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なぜ140文字では意見交換不可能なのか――「知」に関する散文 (元東京大学非常勤講師)

どうもおはようございます。
エンジニア、教育者、コンサルタント、元東京大学非常勤のとつげき東北と申します(Twitter)。
いつもとテイストを変えておおくりします。

私は「140文字などの短文のやりとりでは、意見交換はできない」と考えています。そこで今回、これを示すために、改めて「知」の性質やその伝達について少しばかり整理し、それを通じて結論を導いてみたいと思います。

※実は、最終結論は「最低でも4,000字くらいに文章でまとめなければダメ」にまで欲張る予定なのは、いまのところ内緒です

お付き合いどうぞよろしくお願いいたします。


知について少し考えよう

知、というと何をイメージするでしょうか。
頭の良さ、学力、繊細さ……なんでもいいですが、ボードゲーム風に問題を出しましょう。

問題:絵を使わずに、文字を使って、この図の形を他人に伝えてください。


色や線の太さの情報はいりません

これ、どうしますか?
「ハート」(ハート型)
というのはシンプルで、だいたい正しい答えです。
では、「ハート型」も知らない世間知らずな数学者がいたとして、彼に伝えるにはどうしますか?
そうですね、例えばこんな式を書けば伝わるかもしれません。

xが正の領域のみを描画。
https://www.wolframalpha.com/input/?i=x%5E2%2B%28y-x%5E%282%2F3%29%29%5E2%3D1

次に、「ハート型」を知らず、見たこともなく、しかも数式もわからない子どもに言葉だけで伝えてみてください。
けっこう難しくないでしょうか。
「下の方から、右上に向かって斜めにまっすぐな線を引いて……」
とやっていくと、「絵描き歌」のようになります。
ご存じのとおり、あるいは想像するだけでもわかるとおり、「絵描き歌」だけを聞いて「ちゃんとした絵」が復元できることは稀です。
信じられませんか?
では実際、ためしに私が知らないキャラクターの絵描き歌を今やってみます。結果がこちらです。

私が描いた何か
「正解」 ポッチャマのえかきうた 公式より
(https://www.youtube.com/watch?v=-R7swEORmPw)

悪いのはわたしではありません(き、君たちもやってみろよ!)。

この単純な試みからわかることは、「絵」の情報を伝えるためには、
・情報を受け取る側の知識がどのくらいかを把握していて
・それに沿う形で教えなければいけない

ということです。
じゃあ続きまして、カエルに「ハート型」を理解させてみてください。
……まあ無理ですよね。

次の図形は何でしょうか。正解した方には賞金がでます。

これ

「わかり」ましたか?
「わかった!」という方、おめでとうございます。
ですが、それはある意味では間違っていると断言できます
なぜならば、描いた私自身、「適当」に線を動かして、これが何だか決めていない状態で描き終わったからです。
だから少なくとも、私に対して
「めっちゃ頑張って天使の恰好をマネているお笑い芸人の絵だ」
と言っても、私は「不正解~」と嫌みったらしくニヤけてみせます(賞金を出さない作戦です)。

でももう少し考えましょう。
「わかった」は、本当に不正解でしょうか。
「わかった」という語が指し示すところには複数の意味があって、たとえば、
・自分の中でイメージが結びついたわ
・それをいつでも再現できるわ
・それを言葉で他人に伝えられるわ
・この画像情報を保存した(PC上のデータにした)から、他の人に送信できるわ

などなど色々あるでしょうね(PC上のデータにしたのなら、そのデータをずらり並べてみせれば、そのデータを処理できる他人には伝わるでしょう)。
そのどれも、「わかった」という言葉が表し得る状態の一つであるという観点からすると「不正解」ではありません。
あれ、さきほど私が「不正解」と言ったのに、別の観点では「正解」になってしまっています。
これはどうしたことでしょう。
ここには「知」のありようの多義性が現れています。(賞金の話は忘れてください……)

目的と知

この例から、私たちが何かを「知る」とき、「わかった」とき、それはたとえば以下のような色々な意味のどれかを示していることが示されます(複数選択も可、他にもあると思います)。
・自分が認識できた
・自分が再現できるようになった
・自分がそれについて細かく理解できるようになった
・自分が誰かにわかりやすく伝えることができるようになった
・自分がそれを応用して、動物にしつけることができるようになった
……
・自分がそれを使ってお金を稼げるようになった
・自分がそれを使って一流企業に就職できるようになった
・自分がそれを使ってモテるようになった

