【短編小説】荒磯博士と機械婦たち
今さら言っても仕方のないことだけど、荒磯博士の仕事なんて手伝うべきじゃなかったんだ! 確かに博士には借りがあった。いや恩義があったと言ったほうがいいだろう。僕が大学を落ちこぼれそうになっていた時、博士の計らいで成績を誤魔化してもらって、なんとか卒業にこぎつけたのだから。
そうなのだ。やっと大学を卒業した僕は、博士の仕事を手伝うほどの技量はなかった。でもそれくらいが博士にとってはちょうど良かったのだろう。顎でコキ使って、もしヘマをしたとしても叩き出せばいいのだし、それに弱みを握っているのだって有効だった。違法スレスレの裏の仕事を手伝わされていたのだ。
僕の仕事は荒磯博士が裏で経営する売春宿で働く機械婦たちのメンテナンスだった。売春宿自体はちゃんと届けてあったから合法だった。しかしさすがに一流大学に籍を置く大学教授が自分の名前で経営するわけにはいかない。名義は誰かに借り、実質的に営んでいたのが博士だった。生命工学の世界的権威である博士は、大っぴらには出来ない裏の研究のためと、単なる金儲けのためにそんな裏仕事に手を染めていた。規制を遵守する範囲内の機械婦は七人いた。レベル3までの人工知能を備えていて、客の受け答えはそこそここなす七人だ。もちろんセックスの相手も客を失望させない程度の奉仕をする。ロリっぽい見た目の機械婦から、熟女、体重百キロを越える肥満体型まで揃え、宿はそこそこ繁盛していた。
その夜、というかもうかなり遅い深夜に博士が声をかけてきた。宿はもう営業を終えていた。「間垣君、今日も上手いことやってるかい?」
若い頃はラグビー日本代表に選出されかけたというがっしりとした体格、そして掠れた声、いつもの博士だった。僕は機械婦の背中のハッチを開けて、燃料電池の交換作業をしていた。
「博士、私は元気なの」とロリっ子機械婦の茜が答えた。
「そうかそうか、それは結構」と博士は茜の頭を撫でる。そして僕を睨みつける。「あとで私の部屋に来てくれ、話がある」
どうせろくでもないことだ、と思いつつ僕は機械婦たちのメンテナンスを終えると、ビルの最上階にある博士の部屋をノックした。しかし返事がない。もう一度ノックする。
「こっちだ」
隣の部屋のドアが開き、博士が顔を出した。いつもは物置として使っている部屋だった。
「さあ、これが何か解るか?」物置の中で博士は言った。床には布とストレッチフィルムでぐるぐる巻にされた物体が転がされていた。ちょうど人間一人くらいの大きさだ。
「新しい機械婦ですか?」僕は言った。それしかないだろう。
「だから君はぼんくらと言われるんだ」博士は言う。しかし言わせてもらえば、僕にそんなことを言うのはあんただけなんだけどな。
「教えてくださいよ。これから初期化作業ですか?」
「驚くなよ、こいつはレベル5だ」博士は言った。
僕は言いかけた言葉を呑み込んだ。目を何度もしばたき博士を見た。「まさか・・・」
「そのまさかだ。昨日、完成した」
人造人間のランクは五段階あったが、実質は四つだ。レベル3では人間から受けた命令をこなすことしか出来ないが、レベル4ではある程度の自律稼働をする。とはいえ、人間に危害を加えることを厳禁とするなどの制御が掛かっている。しかしレベル5はそれらの制御をすべて取り払った完全な自由意志が与えられている。つまりその人造人間の意志の下、人間を殺すことだって可能だ。だからレベル5の人造人間は国連によって禁止されている。アメリカやロシアが兵器として極秘理に開発しているのでは、という陰謀論みたいな噂が囁かれているだけなのだ。
「で、これをどうするんです?」
「ここをどこだと思ってるんだ?」博士は目をぎょろっと剥いて僕を睨んだ。
「まさか、機械婦として働かせると?」
「それしかないだろう、このぼんくらめ」
博士の目論見とはこうだった。レベル5とはいえ、まだ雛形が出来ただけだ。ここで機械婦として働かせてデータを蓄積させる。つまり経験を積ませる。しかしただの機械婦としての自覚を与えるわけにはいかない。「いやいや、待ってください、とんでない実験をこんな売春宿でやろうとしてません?」
「ここじゃなくて、どこで出来るというんだ? 私がこんな下らない売春宿を経営しているのは、もともとこの実験のためだったんだぞ、ああ?」博士は大きな手で僕の肩をバンバンと叩いた。「まあいい。今日のところは起動させるだけにしておこう。包みを剥がせてくれ」
