命

【期間限定無料】「命は大事ですか?」医師からの6000字概要にヒトシンカと会話で回答

おはよう。
元東京大学非常勤講師、現在謎の人生コンサルタント、とつげき東北です。だれやねん。

まあ誰やねんというと、ようわからんのですが、20分5万円で人生の相談を受けたりしている人らしいです(自慢キタ!? いや、ギリギリで生きています)。

画像2

ともあれ、とつげき東北がTwitter上で行ったアンケート(下図)について、医師の方から約6000字の「自分の意見」をいただいた(本人はアカウント含めて匿名希望)ので、たまたま家に遊びに来ていたヒトシンカ君(東北大学文学部中途退学、神戸大学法学部卒)と一緒に、互いに初見で会話しつつ、動画にして答えました。

アンケート結果3

以下の医師の文章に対して、約40分の動画で答えています(URL部分は有料)。

相手の文章を貼り付けます(同意済み)

以下が、相手の医師の方の文章です。
誤字等も含めて、ママ掲載しています。


今回TwitterのTLに流れてきたとつげき東北氏のアンケート(以下抜粋引用)
・1996年までの、いわゆる旧優生保護法が日本に存在したことはご存じの通りです。
運用がクソだったことは前提としますが、改めて考えて、例えば「現代医学で直せない、植物状態で産まれてくる子供」を、どうすべきと思いますか?
引用ここまで
に回答させていただいた際、氏と少し意見交換する機会があった。そのやり取りの間横目で見ていた別スレッドで以下のようなツイートを目にした。
以下引用
・私は現在生きている障害者へは、最大限の配慮を国がしっかりしてあげて欲しいと同時に、申し訳ないが、遺伝性のものであるならば、遺伝子治療などができない限り、あるいは遺伝しなかったとわからない限り、おろすことを義務付けてほしい派です。
引用ここまで
上記のとつげき東北氏のツイートをきっかけに様々な意見が寄せられる中「命は大事なのだから」このような考え方はどうか、と指摘した方(私も含める)にとつげき氏は「命は大事ではないでしょう」と返答された。このことに私自身疑問を生じたため少し考えてみたい。
まずツイートの前提条件を無視した、脊髄反射的な「障害者は死ねということか」という反応に反論したい。
今回前提としているのは「重度障害を持って生まれてくることがわかっている児に堕胎をどう考えるか」と言う命題に対する「命は大事なのだから」という「言葉」との関わりであり、現在生活されている障害者ならびに出生してみなければわからない障害についての話ではない。ましてや後天的な疾病、事故による障害の話をしているわけではない。
無論、現在出生して生存している障害者の方には今後も国は福祉政策を十分にとってほしいと考えている。このことはとつげき氏とも意見が一致する。
以上、言ってもいないことへの反論はおやめいただきたい。
私は医師ではあるが周産期医療、障害児療育、神経難病などについては専門ではなく、「医師という専門家の視点から想像できること」を基にのべていることをあらかじめお断りする。したがって母体保護法には不案内であり、またこれは思考実験であるため、実際には堕胎が可能ではない可能性も承知している。その上でこの堕胎の是非と「命の大切さ」というワードについて考察してみたい。
アンケートの問を整理すると『治療法が全くない、長期生存が望めず、意識の回復が望めない状態で出生することが事前に明らかにわかっている、遺伝性疾患が疑わしい児の堕胎を是とするか、非とするか』となる。なおこの命題は医学的な正確さにはやや欠き、したがって療育を行っている方からの反発が生じやすいが、出題者のとつげき東北氏は医療の専門家ではなくやむを得ない。
とつげき氏の意見は『堕胎を義務化すべし』である。私の意見は『義務化はいいすぎだが、堕胎という選択肢を積極的に認めるべきである』と言う意見である。違いはあるが「堕胎を容認すべき」というところで一致している。
