見出し画像

推しが神だったらよかった

無我★無我

画像2

ネトフリオリジナルアニメ、見る幻覚剤こと『ミッドナイトゴスペル』を観返してる。

画像1

ミッゴスでは、主人公が様々な星に赴き対談相手を見つけてポッドキャストを収録するという形でストーリーが進んでいく。
特に好きで何回も観ているのがエピソード5だ。それまでの話に登場したシミュレーション宇宙のアバターたちが収監されている監獄の星で、たまたま出会った囚人の輪廻転生の様子を追うという話になっている。囚人は実存の恐怖にとらわれていて、最初は怒りに満ちていて他の囚人や看守を殺したりするんだけど、何度もタイムリープしていくに伴って殺生をやめたり悲しみに暮れたり踊ったり、脱獄できたと思ったら岩に突き刺さって死んだり、崖っぷちで野いちごを食べたりなどして解脱に近づいていく。

よくわからないと思うんだけどとりあえず観てほしい。ミッゴス。思想宗教やスピリチュアル、薬物などについてくっちゃべる主人公たちの対談を聴いても、頭空っぽにしてサイケな映像を見ても楽しめるので。

この第五話で心に残っているくだりがある。エクスタシーとは無我の境地であるというやつだ。仏教やヒンドゥー教の思想についての回なのでそういう文脈なのだが、この回のゲストの人の体験談で、確かなにかドラッグをやりながら乱交したらエクスタシーを通じてすべてが虚無であることの確かさを悟った、ということを言ってたと思う。

なぜそれが印象深かったかというと、オタクとして共感できる部分があったからだ。

私はオタクだが、どういうオタクかというと関係性オタクである。人物同士の関係性に魅力を感じ、自分と交わらない場所で生きている推したちの築く関係性をできる限り鮮明に理解しようと、永遠に推しの情報をディグったり絵や漫画を描いたり短歌や小説を書いたりしている。いわゆる同人オタクの範疇に入る。
どういう精神サイクルで関係性オタクをやっているかというと、これは最近考察していることなのだが、自分が人生において抱えてきた人間関係に関する悲しみ、苦しみ、喜び、その他すべての感情を、自分と関係のない人間どうしの交わりに投影し、追体験し、咀嚼しているのだと思う。
他者と交わることは、人間にとって、本当にすばらしいことだ。そのすばらしさを謳う方法はこの世にたくさんあるが、オタクもその一つということだ。

そもそもオタクなら、「無我」の概念に親しみを覚えやすいのではないかと思う。推しカプのいる部屋の壁になりたい、という有名なのがあるが、オタクがそうして自己という存在を勘定に入れず萌えという悦びをうみだすことや、多くの人が物語などを通じて別世界に没頭することは、無我の心地よさを示している。

ひたすら無我の萌えに浸っていると、不意に底しれぬ虚しさを感じることがある。同人って「無意味」じゃん、という事実を噛み締めてなぜか不安になってしまう。要は、自分の社会的地位に直接繋がらないことにリソースを割きまくってることが不安なのだ。
けど最近、その無意味さを怖がるのはよくないことのような気がしている。だって人生ってそもそもが無意味だから。有名人になっても家族を愛しても最後は死ぬ。諸行無常。オタクをやってて感じる虚しさとは人生の虚しさであり、つまりオタクとは人生なのである。今脊椎で文字を打ってます。

オタクと宗教

それだけではない。宗教について、オタクの立場から共感できるなと思うことが最近めっちゃ多い。

画像3

この間メトロポリタン美術館展に行った。めっちゃよかった。最近ちょっとずつ歴史とか社会に興味を持ちはじめているからか、解説がすっと入ってきた。一人一人の心の動きが社会の動きとなり、それを反映して変化していく芸術のあり方が面白いなと改めて思えた。
近頃、人間って一人じゃなく、目の前の相手や、全人類と繋がっているんだなと漠然と思っていて、その感覚を掴みはじめてから、自分の人生の範囲だけで文化やコンテンツをとらえるだけじゃなく、それらのバックグラウンドにかっこよさや重要性を感じるようになった。
因みにこれもまたさまざまな宗教において語られていることだと思う。個人という概念のウソさ。ミッドナイトゴスペル第五話にも、個人の意識は「網」の交点でしかないというくだりがある。ほんとにね、私が実際独りだったらどれだけよかっただろうね。疲れちゃうよほんとも〜最近。寒いし。