僕は床に膝をつき、フィルムをばりばりとむいていった。フィルムの下は白い不織布で包んであった。僕がその布を鋏で切っていくと下から白い皮膚が現れた。
「レベル5は中身だけじゃないぞ。人工蛋白の皮膚だ。新開発のな」
僕と博士の間の床に裸の若い女が横たわっていた。宿で働いているレベル3の機械婦たちとは明らかに違う。シリコン製の皮膚とは比べ物にならない滑らかで温かみのある肌の表面、そして茶色の髪。いや、これは本当に。「まったく人間にしか見えないですね」
「今のところ、最高の出来だな」
博士は椅子に腰掛け、膝の上にノートパソコンを開いた。キーボードをかちゃかちゃと叩いていく。裸の女が目を開け、両手を床について上体を起こした。表情はなかったが、機械音も一切しなかった。
「感情はまだオフにしてある」と博士は言った。
「燃料電池の持ちは?」
「そんなものはない。胴体に仕込んだ小型の核分裂炉からの熱でペルティエ素子が発電する」
「またまた物騒なものを。汚染はしないでしょうね?」
「週に一度、燃料電池の交換をしていたら、自分が人間だとの意識が生まれると思うか?」
そうだった。博士はこの機械婦に自分は生身の人間だとの自覚を与えようとしていた。いや、そのようにこれから仕込むのだという。記憶はいくらでもいじれるだろう。外部の人間との対応も、データの蓄積が可能にするかもしれない。しかし本当にそんなことが可能なのか?
レベル5の機械婦は室内をきょろきょろと見回している。僕とも目が合ったが、無表情だった。機械婦とはいえ今日から働かせるわけではない。僕は物置の棚からジャージの上下を取り出して、彼女に着させた。まったく抵抗もなく「はい、腕をあげて」という僕の声に素直に従った。
「名前はつけたんですか?」
「とりあえず、桃と呼んでいる」博士は言った。「桐山桃、と言うことにしておこう」
僕が荒磯博士の売春宿で働いているのは週末の二晩だけだった。平日の昼間は自動販売機のメンテナンスをする会社で普通に会社員をしている。事務所に詰めていることはほとんどなく、大抵が現場を飛び回っている。暑い夏も、凍える冬もだ。飲料ベンダーがほとんどだが、せわしない駅の構内から山の中の登山道まで、どこへでも行く。そんな物言わぬ四角い機械と付き合っていると、確かに機械婦たちと触れ合うのも、たまには悪くないかなと思えてくる。以前は、機械婦たちと寝ていたこともある。レベル3までだが、それでも誰からも相手にされない底辺の仕事に従事する僕には心の安らぎだった。
次の週末、荒磯博士の売春宿に行くと、桐山桃はすでにレベル4程度には調教が済んでいた。女子高生の制服を着せられていたが、これは博士の趣味だ。彼女は僕の顔を見ると「間垣ちゃん、元気してる?」と笑顔で馴れ馴れしく話しかけてきた。
「やあ桃ちゃん」と僕も話を合わせて言った。博士がにやにや見ていた。「えっと、これは?」
「いきなり完全自律は無理だからな」と博士は言った。「一週間ほどレベル4で馴らしてみる」
「僕の記憶は?」
「ベースメモリには宿の機械婦たちの記憶を寄せ集めて入れたから当然だな」
僕はうっと言葉に詰まった。ということは彼女には僕との行為もインプットされている。
「悪いが、彼女とのプレイはまだなしだ」
「僕が要求すると思いました?」
「ねえ間垣ちゃん、こんど遊びにいこうよ」桃が言う。言いながら歩み寄り、僕の腕にすがりついた。「今度さあ、昼ご飯と晩ご飯を食べにいこうよ。朝ご飯でもいいんだよ、ねえ」
「うん、今度ね。都合が良くなったらね」
「基本的に親しみやすい個性にした」博士が言った。
「それとね、桃はパイナップルが好きなんだよ」と桃は僕の腕を握り締めたまま言う。まったく無邪気な表情を浮かべている。
「ああ、ごめんね、僕は仕事があるんだ」
彼女の腕を振りほどくのはなぜが心が痛んだ。とても機械婦と一緒にいるとは思えない。どこか抜けた本当の女子高生と話しているみたいだ。これがさらにバージョンアップしたらどうなるのか? 僕が部屋を出かけながら振り返ると、桃は悲しそうな表情を浮かべてまだ僕を見ていた。僕はドアを閉めた。正直、彼女とこれ以上一緒に過ごしていたら、感情移入してしまうだろう。機械婦として働き始めた彼女とどう接すればいいのか、どんな顔でメンテすればいいのか?