堕胎への反対意見をまとめるなら「命は大事なのだから如何なる障害であろうとそれを根拠に堕胎を行うのは優生思想でありナチスやヒトラーと同等だ」と言うものであろう。何しろ思考実験であることも前提条件も無視して、出題者や賛同者を悪魔のように評したり、単なる「感想」ばかり並べたり、過剰な「成功体験の外挿」を行なったり、全く根拠のない「空想」で反対したりするため議論をしにくいのだがともあれこちらには反論する。
「堕胎とんでもない派」の意見に従うなら、全て出生させ、生命維持のために、また養育する立場の人間の補助のために金銭物品制度などあらゆる手を尽くすべし、ということになろう。
さて、まずこういう意見の方々に問いたいのは命が「大事」というのは「どの程度」大事なのであろうか?肉食や植物の命などと議論を広げるとまたややこしくなるため今回は平時における、普通に生活するに困らない程度の国の人間の命に限定したい。
「命」を救うために地球を爆破しても良い、と考えるのは流石に暴論だと笑うであろう。ならば、命を救うために日本という国(国家形態としてだけではなく社会制度や税制など、我々が「ひとまず安寧な」生活を送れる場としての日本と考えても良い)を崩壊させることは許容できるであろうか?一人の命を延命するのに、どれ程の「コスト」をかけるべし、と考えるのであろうか。
またその場合の「命」とは、どの状態を定義するのであろうか?心臓の拍動だけがあればいいのか?それとも、「普通に」活動できる状態を指すのか?歩行ができれば良いか?如何なる形でも意思表明ができれば良い?
すなわち何が言いたいかというと「命がある、というのはどこまでの状態を指して、大事にすべきとはどこまでなら命を優先すべきなのか」をはっきりさせてほしいということなのだ。こうした「量的というか質的というか」定義を全く考慮しないまま「命は大事」と強調しても意味がない。
仮に「心拍がある限り何事より優先してあらゆる手を尽くすべし」と考えてみよう。ならばまず先にやるべきことがある。療養型病院に入院している高齢者、重度障害者を残らず急性期病院に転院させ、集中治療を施さねばならない。障害を理由に延命を断念することが「許されない」ならば年齢も同様のはずだ。おそらくこの上に重症障害児の延命を行うとするととてもではないが現状の日本で「通常の診療体制及び医療制度」は維持できなくなるが、果たしてそういう「コスト」を受忍するつもりは本当におありだろうか。「命をコストで語るな」と言う前に考えてみていただきたい。場所と物と人と金は無限ではないからだ。
「堕胎とんでもない派」の皆さんにお伺いしたい。あなた方は年齢を問わず、「濃厚治療を行なっても長期の生命維持が困難」な患者さんに対して、どこまでの治療を施すべき、と考えるのだろうか。心臓が動いてさえすれば、どんな手術だろうが処置だろうが、行うべきだと考えているのだろうか。高齢者は別、という、何か理屈があるのだろうか。
さて、我々医師は「長期予後を望めない患者(主に高齢者が多い)に、侵襲的な治療を差し控える」と言うことを日常的に行なっている。これはコストだけの問題ではない。患者に「苦痛」を伴う治療を行っても「自分で歩いたり話したり食べたりできる状態に戻せないだろう」と判断され、したがって、「治療に伴う苦痛を与えること自体が疑問視されるような場合」だ。ということは「どこで延命を諦めるか」を考えるということになる。これは何も私だけの話ではなく終末期の患者さんを診る医師ならば日常茶飯の判断である。繰り返すが、堕胎をとんでもないと考える方はこの判断をどう考えるのだろうか。「もう十分生きたからいいでしょう」と言い放つおつもりなのか。「こんなろくでもない日本にした高齢者なんてどうでもいい」という「感情」ではなく理屈で説明してほしい。
無論、こうした議論は医師の間だけで勝手に決めるものではなく家族とも協議する。しかし私は方針決定はある程度医師が決断すべきであると考える。家族に全て決断させる、本人の希望が医療の常識から外れていても「本人の希望」と思考停止して盲従する、などという態度はプロとして誤りだと思っている。