本題。展示されてた絵にはもちろん宗教画も多かった。緻密に描かれた美しい宗教画たちを眺めてて思ったことが、「ああ、祈りながら描いたんだろうな」だ。

去年の推しの誕生日に絵を描いたことや、この間深夜四時まで二次創作漫画を描いてたことを私は思い出していた。精神を統一させて筆を走らせているとき、私の胸の中にあるのは燃え盛る萌えではない。ただ、心地良い平穏のみだ。それは祈りのようなのだ。
その平穏が、宗教を信じる人々が彼らの神から得ているなによりの益なのではないだろうか。苦しいときや動揺しているとき、ひたすらに祈りを捧げられる拠り所があるのは、人間が生きるために素晴らしいことだ。

そういう感じで、宗教画にオタクとして共感できたことが面白かった。

二次創作界隈と宗教社会ってめっちゃ同構造じゃないだろうか。

原作=聖書、推し=神、二次創作物=宗教芸術、オタク=教徒、萌え=信仰心、神絵師=有名画家、みたく対応させて読んでみてほしい。
オタクが原作を読み、自分なりに解釈する。原作のこのキャラとか、このカプとか、このシーンとかめっちゃヤバイよな、と思って、萌えポイントを切り取り、先の「祈り」をやりながら絵を描いたりする。実はこうだったら萌えるなあとか、妄想したものを具現化することもある。そうして、みんなこれ萌えるよ、やばいよー!と界隈に働きかけると、萌えを分かち合える仲間ができ、自分を尊敬してくれるフォロワーが増え、そして創作の喜びも感じられる。もっと素晴らしいものを作りたいし、もっと萌えを発掘したくなる。
また、いくらオタクでも推しにずっと萌えていられるわけじゃない。萌えの灯を消さぬよう、毎日原作を読み返したり、推しに思いをはせたり、神絵師の二次創作を見たりせねばならない。
なんか解釈違いで戦争起きたりして大変なこともあるけど、オタクでいると、精神が安定するから、サイコ~。

同じじゃん…

宗教ってつまり、「もし自ジャンルが世界人口の三分の一の規模だったら?!」じゃん。

そしたらほんと人生楽しいだろうな。推しの二次創作がTLにあふれかえってるどころか、一生かけても見つくせないだろうし、ある程度の完成度の絵や小説をアップした日には千バズは固い。毎日オンリーあるし、自カプがめちゃくそマイナーでも絶対同志がたくさん見つかるから寂しくない。なんなら二次創作を、さらには二次創作ウォッチングを生涯の職業にできるのだ。ずっと推しのことを考えて萌えのために一生を終えることは、何にも代えがたい偉業として正当化されるだろう。だってこのジャンルのオタクの萌えが世界を動かすんだから。

けどやっぱ、神絵師とか神字書きが広めて界隈では準公式的な扱いになってしまったよくわからん解釈に異論を唱え、推しちゃんがそんなこと言うわけねーー-だろ!!原作読め!!!って果敢に自解釈の作品を上げてたら普通に殺されたりとかするのは怖いな。
でも本望かもしれない。自解釈の正しさのために死ねるなら本望かも。
だって正しいから。

で、最終的には自分がどのような推しへの解釈を持ってるかをむやみやたらに話さないことがマナーになる。すぐ闘いになっちゃうため。
たとえ解釈違いでも、むしろ違う推しを推してても、理性をもって接すれば友達になれるのだ。

推しが神だったらよかった


ところで、ここまで考えたらそりゃ思っちゃうよな…。推しが神だったらよかったのに、と…。

どういうことかというと、こないだ情緒がオワってたときご飯を食べながら頭を抱えて絶望し泣いていたのだが、そのときの私には「推しを永遠に好きでいられないこと」がとてもむなしく切なく思えたのだ。

今こんなに推しのことが好きで、推しを通して色んなことを考えて、教えてもらって、推しが私の人生を拡げてくれていて、こんなに感謝の気持ちであふれているのに、涙がこぼれるほど美しいと思っているのに、いつかこの激しい感情を忘れてしまうのかと思うと、たまらなく怖くなった。そんなの今の自分が死ぬことと同義だ。