例えば、「絵」の情報として、それぞれのピクセルの色情報が「わかった」としても、実際に絵として画面に表示してみなければ「絵から受けるイメージやメッセージ」を想像することは困難ですよね。「わかった」という一言にまとめる際に、感覚器官のどこ、あるいは脳を使って具体的にどのような情報処理が行われているかの質的差異が失われています。

「変なおじさん」と定義します

ところで、これがなにか「わかった」方、それによってモテますか?
……ちょっと私には無理です。いや私はブサイクなので、色々無理ですが……。
以下、この絵のやつを「変なおじさん」と呼ぶことにしましょう)

「知る」「わかる」というものに、いやそれだけではなくあらゆる行為に「意味」があるとすると、それは「目的」があって成り立つ何かです。
ちょっと卑近な例に直しましょう。
「お金がある」ことに「意味がある」のは、最終的には「お金が使える」からです。
もうちょっと色々想定するなら「お金があると安心できる」「明日の生活を心配しなくて済む」とかそういう内面だけで閉じる(お金があることそれ自体が目的である)こともあるのですが、いったん、それはそれとしましょう。「使える」という目的が達成できない「お金」を、みなさんは欲しいでしょうか。例えば子ども銀行券を「100まんえんぶん」もらうのと、本当のお金を100万円もらうの、どちらが嬉しいでしょうか
よっぽど特殊な人を除いて、本物の100万円の方です。
繰り返しますが、「使える」からです。
知の話に戻ります。
知も、何かに「使える」ことが一つの大切な要素です
「知ることそのものが好き」(内面だけで閉じる)を置きざりにして考えます。

「私は高度な数式を知っている、理解できている、自由に計算できる」
とします。
その結果、それを「使って」仕事をしている、立派ですね。
それを「使って」楽しい本を書いて子どもたちに伝えている、いいじゃないですか。
それで受験に成功した、おめでとうございます。
でも、何事にも「使えない」なら、その「知」は、「何の役にもたたない」のです。
そうですね。「使えない」わけですから当然です
高度な数式をせっかく知っても、それを活かす場面が一つもない世界なら、「使えない」です。
今の時代、以下の計算を素早くできるだけでは、まあ、特に何かに「使える」ことはないと思います。

2×465÷5+(377×4+8)÷4

電卓で誰でもできちゃいますし、そもそもこの計算で何を求めているんでしょう……。

「使える」状態にしなきゃ、「自分がそれを知っている」という自己満足を除いては、「意味がない」ということです。

よく言われる例では、「学力」に意味があるかないか、とかもあります。
「学力があっても、使えなきゃ意味がない」
みたいに毛嫌いされがちですが、こういう言葉は、「学力」だけが高いのみでは、「(発話者が想定している)仕事をうまくできない」「コミュニケーションができる保障にはならない」といったことを表しているのでしょう。
この場合、「仕事をうまくできること」「コミュニケーションができること」などが「目的」に据えられていて、それに対して「使える」「使えない」が判断されています
ただ、しつこいようですが、「目的」次第ですね。もちろん環境も含めて、です。
「学力」が高ければ「よい大学に行く」目的は達成できるかもしれません。その結果、「よい企業に就職」することにつながり、「たくさんお金を稼ぐ」結果をもたらすかもしれません。現代日本には、たいした仕事をしなくても、パワハラ系でコミュニケーションがダメな人でも、出世してお金儲けができる企業が実在しますから、「学力」が「使える」こともあるわけです。

ではこれがまったく別の国、別の時代だったらどうでしょう。
仮に「学力」を、今の時代の受験勉強みたいなものだして話しますと、ヒトがマンモスを狩っていた時代に、「学力」が高くてもきっとあまりうまくいきません。「いや物理学の知識を使えば……」とか細かく考えればあるでしょうけれど、まあふつう、単純にパパっと獲物を射止める能力の方がよほど「使える」と評価されそうです。少なくとも「古文・漢文」は不要そうです。

「目的」を、時代とか色々含めたうえでちゃんと設定して、初めて「知る」こと、「わかった」ことに「意味」があるかどうか判断可能になることを意識してください。
「目的」をちゃんと定義せずに「学力が高くても無意味!」というなら、いやいやどういう「目的」に対して「無意味」と判断しているの、ということになります。「使える」場合だって想定できますからね。

