第2話(生い立ちについて)

生まれ:宮城県富谷市
小学校:富ヶ丘小学校
中学校:日吉台中学校
高校:大崎中央高等学校
大学:函館大学
社会人:東芝エレベータ株式会社 → 佐賀新聞唐津東部販売店のオーナー(その間にアクサ生命の代理店や複合機のレンタル業、リフォーム業も兼業) → 福岡市の大濠公園駅の側で不動産屋を経営

話すと長くなるので、今回は小学校時代だけ書くことにします。

小学校時代は勉強というものに全く興味を持たない子供であった。

運動神経はそれなりに良く、サッカーをやっても人より上手く、ゴムボールの野球では左右両方で打てるホームランバッターとして学年でも1,2を争う器用さを発揮していた。

特技はテレビゲームで、好き過ぎるあまり壊れたファミコンを分解して修理を試みる変態であった。

そのため、どうやったら好きなゲームをずっとできるかを考え、いかに上手に学校を休めるのかを追求した。

その結果、体温計を摩擦の熱で温度を上げるという特技を身に着け、具合の悪い演技力まで兼ね備えた子供であった。
(この技はテクニックが必要であり、油断して摩擦しすぎると40度をすぐに超えてしまうため、息でフーフーして冷ます、という原始的でありつつ高度な技術を用いていた)

今でこそ大人でも電車に乗ればゲーム、暇さえあればゲームなど社会として認められる時代になったが、当時は1日1時間などの考えが浸透しており、その壁をどうやって乗り越えようかと常に心理戦を繰り返していた。

そういうちょっと変わった子であったためか、すごく可愛がってくれる担任と、ある種いじめ的な感じで接してくる担任がいた。
今思えば、なぜか女性の担任には良い思い出は何一つなく、男性の担任には非常に良くしてもらった記憶がある。

先生に濡れ衣を着せられ怒られることが幾度かあり、怒りと悲しみのあまり学校を脱走し警察沙汰になったことも2度ほどあったような…。

心に深い傷を負ったエピソードを1つ披露するが、小学5年生の時に林間学校に1泊するというイベントがあった。
夜お風呂に入って下着を着ようとしたとき、なぜか先ほどまで履いていたパンツが無いではないか。
どこを探してみ見つからず、でも新しい下着は履いているので大変困ったが仕方ないと諦めてそのまま諦めた。
これが心に深い傷を残すきっかけとなった。

しばらく経ち学校で授業をしていると、隣のクラスの先生が旅行の時の忘れ物を自分のクラスに持ってきた。
沢山の忘れ物があり、「これは誰のかな?」なんてやっていて、何も感じなく見ていたが、ある瞬間、先生の顔色が変わった。

出てきたものを指で汚いものを扱うようにつまんで、誰ですか、パンツなんて忘れたのは~!なんて言った。
その時も頭からすっかり忘れていたため何も思わなかったが、先生がジロジロ観察をしていたら、パンツに名前が書いてあるではないか?!

「浦上君!パンツ忘れてるよ!」
バカな女教師が言った。
クラスは超大爆笑。
言われた私は一生忘れない心の傷を負った。
そして私はパンツを受け取ったが、クラスの奴らから馬鹿にされた。
そして悔しくて顔を伏せて泣いてしまった。

休み時間になり自分は、そのまま学校を脱走した。
ゆく当てもなくただひたすら遠くの高台に向かっていた。
しばらく時間が経ち授業も終わっただろう頃、小学校の同じクラスの人間が私を探しているのを遠目で確認できた。

浦上君!浦上君!
友達が大きな声で探し回っているのを見た。
私は高台のばれない場所に隠れていたのだが、探しに来てくれた人がいたのは少しだけ心の救いだった。
ただ、帰るタイミングも失い夜までずっと隠れていた。

そろそろおなかも減ったなと思い、このまま隠れていてもしょうがないからと、おそらく21時くらいだろうと思うが帰ることに決めた。
家に帰ると、母親が泣きながら出迎えてくれた。
そして理由を話すと余計に泣いた。
そして自分もまた泣いた。

どうして人の気持ちを解れない人間が教師をしているのかな。
今になれば分かるが、学校って子供から見たら世界の全部なんだよね。
そこにいる友達が世界の全てなんだよね。
そこで馬鹿にされたりしたら、そりゃ自殺する人だっているだろうに。
そういう当たり前のことを分からない大人が今でも沢山いると思うと、本当に世界ってどうしようもないなと感じてしまう。

とりあえず私が見つかったという報告が学校に行き、すぐだったか翌日だったか教師が謝りに来た。

そんな変わった小学時代であったが、唯一良かったと思えることは、何不自由なく両親に守ってもらったことだろう。
学校を脱走した時もそうだが、必ず自分を守ってくれるポジションでいてくれたため、今思えばそういう部分から自分がその後の人生でグレずに生きることが出来たのだろうと推測する。

別に悪いことをしたいとは思わないが、どこかでこれをしたら親が悲しむなという判断基準がどこかにあるため、良いことをしていこうと今も考え生きている感はある。

ちなみに、小学校をサボるから成績はめちゃくちゃ悪かった。
勉強のやり方自体も良く分かっておらず、それがあるため勉強が好きではなかったのだろう。
でも良かったのは、勉強ができる出来ないというそんなことどうでも良くて、大人になれば生きていけるのだなと実感できている今があること自体が、人に何かを伝えられる経験となっているのは自慢である。

小さなそれが世界の中心だったあの頃、別にそれはちっぽけな世界に過ぎないと、そういう事まで分かっていなかったとしても、今思えば無意識のレベルで皆と同じ生き方を望んでいなかったのだろう。

スポーツが好きで、ゲームが好きで、低学年の時はガキ大将的な感じで、その後は学校嫌いになり、勉強もせず適当に楽しいことを探しながら生きていた、そんな不安もない幸せな時間が小学校時代の思い出。

これを思い出せることだけでも、自分って幸せだなと今思える。
人生って、生きることって修行だと思っているので、こういう記憶を残せたことって両親に感謝だなと思う。

そんなこんなで、深夜2時過ぎに思い出に浸る私であった。

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