私の今までのオタク人生ではずっと推しが増え続けてきた。一度推したら応援し続けはするが、その時々で情熱を注ぐのは一人の推しだけだった。乗り換え続けてきた、とも言えるだろう。
正直生半可な覚悟で推していたときもあったと思う。けど今はそんなことしたくない。推しへの思いが明確に、人生で大切にしなければならない「愛」なのだという感じがとても高まっている。
けど今でも、一人の推しを長く長く推すということが自分にできるとは思えない。

もし推しが神だったら、私は絶対宗教家になって、一人の推しを推すことをライフワークにして、一生縛られることができたのになと思う。

何がそんなに嫌なのだろうか。夕食中に泣くくらい嫌だったのだが、ちょっとその嫌が記憶から薄れてきてしまっている。
やっぱり忘却の怖さかな。「今の自分」を小刻みに忘れていっていることへの恐怖。毎秒死んでるのかもしれない怖さ。
それはもしかしたら、人が愛すときに宿命的に持つ悲しみなのかもしれない。愛って美しくて、大切で、一瞬そのために死にたいとすら過るのに、同時に不確かで、根拠がなくて、簡単に消えてしまったりする。意味がわかんねえ。なんでこんなものに振り回されなきゃいけないのか、なんでこんなものをかなえるためにくそみてーな茶番を一生やんなきゃいけないのか、なんでこんなもののために、人間って生まれてきてしまったのか。なんで俺たちを愛させるんだ。誰が。おい!!コラ。キモすぎる…。はあ…。

ちょっといいですか?失礼します。はあ、推し、好きすぎる。本当に。推しってすごくて…、いやその前に、人間って「善」を伝え伝えられることで生きているじゃないですか。「美」と言い換えてもいい。自分が拠り所にしている善、美学を自己表現やコミュニケーションで伝え合って、もしかしたら「愛」とも言えるかもしれない、それが人類を生かしてきた。善の教え合いが人間の愛し合い方なんだと思います。で、話を戻すと、私の推しは、シンプルに言って「教える側」の人間で…。「善」がこんこんと湧いてくる泉のような人間なんです。彼にしか持てない善を、彼にしかできないやり方で皆に振り撒いている。彼の善にしか救われることのできない人間たちが、彼の存在そのものにずっと救われ続けているのだと感じる。私もそうだ。彼の善がゆっくり染み渡って、息をするのが楽になっていく。それはわかりやすい「救われ」ではない。ただ世界の捉え方が、気づいたときには変容していて、彼に植え付けられた善無しにはもう歩けなくなっている。善を教えられることとは本来そういうものだ。相手が自分の中にひとつまみ溶けていって、そのまま生きていく。そうして人を救うことが天職なのが推しだ。とはいえ、推しは一般的に言う「善人」ではない。具体的に言うと、他人に迷惑をかけることに関して異様なほど面の皮が厚いのだ。けどそれこそが彼の持つ善なのがすごい。彼は自分のこともひとのこともずーっと底無しに許しつづける。その精神の根本は世俗から解き放たれている。ちゃんとしなきゃ、から解き放たれている。ちゃんとしなきゃいけないわけない、と、それで生き抜いてきた。そこに救いがある。世間の価値観に真っ向から歯向かう独自の善を人と交換し続け、愛され、社会に貢献してきたのだ。それで生き抜いてきた。かっこよすぎる。率直に言って教祖気質だ。それこそ宗教みたいに、彼の生き様を心に刻んで、毎日祈ってる。祈れるくらい堅固な「善」がそこにある。世間に蔓延する「善」じゃ救われなかった人間が祈れる他の「善」がある。すごすぎる。光っている。推し、光っている。やばいマジで宗教の理屈みたくなってきたな。このへんで止めよう。さいご一言だけ言わせて。マジ顔かわいい。

何の話だっけ?泣

そう。私たちは日々流動し、すべてを忘れていく。なのに愛する。クソすぎる。けど救いもある。愛の爪痕が残ることだ。激しい思いを忘れても、愛が自我に与えた変化は絶対に残る。

とか言うて。もっと根本的な救いを探ってしまうな。

愛を忘れていくように変わる前の自分も忘れていく。もうしゃーない。それは。しゃーないわ。それだけかもしれない。この世に頼れるものなんかない。それに、何かに頼りたいと思う自分ですらも、幻想なのだ。

マジ眠くなってきた、おやすみなさい。

最後に

適当なことばっかり言っていてすいません。まずかったら教えてください。

明日の予定

ランニング、読書、映画、二次創作、絵、詩、部屋の片付け、マブと通話

善の実践に使います。