「桃のメンテナンスはしなくていい。というより、定期的なメンテはいらないように作ってある」と翌週の平日、水曜の午後に博士は言った。「内部の人工知能とのアクセスも私がパソコンでするからいい。君は、まあ、話し相手にでもなってくれ」
荒磯博士の大学——僕の母校でもあるのだが——にベンダーマシンのメンテに来た僕は博士の研究室にも顔を出した。すると博士は「ちょっと一服しようか」と言って、学内の中庭のベンチに僕を誘った。
「ふと考えたんですが、レベル5の人造人間て自分が人工物との認識はあるんでしたっけ? それともないんですか? 会ったことがないからわからないんですが、もし桃が完全に自分は人間だと思うようになったら、それはレベル5以上じゃないんですか? レベル6とか、そんな・・・」
「レベル5自体がいないことになってるから、なんとも言えないが」と博士はいつになく神妙な面持ちで言った。「レベル5以上だろうな。実はもうそれくらいの段階にまできた。何のことはない、機械婦たちが蓄積した記憶データをどんどん入れていってるだけだ。やりすぎたら消去して、別のデータを入れて、と単純作業だ。あとはパラメーターを調節していくだけ、人間が五年で覚えることも桃にすれば五分で済む」
「機械婦として働かせるんですか?」
「いや違うな」と博士は言った。「人間の娼婦として仕事をさせる。機械婦だとは隠してだ。当然、裏の仕事だが、その方が稼ぎがでかい。もちろん金儲けはただ投資した分の回収が目的なんだがな」
「てことは、高砂警備に話は通すんですよね」高砂警備とは博士の宿も契約している警備会社のことだが、それは表向きで、あたり一帯を仕切る愚連隊のことだ。「まさか無視するんですか?」
「そこまで冒険はしないな。第一、客も彼らから回してもらうつもりだ」
「じゃあ客を騙す前にヤツらを騙すんですね」
「そうだ」と博士は言った。「そういうことになるな。だが、今日まで育てた感じ、一ヶ月もかからずにそのくらいのレベルに出来上がるだろう」
週末、博士の宿に行くと桃はいなかった。しばらくデータ収集のためにレストランでウェイトレスとして働かせている、と博士は言った。僕は会いたかったような、会わずに済んでよかったような、複雑な心境だった。レベル3の機械婦たちのメンテを終え、空が白み始めた明け方に宿を後にして歩き出すと桃とばったり出くわした。「間垣ちゃん、会いたかった、元気だった?」
「ああ、桃ちゃん、元気だったよ」僕は言った。
「お話ししたいんだけど、もうくたくたなの。ごめんね、また今度ね」
桃はそう言って宿の中に消えて言った。
レベル5以上の人造人間には完全自律した意志があるという。ならどうやって売春なんて仕事をさせることが出来るのだろう? 強制するならそれは自由意志ではない。昔と違って現在、人間の売春行為は完全な違法だ。それも建前としては違法だが実際は見逃されている、なんてことはない。個人間のやり取りでさえ立件されることもある。だから機械婦の売春宿が盛況なのだ。しかし禁止されればそれだけ需要が生まれるのも世の常だ。人間の娼婦もいることはいるが、とてつもなく費用は高額だし買う側にも人生を失いかねないリスキーな行為になっている。
「それは君が売春というものを理解してないからだ」と荒磯博士は言った。「よく言うだろう、人類最古の職業である、と。つまり仕事、金を稼ぐ行為に他ならない。昔の売春婦もほとんど金のために仕方なく売春してたのだろうし、現在だってそれは同じだ。金を稼いで家族を支えたい、贅沢をしたい、大きな家に住みたい、人間の欲望は買われる側にもある」
