることもある。ついでにそれをポッドキャストにしようと画策中だ。)
・Noteに書いた文章をアップすること。
・寝る前に好きなドラマを見ること。
(大好きな作品に出会うとそれを分析してみたいと思う。)
・フェミニズムを学ぶこと。

今まで、これらの行動をまとめる言葉がなかった。冗長な生活の中に散らばっている単発的な行動だった。そして各々の行動にはそれぞれ別の欲望があった。
K-POPを聞くのは「K-POPが好きだから」、友人と世間話をするのも「考えを共有したいから」、好きなドラマを見るのも「物語の世界に没入したいから」。

けれど「フェミニズム批評」という言葉に出会ったら、行動1つ1つが同じ目的を持つ、連結した行動になった。別々の欲望によって突き動かされた行動の奥底には貫いているまた別の欲望があった。その欲望は「フェミニズム批評」という名前に集約された。そうやって名前がついて初めて、存在を認識した。

冒険に足を踏み入れる

「フェミニズム批評」は、大学入学するときに言語化できず、方法もわからず燻っていた欲望だったのだと思う。大学を卒業した今、ようやくそれに気づいた。そして認識した瞬間、「なぜそれを大学入学した時に気づかなかったのか」という後悔が押し寄せた。環境も時間も揃っていた時ではなく、なぜ敢えて今なのかと。この欲望を叶える方法はあるのか。

本書は「自分が読みたい文章」「自分がやりたいこと」の2点を明確にしてくれた。しかしその先については書かれていない。まるで目的地だけ示されて、経路が抜けている地図を見つけたような感覚だ。その地図を片手に「フェミニズム批評」という冒険に足を踏み入れようと思う。もしその道中で著者の北村さんに遭遇できたら、あなたのおかげでこの世界に足を踏み入れたのだと伝えたい。


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