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恋と学問 第22夜、走り出した足が止まらない。

今夜から第3部「恋愛と物の哀れ」に入ります。紫文要領の読解も、いよいよ大詰めです。

問ひて云はく、物の哀れをしるといふ心ばへは聞こえたり。其の中に好色の事のみおほきはいかに。答へて云はく、前にもいへるごとく、人の情の深くかかる事好色にまさるはなし。されば其の筋につきては、人の心ふかく感じて、物のあはれをしる事何よりもまされり(岩波文庫版「紫文要領」109頁)

【現代語訳】
物の哀れを知るという言葉の意味は分かった。それでは、物の哀れを知らせるために書かれたはずの源氏物語が、結局のところ恋愛ばかりを扱っているのは、どういうわけなのか?このように問われれば、私は次のように答えます。前にも言ったように、恋愛よりも深く人々の気に懸かることはない。だからこそ、その筋の話については人の心が深く感じて、物の哀れを知ることが何よりもまさるのだ、と。

本居宣長は、第3部の冒頭でこのように述べています。物の哀れという言葉の意味合いは充分伝わったはずだから、次なる段階として、物の哀れを知らせる目的で書かれた源氏物語が、どうして恋愛中心の物語になったのかを考えてみよう。第3部の主題である「恋愛論」の幕開けを宣言したわけです。

まず第1章「なぜ恋が物語の中心なのか」(岩波文庫版109~122頁)では、「恋は忍びがたいもの」であることを、源氏物語の本文からいくつか引用しながら解き明かします。ひとつだけ取り上げてみましょう。

人の身の上などで、こんな具合に恋に心を砕くのを見ていた頃には、何たる気狂いじみたことかと歯痒く感じたものだったけれども、自分の身の上になってみると、なるほど堪えがたいものなのだ、どうしてこういう風に思うようになるのかと、考え直してごらんになりますが、やはりどうにもならないのです(谷崎源氏、4-161頁)

これは光源氏の息子夕霧が、親友柏木の死によって未亡人となった落葉の宮に、恋をした時の感想です。宣長は次のように注釈しています。

恋するとて思ひ入らるるを、人の上に見たり聞きたりする時は、うつし心とも思はれず、もどかしう思ひしが、今わが身の上に恋して見れば、げにいかにもたへがたかるべき事也と、わが身に思ひあたる也。夕霧の大将の事也。一部の恋は此の心にて見るべし(113頁)


【現代語訳】
たかだか恋愛くらいのことで、他人が深刻に思いつめているのを見たり聞いたりした時は、正気の沙汰とも思われず、非難すべきことのように思ったものだが、こうして今、自分事として恋をしてみれば、なるほど、恋愛は何と耐えがたいものであったかと、ようやく思い知ったと言うのです。これは夕霧が抱いた感想ですが、同時にまた、源氏物語の全編に描かれている、すべての恋に共通する心でもあります。

もっと端的に述べた箇所もあります。「しのびがたき心はわが心にもかなひがたし」(112頁)と。

この「恋は忍びがたく我が心ながらどうすることも出来ない」という文学的な表現は、論理的に整理された言い方をすれば、次のように定義されます。

恋とは、知性で予見したり、意志で制御したり出来ない、他人のことを想う心の動きのことである。(不可測性と制御不能性)

さて、恋が予見も制御も出来ないことを理解するには、わざわざ源氏物語を持ち出すまでもなく、私たちの経験に照らしてみるだけで充分です。私たちは恋をしようとして恋をしたのではなく、気づいた頃にはすでに「恋という事態」に巻き込まれていました。たいていのことは意識的に決定している(と、少なくとも思い込んでいる)私たちの心にとって、本来は驚くべき事態なのでしょうが、私たちはそれを「ありふれたこと」として受け入れています。

そう、このこと(恋する心が不可測かつ制御不能であること)は、あらゆる人生における平凡な事実です。見慣れた光景です。身近な流行歌すら引き合いに出せるほどに、聞き飽きた話です。たとえば、チャットモンチーの「風吹けば恋」(2008年)という曲は、じつに分かりやすく恋の本質を表現しています。

(「風吹けば恋」ミュージックビデオ)

(1a)
はっきり言って努力は嫌いさ
はっきり言って人は人だね
だけどなぜ
窓ガラスに映る姿気にしてるんだ?
だけどなぜ
意地になって移る流行気にしてるんだ?