「そんなこと人前で話したら、博士の人生は終わりですよ。過激なフェミニストに刺されますよ」
「売春婦だけじゃない。兵士という仕事もある。生命の危機を晒しても彼らは戦う。金のために仕方なく兵士になる人もいるが、これが自分の仕事だとプライドを持ってる人もいる。つまり人間は誰しも自分を偽って生きているということだな」
「はあ、なるほど」と僕は言った。まったく分からなかったが、もう黙った。コツコツと部屋のドアがノックされた。
「やあ、博士。商売繁盛、結構ですな」
部屋に入ってきたのは高砂警備の地区担当、そして高砂組のナンバー2の不知火だった。彼は細身の背広を着ていたが、後ろに二人、ガードマンの制服を着たボディーガードを引き連れていた。
「どうもどうも、不知火さん、わざわざご足労、ありがとうございます」
「話は伺っています」と不知火はどっかとソファーに座り言う。「娼婦になりたいというお嬢さんを紹介したいということでしたが」
「ええ、客の斡旋をお願いしたくて。信用のあるルートが私どもにはないですから」
「ふむ」と不知火は無煙煙草に火をつけて吸い始めた。「紹介してもらえますかな」
荒磯博士は携帯電話を取り出し「来てくれ」と言った。部屋のドアがノックされた。
桃が部屋に入ってきた。もう女子高生の制服なんかではない。真っ赤なドレスに、真っ赤なハイヒール。化粧もしているが、あくまでもナチュラルメイクだ。僕の目の前でスイッチが入れられてから一ヶ月、彼女はここまでチューニングされていた。髪の色も明るさが増し、ほとんどブロンドだ。桃は不知火を見て微笑みを浮かべ「よろしくお願いします」と囁くような声で言いお辞儀をした。
「ああ、博士、いやあ、すごいですな」不知火は言った。「うん、彼女なら最高級のユーザーを紹介できますよ」
「ありがとうございます」桃は言う。
不知火たちが帰っていくと桃は無表情になった。そして不知火が座っていたソファーに腰掛け、前をじっと見た。もう彼女にはレベル6相当の自我がある。間違っても「君は人造人間の機械婦だよ」なんて話しかけるわけにはいかない。「ねえ、博士、お腹空いた」と彼女は言った。
「ああ、何か買ってこよう」
「ピザがいいな」
「じゃあ、僕が買ってきますよ」僕は言い、ドアに向かった。その僕に桃が言う。
「間垣ちゃん、パイナップルもお願いね」
翌週から桃は仕事を始めた。相手は会社社長や国会議員やらの最高級の顧客とのことだった。しかし僕はその仕事に一切関わっていない。平日は会社で働いているし、桃にしても週末も宿に帰ることはほとんどなくなっていた。
「それほどきついスケジュールではないな」と荒磯博士は言った。「週に取らせる客は三、四人だ。場所もほとんど高級ホテルだよ」
「そうでしょうね。こんな場末の売春宿では高い金を払う価値がない」
「一晩で——円だ、桃にはそれだけの価値がある」
僕の月給とほぼ同じ金額を博士は言った。そうだろう、確かに桃との一晩の逢瀬にはそれだけの金を積む価値がある。もちろんベッドの上での桃がどんな様子なのか知りようもないが、店にいる機械婦たちのデータをインプットしてあるのなら想像はつく。しかし、と僕は疑問だった。ボロが出ないという博士の自信は何なのだろう? もし桃が機械婦とバレたらただでは済まないはずだ。高砂組からどんな仕打ちをされるのか判らないし、レベル5以上の人造人間を世の中に放っていると世間にバレたら博士の研究者生命だって危ういだろう。それだけ博士の研究熱は常軌を逸しているということなのか?