他方で、自分には潜在能力があるのだ、やればできるのだ、と思い込んだり、実際に何か色々なことを「知っている」場合であっても、それが何かの「目的」に事実つながっていなければ、これはけっこうつまらないことになります。「自分は学力では相手に勝っている! あいつは学力が低い!」なんて言っても、仕事で接客サービスや上司部下との関係を上手にする「目的」には合致しませんから。学力が高いことで、何かの「目的」が達成できるのはよいことです。でも、他人が同じ目的を持っているとは限りませんので、学力がないというだけの理由で誰かがダメだと判断するのはちょっと偏っています。
※ここでは「学力」を例にしましたが、どんな「知」についても同じことが言えます

ところで、もう少し追記しますと、実戦・実践に落とし込めるかどうか、というのも「知識」が「使える」か否かの判断を左右することがあります。
野球でバットの正しい振り方をいくら学んで「わかった」としても、実際に自分が身体を動かしてバットを振り、ヒットやホームランを打てなければ、(野球評論家やコーチになるのでなければ)バッターとしては「使え」ません。ついでに、言葉や絵には表せない「知」(暗黙知)もあることも知っておきましょう――つまり、バッティングがすごく上手なバッターでも、必ずしも、バットの振り方、筋肉の動かし方を全部言葉や絵、あるいは音楽などに表現することができるとは限らないという話です。まあこれは別の機会があれば。

「ハート」はたいせつ

冒頭の話に戻りまして、私たちはなんらかの「意味」で、

「ハート」

これを「ハート」と理解しました。わかりました。

ハートマークを子どもたちに教えて喜ばせるのもいいです。
数式で表せることを周囲に伝えて楽しんでもいいです。
若いカップルがお揃いで買う指輪を選ぶときに共有してももちろんいい(「今どきハート型の指輪? だせえ!」って突っ込みはなしとしてください)。

では、「変なおじさん」を思い出してください。

「変なおじさん」

「変なおじさん」と定義したこれを「わかった」あなた、何に使いますか?
私がここにふと書き連ねたような一連の「知に関するお話」をする以外で、何か「超使える」方法を考えつきましたでしょうか。もしそうだとしたら、私は幸せな気分です。教えてくれたら嬉しいです。

知の圧縮と伝達

「ハート」という言葉で私たちがたぶん共有できた何かを、他者(数学者だったり、子供だったり、PCだったり、カエルだったり)に「伝える」必要がある場合、相手の受け取り方に応じた「伝え方」を工夫する必要がありました。
たとえば数式的には、

The Love Formula

こんな感じでした。

数奇な運命により、ここで「変なおじさん」と呼ばれることになった例の絵も、一度みんなで「変なおじさん」と決めて共有してしまえば、今後は
「変なおじさんの左側はどんな形だっけ」
「確かちょっと尖っていたっけ?」
「下側に影を描いた方が綺麗で売れるんじゃない?」
という風にやり取りできます。
何かを「わかった」あと、それを「伝える」場合に、「変なおじさん」という言葉に圧縮した方が楽です。
毎回「変なおじさん」の絵を描かなければ、「それ」を共有できないとしたら、「変なおじさん」について上述のように熱く語りあうことはとても大変です。
だから「変なおじさん」の絵を、文字列という形にして、情報を圧縮したのですね。
こういう風に、個別具体的な何かの、似通った特徴を抽象化して「ひとまとまり」にして頭の中に整理したものを「概念」と呼びます。「概念」をたくさん増やしておくことで、私たちはそれと似たようなものと、全然似ていないものとを相対的な関係性の中で区別することが可能になります。まだ何もわからない幼児には「コップに入ったお茶」のうち、熱いお茶にある危険性に気づく術がありません。「熱い」という概念(や、それによって生じる「熱さ」)を知らないからです。近いけれど異なる概念に敏感になればなるほど、「知」の精度は高まります。同じ「正しい」という言葉が、違う意味に使われていることに感づけなければ、ごっちゃにしたままで話を進めることとなります。後に例示します。

