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【いじめ?それとも】事実と真実のはざまで【話を聴くことの難しさ】

「先生が大嫌いでした」
「先生って学校の?」
「はい、中学のころの先生なんですが、本当に最低で大嫌い」
就活の支援をする中で、今までの人生を棚卸をしている時そんな物語があった。

彼にとって先生は、「この世で一番死んでほしいし、できれば自分が殺したい程憎い存在」なんだそうだ。
いつも人を馬鹿にした態度を取って、親に悪いところだけ切り出して伝えて、いじめに対しては盲目で…
私が一番気持ちが入っていたと感じたのは、先生に病気の後遺症をみんなと一緒になってバカにしてきたこと。
先生が率先していじめに加担してたんだそうだ。
一度3者面談の時に親がいる前で相談したが、何も変わらなかったし親にも逆に怒られた。
先生からも何もアクションが無く毎日通学するのがつらかった。
その当時は戦うことができなくて心から悔しかったんだそうだ。
1時間では収まらないほど、思いの詰まった時間があった。

ところでみんなはこの話を聴いてどう思うでしょうか?
よく聞くのは以下の3つかなと思うけどどうだろう。
「そんな先生ばかりじゃない!世の中にはもっといい先生もたくさんいる!」
「先生がいじめなんてとんでもない!今からでもそいつを叩け!」
「別にどうでもいいけどいじめはいけないよね」

伝えたいこと

何か正解を用意してるわけじゃないんだけど、一つだけ伝えたいことがあったので記事にしてみました。
いろんな捉え方があるからこそ、忘れないで欲しい捉え方を一つだけ紹介させて欲しい。
それは「話し手の世界の真実を大切にする」という捉え方。

言い換えるなら、「彼の体験と真実は彼だけのもの」ってこと。
例えば中学2年生の時の先生が「いじめに加担した」と感じたら、もう一生その人の中学2年生は「いじめに加担した先生」の記憶しか残らない。
別に裁判を開いてるわけじゃないんだから、事実を抉り出して、責任の所在を明らかにし、間違ってるとか正しいとかそういう判断を与える必要ってないんじゃないかな。
しかも私たちは当事者じゃない。
話をしてくれる人の真実にだけ耳を傾けて、受け止めてあげることしかできない。

まとめ

事実と真実は違う。
事実は、現実に起きたこと。
対して真実は、現実に起きたと信じていること。

例えば「体調が悪いなら見学にする?」と先生が言ったとする。
事実は、「体調が悪いなら見学にする?」という発言
真実は人によって違う。
「心配してくれるいい先生」
「俺の時は心配してくれなかったヒドい先生だ」
これのどちらも真実なんだから。

私も対人支援の仕事をしているから思うんだけど、対人支援の人って専門家なんだよね。
先生だって専門家。
みんなに一斉に伝えるときは専門家のスキルで伝えればいいと思うんだけど、個別に対応する時は本当に気を付けたい。
私たちができることは、目の前の人の真実に一緒に向き合うだけ。
考えたいなら一緒に考えるし、アドバイスが欲しいならあげる。
専門家から見て「こうすべき!」っていうのはもちろんあるけど「しない自由」もあることは忘れないでいたい。

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