「レベル6の人造人間が本当にいないと思うかね?」と博士は言った。「桃は除いて」
「じゃあいるんですか? そこらを普通に歩いてるんですか?」
「私がこうして作れるのだから、世界の他の研究者だって隠れて作っていると考えるのが普通だろう。私が特別に頭のネジが外れているわけじゃない」
「実際、どうなんでしょうね。でも兵器にするのならレベル3あたりの方が使いやすいですよね、命令に従っているだけの、いっさい反抗しない兵士のほうが」
「だったら娼婦もレベル3のままでいいのか、ということだ。結婚相手として人生の伴侶を人造人間にする時だっていっそレベル5以上の方が楽しいはずだ。国連が禁止しているとか、そんなのは戯言だ。法律がテクノロジーを縛るんじゃない、テクノロジーが新しい法律を規定するんだよ」
「よく解りませんが、機械婦と暮らす人生も楽しいかもですね」
僕もすでに妄想を逞しくしていた。桃みたいな機械婦と世帯を持ち、一緒に暮らす人生をだ。あらかじめパラメーターをいじっておけば、喧嘩をすることもない。相手に自由意志があるのだからどんなことも許されるわけはないだろうが、それでも「攻撃性」や「残虐性」といったパラメーターをゼロに固定しておけば、穏やかな人生が送れるに違いない。しかしそれにはまだデータが足りない。自由意志を持った人造人間が人間と対等に暮らした際、どれだけのストレスを受けているのか、そんな些細な問題も研究の途上なのだ。そのためにも様々な人間と短期間に多く接する桃の存在は恰好の研究対象だった。博士が桃を作ったのもただそれだけのためだった。しかしそんな博士の計画も二ヶ月も経たないうちにおかしな方向に向かいはじめた。高砂組の不知火が桃を身請けしたい、と言ってきたのだ。
「させるんですか?」僕は博士に聞いた。
「データの収集がまだ全然なんだがな」と博士は髪をぼりぼり掻いた。「一度、桃と相手させたのがまずかった。正規料金を払う、というので断れなかったんだが、まさか、くそう・・・」
「断るのも無理そうですね、今後のことを考えると。で、桃はなんて?」
「どっちでもいいよ、だと」博士はいつになく落ち込んだ声で言った。「多分、桃は恋愛というものをまったく理解してないだろうな。ただ相手に合わせているだけのはずだ」
自由意志を持った人造人間が恋愛をするのか? あらかじめパラメーターをいじっておけば、特定の相手に際限なく愛想良く接することは可能だろう。それを相手の人間が俺に惚れている、と錯覚するかもしれない。しかし桃は娼婦だ。誰に対しても同じぐらいの対応しかしないようにあらかじめ設定してあったはずなのだ。だから彼女は誰にも惚れない。はずだった。
「つまり不知火がそういう女が好みなんだろう」と博士は言った。
結局、桃は不知火に身請けされた。不知火は裏社会の人間らしく、代金を数百枚の金貨で支払ってきた。高砂組とのこれからの付き合いを考えても博士は断れなかったのだ。しかし桃がいなくなったのをきっかけに博士はおかしくなった。その頃から僕が見る博士はどこか腑抜け状態になっていった。エネルギッシュで尊大だった研究者は鳴りを潜め、ぶつぶつ話しているばかりの男になった。博士は桃に恋愛感情を抱いていた? 桃を不知火に奪われておかしくなっていた? 誓って言うが、その可能性はゼロだ。博士は桃を研究対象としか見ていなかった。データを取り、反応をチェックし、次の開発のための試験台にする。博士が桃に求めていたのはそれだけのことだ。人造人間に惚れてしまうようなやわな科学者ではない。しかし桃が本当の人間だと騙されている人間からすれば博士のそんな思いは誤解されてしまう。嫉妬に狂ったマッドサイエンティストとしか見えなくなっていた。
だから博士と桃がこっそり逢っていた、というのもまったく誤解だった。博士は数ヶ月分の桃のデータを回収していただけなのだ。しかしその現場を不知火に見つかってしまった。身体的な危害を加えられずに済んだのは、それまで警備代金を支払ってきたからに過ぎない。裸でベッドに横になっている桃の横でパソコンを操作しているなんて、博士でなく普通の男が見つかっていたら怪我だけでは済まなかっただろう。
「間垣君、この宿は終わりだ」ある週末、博士は僕に言った。「高砂警備が契約を断ってきた。他の組にちょっかいを出されるより、こんな宿、閉めたほうが身のためだ。私の研究も方向転換を余儀なくされた。君もこれ以上、宿に関わるべきではないな」