下の絵は、「変なおじさん」の絵に「ハート」を加えたものです。

「変なおじさんとハート」

ほら、ここまでお話をしてきたから、この絵を見て、
たしかに、変なおじさんにハートが加わったやつだ」
認識を共有できます。
「変なおじさん」「ハート」を概念として理解し、共有できていない人に、いきなり
「変なおじさんとハートのやつあるじゃん?」
と語りかけても、「何いってんだよ……コミュ障かよ……」と思われるかもしれません。

「変なおじさんとハート」という一言だけで何かが伝わってしまうのは、そういう取り決めをここでしたからです。もしこの取り決めが違っていたら、別のことになります。
実は「変なおじさん」という言葉を違う意味に捉えている人がいたとして……そうでしょうけど……頭に浮かぶのはこんなのかもしれませんね。

※左は志村けんさん。画像は、志村けんの大爆笑展公式サイト(https://shimuraken-daibakusho.com/)より引用。

情報の効率的な伝達のためには、情報の圧縮が重要でしたが、圧縮された情報からもとの情報に戻すためには、共通して使う取り決め、共通の知識、または「言葉の定義」とでもいうべきものが必要でした。

どんな物事を「伝え」あって一緒に考える場合でも、「共通の知識」がちゃんとした状態に整理されていなければいけません
「変なおじさん」の定義が、お互い同じでなければ、同じ図形について話すことはできません。各々違う「変なおじさん」を思い浮かべながら、その図形はああだ、いや違うこうだ、とやり取りしていても、いっこうに生産的な道をたどりません

このことは、「知」の多義性にともなって立ち現れる、場合によっては重要な問題を生じさせます

Twitterなど短文でみられるやり取りを思い出してみましょう。
なぜか話がかみ合っていないことってありませんか?
「〇〇は正しい」「いや、正しくない」
というやりとりで、「正しい」という言葉が同じ意味に使われていないことが多々あります。
「自動車の運転は、常にピッタリ法定速度を守っているのはむしろ危険。守らない方が正しい」
に対する考え方として、片方は「今の時代、大勢が納得できる」という意味で「正しい」という言葉を使っていて、もう片方は「法律的に厳密な考え方でいくと、違法行為だ」、だから「正しくない」となっている可能性があります。ことによると、個々人の「道徳観」「正義感」に照らして「正しい」かどうか語っていて、それが双方異なるのかもしれません
このような齟齬が生まれてしまったら、
「では、今言っている『正しい』の判断基準を、お互い一致させましょう。または、どういう理由でどう一致しないのか、考えましょう
という風に次のステップに行かなければ、話は無意味です。「違い方」がわからないまま突き進んでもムダです。
ここで「言葉が同じ」というだけの理由で、概念をごっちゃにする人が実は多いのです。哲学者のニーチェも、性能的な意味での「よい/悪い」が、道徳的な意味での「善い/悪い」と混同されてきた歴史を暴いています。

仮に法律に関する「正しい」の話にする場合、片方が道路交通法について全然知らないのなら、もうお話は終了です。片方がもう片方に教える、といった形で続くのはありですが、互いに議論するのは、詳しい人同士でしか無理です。同じく、「今の時代の雰囲気」の話だったら、「今の日本の大勢の感じ方」を全然知らない人は、なかなか話についていけません。正義感もまた、人の経験や文化、人生によって全然違うありように形成されます
また、時代・分野等によって機能する「知」が異なる場合もあります。現代では円周率πは、3.1415926……と何百~何千兆桁まで正確に計算されていますが(BBP法やその発展から)、江戸時代のとある計算装置では「3.16」が正解でした。そして、それ以上詳細な答えを知る「必要」はその場面では存在せず、したがって現代人が過去にタイムワープして「3.14の方が近い」と述べてその値を利用する「必要」が実際に生じでもしない限りは、「3.16が正解」として社会が回っていたのです。「正しい考えは、本当は3.14だ」とまくし立てても、当時の人たちには何一つ関係なく、それは「目的」に合致しないわけで「使える知」でもなんでもなかったわけです(もし当時の人たちが本当に「必要」を感じていたら、「もっと細かい計算方法」=「知」が発見されていたはずです)。そんなおせっかいを考えるくらいなら、未来人が現代にタイムワープしてきて「円周率数千兆桁しか計算できてないの? レベル低~!」と笑われることを心配した方がよろしいでしょう。
各々の「目的」が違うはずなのに、自分の方がより細かく「知」っていることのみや、なんなら目先の相手を言い負かせることだけを「目的」にしてしまって得られる「知」にどれほどの意味があるでしょうか。
そうです。
その人にとっては意味があっても、そうでない人にとっては意味がないです。
「目的」に応じて「意味」の有無が変化することは、先に確認したとおりです。