(2a)
はっきり言ってお伽話は罠
期待したってかぼちゃはかぼちゃ
だけどもうだめみたいだ
何だか近頃おかしいんだ
だけどもうだめみたいだ
何だか近頃おかしいんだ

(1b)
走り出した足が止まらない
行け!行け!あの人のところまで
誰にも抜かれたくないんだ
風!風!背中を押してよ

(2b)
足が止まらない
行け!行け!あの人のところまで
誰にも負けたくないんだ
風!風!背中をおしてよ

(3a)
はっきり言って熱い人は苦手
他はどうあれ私は私
だけどこれが本当みたい
新しい私がこんにちは
だけどこれが本当みたい
新しい私よこんにちは

(3b)
走り出した足が止まらない
行け!行け!あの人の隣まで
誰にも抜かれたくないんだ
風!風!導いておくれよ

(4b)
足が止まらない
行け!行け!あの人の隣まで
誰にも渡したくないんだ
風!風!導いておくれよ

(5b)
騒ぎ出した胸が止まらない
行け!行け!あの人の隣まで
生まれ変われる気がするんだ
風!風!導いておくれよ

(6b)
恋は止まらない
行け!行け!私の両足
走り出した恋は止まらない
行け!行け!私の両足

先ほど引用した夕霧の心境を、まるで写し取ったかのような歌詞です。

歌の主人公は、恋する他人のことを冷めた眼で観察しています。恋愛対象に良く見られたいという健気な心は「努力」と言い換えられて、「私は嫌い」と一言で切り捨てる。理想の異性と出会って、素敵な時間を過ごす夢については、シンデレラの連想から「かぼちゃは所詮かぼちゃ」と、身も蓋もないことを言う。

それはそうです。

恋していない者からすれば。

その主人公が恋をするとどうなるか?これが「風吹けば恋」の主題です。恋は外側から眺めるかぎり、たしかに馬鹿げたものですが、内側で経験した途端、とてもそんなクールに構えていられません。そもそも、恋という事態に巻き込まれた人間には、その恋を観察する俯瞰的な視点など与えられないのです。

主人公は自分がなぜ、同じように恋をする他人と似た行動を取るのか分からず、戸惑います。流行を気にしたり、自分の顔を確認したりすることは、決して主人公の意識的な行動ではありません。主人公は近頃の自分が「何だかおかしい」と気づき始める。まるで自分が自分でなくなったようだ、と。(1a~2a)

心が制御不能に陥って不安になっていたところに、ついに身体にまで異常が現れる。まさしく、「走り出した足が止まらない」「行け!行け!あの人のところまで」。これは、主人公の意識が発した言葉と言うより、主人公の筋肉の動きを言語に翻訳したと言うほうが適切です。(1b~2b)

意識が、自分が今、「恋という事態」に巻き込まれていることに気づくのは、だいぶ恋愛が進行してからのことです。予見は不可能で、常に初期症状は見逃されます。先に「恋という事態」があって、それを意識はただ追認するのです。だから、「これが本当みたい。新しい私よこんにちは」。歌詞は恋愛が進行する過程を、時系列に沿って忠実に追っています。(3b)

私は今、恋をしている。自覚した意識は、遅ればせながらこれを応援する立場を採ります。勝手に走り出した足を、まぎれもなく「私の両足」であると認め、この両足によって「生まれ変われる」ことに期待するのは、意識の側からする精いっぱいの恋の制御なのです。(3b~6b)

以上、宣長の議論から脱線して、チャットモンチーの歌詞の解説をしてしまいましたが、あくまでも「恋の不可測性と制御不能性」を分かりやすく表現した例として、取り上げてみたまでのことです。

ところで、恋の本質は定義された一方で、恋の意味はまだ明らかになっていません。ここで言う恋の意味とは、次のようなことです。意識が予見も制御も出来ない領域が、心の奥に存在するのは何故なのか?この領域が私たちの人生にもたらすものとは何か?・・・これを今後の課題として持ち越すことにして、今夜はこのへんで終わりにします。

それではまた。

おやすみなさい。




【以下、蛇足】




哲学は、古代ギリシアの風変わりな男が、「己はいかに物を知らないか」を知ったことから始まりました。いわゆる無知の知です。

思想と科学はソクラテスの告白を無視して、いかに己は多くを知るかを競うようになります。たしかに私たちは物体を細かく分析し、成分を組み合わせることで、望みどおりの効果を挙げてきました。自然のなりゆきを予見し、その働きを制御できると錯覚するほどに、この種の知識は発達しています。

しかしながら、人が最も知りたくて、知りえないのは己自身の心です。哲学が真・善・美、すなわち認識論と倫理と美学に熱中するのは、それらが心の現象のなかでは扱いやすいからにほかなりません。扱いやすいのは、それらが意識で制御されるべきものだからにほかなりません。

意識で制御されないもの、無意識が心に起こす波紋の代表的なものが、恋です。恋の意味を考えることを、哲学は避けてきました。そんなものは例外的な事態だ。いちいち取り上げてみるまでもない。文学にでも任せておけ、と。

そこに甚大な意味を見いだした思想家の一人が、本居宣長です。今回は恋愛の本質を述べたところで終わりましたが、次回以降、恋愛が人生にとって、どんなに大きな位置を占めるものなのか、宣長と共に考えてゆこうと思います。

お楽しみに。

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