ならば、今回問題になっている「堕胎」の場合は「どこで出生をあきらめて堕胎を決断する」と考えるか、少なくともこう言った境界線の存在を否定する根拠は見当たらない。長期生存ができず回復が望めない状態ならば胎児と高齢者を区別する理由がないからだ。現行法は別として考えるならこれにはとつげき氏がアンケートで示した「出生前に判明している、治療法のない、寝たきりとなることがはっきりしている重度の障害」という「線引き」が、ある程度妥当だと考える。対症療法しかできず、「苦痛」が長引くという結果しか考えられないのならば、私は堕胎を選択肢に残しておくべきと考える。重ねて言うが年齢以外、高齢者と異なる点は見られないのだから。
第一に「苦痛が表出されない」ことと「苦痛がない」こととは別だ。寝たきりで意識がない状態で出生した児に「苦痛がない」とはいえないだろう。しかも堕胎を問題にしている以上、「事前にわかっている」訳で、このような出生を「命が大事だから」で無批判に肯定していいだろうか?苦しんで死んでいく胎児を、「自己満足のためだけ」に他人に産ませて延命させることが果たして「倫理的」なのだろうか?
また、療育を行うつもりで出生したものの「これほど辛いとは思わなかった」と後悔することもあろうと思われる。しかし一度出生した児を「安楽死」させることは、特に決断する立場になるはずの「両親」にとってはよけいにハードルが高いだろう。「命は大事だから」と「嘯く」のは非常に簡単だ。しかし、あくまで生み育てるのは母親及び父親である。重度障害を持つ子供の療育は負担が大きいと予想できるし、将来への希望もないとなると精神的な消耗も激しいだろう。「堕胎とんでもない派」の人たちはこうした場合のケアについてどうお考えなのだろうか。
またこういう時に時に出る意見が「障害児は天使なのだから」「親が成長できるチャンスなのだから」というものである。実際に産み育てる立場の両親の心情をあまりに無視した声でめまいがする。障害児を療育することになった結果の成功体験までは却下はしないが児が重度の障害を持って生まれることがわかっていて、愛着を持てるか自信がない、療育に希望が持てない、という両親の当然の心配をすること自体を悪だと断じる「妄言」としか言いようがない。何よりその生涯を背負って生きることになるのは、その本人を「天使」とほめそやす人間ではなくあくまで本人なのだということすら理解できていないのではないだろうか?
以上、治療法がないことが「事前に分かっており」、出生後の安楽死もできない、両親と「本人の」苦痛も大きい、そして出生してもほどなく長くない生涯を閉じることになろうという胎児に対し、せめて出生前に「堕胎」を選択肢として残すことに私は正当性はあると考える。
さて、少し視点を変えて、とつげき氏のこのツイートの真意についても少し考えたい。とつげき氏のツイートをいくつか渉猟すると、「世界中、日本でも、人権が成文化されているが実際に人権が真の意味で保障されている国はなく、したがって人権というものは『存在しない』」「社会が産むことを許すならば、現在生存している障害者には税金を無尽蔵に注ぎ込んで健常者並みの幸福を保障すべきでそれが人権というもののはずだ」と主張されている。
このことから考えると、とつげき氏は、少なくとも現在の日本では障害者補助が全く十分ではなく、したがって健常人と同じく障害者に人権が存在している状態とはいえない、すなわち「社会が産むことを許容していない」と考える以上、堕胎を義務化するより他ない、いや、現状を改善する気がないのなら、堕胎を義務かすべきだ…と考えているのではないだろうか?だとすれば堕胎を飛んでもないと考えるならとつげき氏よりもまず政府に怒るべきだろう。
さて、私はとつげき氏の意見と少々異なり、義務化はやや言い過ぎかと考えている。何らかの理由で流産した胎児と面会し、「可愛い」と感想を漏らされる母親も少なくない。死亡した胎児と面会してなお、母親として最初で最後の愛情を注がれる光景を見ていると、あくまで他人である我々の想像を遥かに超える母性は存在すると思わざるを得ない。出生にまつわる厳しい現実を承知の上、生まれた児及び出生後の両親への十分なケアを前提の元あくまで母親本人の選択に基づくなら、このような選択肢があってもいいと思うのだ。短期間であれ、親子の時間を過ごす機会を一律に奪うことにはどうしても賛成しきれない。