とはいえ、色々な物事を「わかって」いる人と、そうでない人の話し合いは、いつでもこういった齟齬を生じさせます
私たちがこの場で共有している「変なおじさん」を、あかの他人に伝えるには、説明を1からしなければいけないでしょう。コトバの定義の共有です。
同じように、法律の話、財政の話、数学の話、プログラミングの話、仕事の話……なんでもいいですが、
「難しい話」
が「難しい」原因は、一つには、「より多い知識」を要求しがちであることにあります。
めちゃくちゃたくさんの学問的なことや仕事の経験を「知っている」人と、そうではない人が話すときに、「前提としている知識」に何か違いが生じて、「1から説明しなきゃダメ」となり、困ったことになってしまう例……枚挙にいとまがありません。

とりあえずのまとめ

つらつらと書いてきましたが、私たちが「変なおじさん」を共有できたのは、この一連の文章を通してでした。そしてまた、ここまで読んで「わかった」方は、同時に、「変なおじさん」とその意味するところを簡単に――たとえば図形を使わずに140字の文字だけで――説明するのが著しく難しいことに気づいたはずです(……あからさまな答えを言えば、実際に例の絵に可逆圧縮をかけると、280バイトを超えます)。
この文章は、そのむずかしさ、「わかった」を共有するにあたって生じる「困難さ」の一つの要因について、仕組みと一緒に説明してみたものです。また、カエルに「ハート型」を理解させることを断念したことで、「知識あるいは脳構造の差」が相当ある場合には、「わかった」状態にすることが不可能なケースがある事実もご理解いただけたでしょう。

それに加えて、

・「知識」には対応する「目的」があってはじめて「意味」が生じること。
・ただし、「目的」が、「知ることそのもの」の場合は例外であること。
・「目的」が達成される条件は、時代や状況によって色々と変わること。
・ある人にとって「意味」があっても、別の人には「意味」がないと思える「知識」が想定できること。
・「目的」は色々なのにもかかわらず、勝手に「これぞ真の目的だ」と設定してしまうと、「意味」の有無についての理解が異なってくること。

なども――明示的かどうかはさておき――お伝えしました。

何度も繰り返しになりますが、この文章で表されたこと、そのうちの一部である、上に5つのポツで記したことを、「任意のフォロワーさん」に、140文字とか、いやもう少し、400文字だけ書いて、同じくらいの具体的な理解度をもって納得させることは可能でしょうか
たぶん、よほど「前提の知識」がしっかりした方相手でないと、難しいと思います。実際、5つのポツだけで140字は余裕で超えますし、その140字からこの文章の要点だけでも「再現」できる方は、私の観測範囲において、それほど多くはありません。

この種の「知」のありかたや役割、「目的」との関係における「意味」の成立過程、「知」の伝達と食い違い方などついて十分に考え、勉強したことがある人には、すぐに伝えられますけれど、そうでない一般的な人に現実感覚をもって「理解」させるには、やっぱりある程度の「文量」が必要なのです(情報科学をよく知っている方には、「情報の可逆圧縮には、理論的な下限値が存在する」とでもお伝えすれば、それとなくイメージを湧かせられるのかもしれません)。