「残念ですね」僕は言った。
博士は宿の備品を他の宿に売り払った。機械婦のデータなど、大学で学生の研究材料にするわけにはいかないから当然だろう。僕は一番のお気に入りだったロリっ子機械婦の茜を払い下げてもらった。「退職金代わりにそれくらい貰ってもいいでしょう」と交渉すると、博士は「ああ」と言った。「タダでいい、持っていってくれ」
僕は自宅マンションの狭いワンルームに茜を据えた。機械婦として働いていたデータはすべて消し、ネットに転がっていた家政婦の少女という適当な記憶キットを入れて調節した。あとは学習モードを最大にし、僕との対話で自己成長させていくように設定した。「お帰りなさいませ」と少女が出迎えてくれる家に帰るのは悪くない。たとえレベル3のシリコン製皮膚の人造人間だったとしてもだ。レベル4にバージョンアップさせるキットも売っているのだが、僕の年収分くらいの高額だからそれはまだ先の話だ。
しかし話はそれだけでは終わりではない。桃はその後、どうなったのか? 僕もほとんど忘れかけていたある日、彼女に関するニュースを耳にした。高砂組とベトナム人のマフィア組織の間で抗争が勃発し、桃も巻き込まれてしまったのだ。僕はもちろんそんな現場を見ていない。しかし監視カメラの映像がネットに出回った。ホテルの正面玄関を出た不知火と二人のガードマン、そして桃の四人に、三人のベトナム人のヒットマンが襲いかかった。背後から忍び寄り、拳銃の弾を浴びせたのだが、桃は軽傷だった。しかし他の三人はほぼ即死だった。逃げ出した三人の暗殺者を桃は一人で追いかけ、あっという間にのした。まるでアクション映画の一シーンだった。ありえない高速の身のこなしでヒットマンの拳銃を叩き落とし、顎を掌底で砕いて気絶させ、ほんの数秒で三人を戦闘不能にした。まったく信じがたい光景だが、僕には心当たりがあった。まだ桃がレベル4の段階だった時、たまたまテレビに映っていたアクション映画を桃は熱心に見ていた。あの時のデータが生かされたのだろう。その後、桃は高砂組の幹部に昇格し、数人の部下を従える身分になったという噂を耳にした。僕はもう売春宿があった一帯に足を踏み入れることはなくなっているからネットの書き込みを目にしたに過ぎない。本当なのかどうか、確かめようがない。しかし大学のベンダーをメンテしに行ったときに会った荒磯博士が「本当らしい」と認めた。「私もまだ彼女を諦めたわけじゃない。放置するわけにはいかないだろう、後始末をつけないことには、な」
「手伝いましょうか?」僕は言った。「報酬はレベル4の人造人間のバージョンアップキットでいいですよ」
博士はふっと笑った。「じゃあ、その時が来たら頼むことにするよ」
そのまた数ヶ月後のことだった。ビジネス街の一画でベンダーのメンテをしていた僕の肩を誰かが叩いた。「え?」と思って振り返るとそこには桃が立っていた。「お久しぶり、間垣ちゃん」と彼女は屈託のない笑顔で言った。
「や、やあ、桃ちゃん、久しぶりだね、元気だったかい?」
「うん、私は超元気にしてるよ」
自動販売機の蓋を閉めて見回すと、厳めしい顔の数人の男が僕らを遠巻きに見ていた。「そうだね、元気そうでよかったよ」
「ねえ、私は最近、博士のところにいた時のことをよく思い出すんだ。懐かしいよね、なんだか、百年ぐらい前のことみたいなんだ」桃は言う。「またみんなに会いたいな」
「そうだね」
周囲にいた男が一歩近づき「そろそろ」と言った。
「ごめんね、間垣ちゃん、忙しいんだ。もう行かなきゃ」
「ああ、またね」僕は言い、ワンボックスの車に乗ってあっという間にいなくなった桃を見送った。
彼女のスイッチが入ってから二年半が過ぎようとしていた。桃は確かにノーメンテ仕様の機械婦だったが、耐用年数がないわけじゃない。特に体内に仕込まれた核分裂炉は三年分の燃料しか入っていない。あと少しで桃は活動を終える。ある日、ぱったりと事切れたように動かなくなるだろう。小型の核分裂炉なんて危なっかしいものを放置して知らんぷりするほど、荒磯博士も無責任ではない。もう少しで彼女を回収しなくてはならない。回収して地下深くの最終処分場に破棄しなければならない。桃の核分裂炉は取り替え式ではないのだ。彼女ごと廃棄しなければならなかった。
僕と博士にはまだ仕事が残っていた。
(了)
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