ただ、私は「義務化」には一部賛成できる根拠がある。というのは科学リテラシーに非常に問題のある人間、具体的には安易に「障害児は天使」という価値観を盲信するような人間や、障害=母親の放埒な生活の結果、中絶=放埒な性交渉の結果などと決めつける人間からの差別的な視線に中絶した母親は強く晒される。しかし、「義務化」してしまえばそのようなことは若干なくなり、中絶は「制度のせい」と説明しやすくなり、結果、両親へのささやかな救いになるのではないか。
最後に、とつげき氏の提示とは若干異なるが実際に生じうると考える具体例を挙げておく。繰り返すが私は周産期医療、障害者療育は専門外であり、国家試験の教科書レベルで覚えている範囲の話しかできないことをお断りしておく。
まず非常によくみられる障害のダウン症の場合。ダウン症児は健常な夫婦からでも1000出生に1人程度の頻度で生まれる。しかし片親がダウン症の場合子供の発症率は50%に跳ね上がる。
また脊髄小脳変性症などの神経筋疾患の一部も遺伝性が確認されている。中には常染色体ないしは性染色体優性遺伝であることから条件によっては出生予定の子供の発症率が「100%」であることもある。
こう言った場合、両親に「命が大事だから」と出生、療育を強いることは正当化されるだろうか?
ダウン症は知的障害を伴うことがほとんどであり、療育の困難がさらに増す。困難な子供の療育を、片親が知的障害を持つという環境で無責任に推し進めることに私は大きな疑問を持つ。
まして、神経筋疾患の場合、知的には一切問題ないことも珍しくなく、出生した本人がいつか確実に発症することを発症前に理解することも考えられる。このような疾患の場合重要な死因に「自殺」が挙げられる。自殺を決意した本人に「命は大事なんだから。だからあなたは生まれるべきだったし生きるべきだ」という、残酷極まりない言葉をかけられると、「堕胎とんでもない派」は言えるのであろうか。
以上、まとめると
•「現状で治療法がなく、極めて重症な障害を持ち、短期間で亡くなることが強く予想される」胎児の中絶という選択肢を残すべきである。
•「命が大事」という、人ごとでしかない道徳観は両親や障害児本人に何の救いにもならず、「どのような状態で」生存している命を「どの程度優先して」救命、延命すべきという定義なしに議論は不能である。「命は大事」と言うお題目を唱える人間と、実際に療育を行う、障害を背負って生きる当事者とは全くの別人であると言う厳然たる事実は無視できない。
•寿命が迫っていることが予期される高齢者に積極的な治療を断念することがある以上、そして出生後に安楽死という選択ができない以上、こう言った前提の場合堕胎を不可とする根拠はない。
•「障害者は死ね」という話ではない。
最後に少し感想を。
思えばわたしが小学校高学年に入るあたりから、「勉強を熱心にする」=「点取虫」「暖かい心がない」「歪んだエリート意識」などと散々に貶され、ともすればバカ=純真で本当の意味で頭がいい、と言ったような「全く根拠のないドグマ」が盛んに吹聴されたものだった。おバカブーム、なんて言う極めて醜悪なブームもあった。今回のアンケートでも、非常に感情的な、根拠も知識も考えもないレスが複数見られ、相変わらず、と感じる。
しかし最近少し揺り戻しが来ているように見えるし、また、上記のような風潮を盛んに煽り立てていた既存メディアから離れた、SNSなどの新たなメディアでこのように「考えることの楽しさ」が再び脚光を浴びることを期待したい。腐らずに学問に打ち込むことができた環境で過ごすことができ、心から良かったと思う。

以降有料記事(約40分の動画によって、マジメに回答している。)


https://www.youtube.com/watch?v=ZETCjd3gnvs&t=46s

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