「140文字などの短文のやりとりでは、意見交換はできない」

最初に掲題の主張を書きました。
一連の「知」に関する考察を経て、「140文字」では「知」の共有が困難であることが示されたように思います。

最初に私はひみつの主張を仕込みました。
以下のとおりです。
「何事かをまともに考えたというなら、せめて4,000字くらいにまとめて文章で示せ」
私はこの、たいへん高圧的に見える主張をしてひんしゅくを買いがちなのですが、それでもこれを取り下げない背景には、上述してきた事情があります。
こうやって実際に文章に書いてみて、前後関係に矛盾するところがないかをみて、全体の整合性が取れているかを確認して、ちょっと散らかっていたら整理しなおして、重複を排除して、結論に誤りがあれば事実確認して考え直して――それを何度も何度も繰り返して、はじめて「何か」を少しだけ「考えた」状態になると信じてやまないのです。ついでに申し添えますと、自然言語ではなくプログラム言語等で「思考の手続き」を記述することで、よりいっそう「厳密」な形で結論を導くことが可能で、というより、そうでなければ不可能とも思える思考が実在するように思えてなりません。
短文で、あるいは口頭で、その場の「思いつき」により「今そこにある相手の言葉」に言い返すことは比較的かんたんですが、場当たり的に言い返しまくっていると、じつは後になって自分の立場に一貫性がなくなることが多いものです……私も若い学生時代には何度も試行錯誤しましたので。私はそうした体験的反省と、いくばくか歳を重ね種々の職場での人生経験・業務経験等を経てきたという優位性に基づき――したがっていささかも自慢ではありませんが――、哲学思想・司法行政・金融財政、学問一般等色々な物事について、それこそ何十万、何百万字と分析や研究を繰り返してきました。それを書籍としてまとめたり、論文にしたりしてきました。ゆえに、「過去に十分に考え済みのこと」「整理済みのこと」を参照するだけで、ある程度一貫してまとまった何かをアウトプットできます。これは、ひたすらの積み重ねです。アウトプットされた文字列は、その場しのぎの言い逃れとは違って、よ~~く練られた結論のごく一部が、こぼれ落ちるように出てきたものです。実際に本で「300ページ」記述するには、その100倍程度の考察ではまるで不足しているのです。

少し余談を挟んでしまいました。
これで、
「他人との意見交換の難しさ」
「4,000文字くらいで説明しなければ、最低限も伝えられない何かが存在すること」
「4,000字の整った考えを出すためには、もっともっと注意深く整理する必要があること」
「4,000文字ほどで一貫性をチェックしていない文字列なんて、大したものではないことが多い仮説」(※後述する例外あり)

などの私の主張(当初予定の「140字」より強欲な結論になりましたね!)の一端にも、それなりの根拠があるのではないかとご賢察いただき、「考える」きっかけとなりましたなら幸いに思います。

この文章を「よくわかった」という方は、ぜひ、カンニングなしで、同じ内容を文章で再現してみてくださいね!(それが私の定義での「よくわかった」です)

(以上、約9,000字)

(※2022/11/20 19:37追記)
この文章についての「再現性」を確認することを目的として、私が過去に記した文章をあれこれ探してみました。
すると、後に出版されることとなる『場を支配する「悪の論理」技法』の基ネタとなった私のサイト――25年も昔、大学生の頃からまとめていたサイト――に、ほぼ内容が一致する記述が見つかりました
「知」を獲得する方法や技術を体系化して身に着けることで、いつでも、どんな問題についても、何十年経っても、(前提とする経験や知識が変化しない限り)同じ結論を誤りなく反復して出力できる事実の好例になるかと思いました。
以下に、「昔の私」の投稿記事の一部を掲載します。

(現存しない私のサイト)『名言と愚行に関するウィキ』より。
同、続き。途中省略。

想定読者が変化したために体裁が変化しただけで、内容は本当に「完全一致」とも呼べるものです。
「この程度なら、何の準備もなく、もっぱら単調な一定の知的操作によって機械的に出力可能な状態」
になって初めて、「考えたことがある」と口にできるのではないかな、と、おぼろげに感じています。(※追記以上)


(※)数学的な予想に対して、反例の式を示すのみで結論を与えた論文。

Lander, L. J. & Parkin, T. R. (1966). Counterexample to Euler’s conjecture on sums of like powers. Bulletin of the American Mathematical Society, 72, 1079.
http://www.ams.org/journals/bull/1966-72-06/S0002-9904-1966-11654-3/


拙著『科学する麻雀』(2004,講談社現代新書)、麻雀の研究書。

定義を途中で変更することの不毛性について書いています。

※麻雀に関する研究と戦術の本(続編)(2021)

どんな時でも「定義」を大切にします。



構成も練らずにざらーっと書きましたので、うまくお届けできなかったのならごめんなさい。
お読みいただき、ありがとうございました。
「スキ」してくれると超うれしいです。

私は「思考」のみならず、「自分や他人の感情」も言語(自然言語やコンピュータ言語)化して整理し、仕事や人間関係に活用しまくっています。
関連するnote記事をいくつかご紹介します。

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