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恋と学問 第20夜、夢から生まれた怪物たち。

水戸黄門

大岡越前

ウルトラマン

仮面ライダー

セーラームーン

アンパンマン

悪を懲らしめ善を勧める「勧善懲悪」の物語を、思いつくままに並べてみました。挙げようと思えば他にもたくさん出てくることでしょう。

外国にもないことはありませんが、日本ほど多くはないと思います。日本人が勧善懲悪という「お話の類型」を偏愛している証拠です。

勧善懲悪の物語と一口に言っても色々な種類がありまして、爽快感以上に哀愁を感じさせるものもあります。たとえばアンパンマン。彼は飢えた人に顔を食べさせ、敵の攻撃に倒れても、何度でも新しい顔を支給され、かろうじて悪に打ち克ち、この世界に善を打ち立てる。現実はそういうわけには行きません。肉体を差し出す行為は死に直結する最終手段であり、命を何度も投げ出すことは元より不可能であり、悪の社会を倒す者と善の社会を作る者が同一人物であることは滅多にない。

ことごとく無理がある設定です。作者のやなせたかしは、無理を承知でアンパンマンを書きつづけた。この世界にあまねく行われる不正の全責任を彼一人に背負わせた。そのことを通じて、正義の必要とその実現の困難を伝えつづけた。「アンパンマンは君さ」と歌う陽気な声とは裏腹に、叶わぬ夢を作品に託す作者の哀愁が、濃厚に立ちこめているのです。

アンパンマンに典型を見る、すぐれた勧善懲悪の物語に共通する特徴として、それが現実には有り得ないが、そう有って欲しいと誰もが願う世界の具体化であり、それを読む読者の心は、非現実の爽快感に身をゆだねるばかりではなく、非現実と現実との間に横たわる溝の深さを認識して、そこに哀愁を感じ取ることが挙げられます。

さて、ここまでが今夜の主題の前置きです。本居宣長は、紫文要領の第2部「善悪と物の哀れ」を中心に、源氏物語について広く行われている誤解への批判を展開していますが、その要旨は次のようにまとめることができます。

源氏物語の主題は道徳を説くことではない
道徳上の善悪とは別に物語上の善悪がある
物の哀れを知る人が物語における善き人だ
物の哀れを語り合える人生が豊かな人生だ

まず、「源氏物語は勧善懲悪の物語ではない」と、宣長は断言します。光源氏は、天皇のお妃候補だった朧月夜に手を出したために、須磨に追放されました。ここだけ見ればたしかに、「光源氏の悪行を懲らしめた」と解釈することも可能ですが、まもなく天変地異が都を襲い、世論も彼の味方をし、結局は舞い戻って、その後の人生は栄華を極めます。「善悪だけに注目するならば、まるで悪を勧めているようなものではないか」との、宣長の指摘はごもっともです。

光源氏の息子・夕霧が、頭中将の娘・雲居の雁と恋仲になるのも、同じように解釈されます。頭中将が二人を責めるのは、親として当然のことです。雲居の雁は宮中出仕を予定していたのですから、なおさらのこと、責められるべきは二人の軽率な行動であるはずです。それなのに作者は、むしろ頭中将のことを責めます。「恋心を分からぬ奴だ」といった調子で。始終こんな調子の物語に勧善懲悪の主題を読み込むなど、宣長の言う通り、曲解以外の何物でもありません。

ただし、宣長は「源氏物語は勧善懲悪のために書かれたのではない」と、事実を指摘しただけであり、勧善懲悪という考えかた自体を批判したのではありません。過去の学者たちが、これほど道徳と無縁な物語を、無理やり勧善懲悪の物語として読もうとしたのは何故なのか?曲解を可能にした彼等の「精神構造」を批判したのです。

その理由を端的に言えば、彼等が道徳を超える価値を持ち合わせていなかったからです。「人は己が理解できることだけを理解する」とはニーチェの言葉ですが、理解できない対象に出会った時に、人が取りうる態度は三通りあります。

1.理解できるように対象を改変する
2.理解できるように自己を改変する
3.理解を越えた存在として理解する

三番目は神の前にぬかづく態度ですので、さておくことにします。一番目の態度こそ、宣長以前の源氏物語研究者が取ってきた態度であり、自己を傷つけないで済む安楽な道です。作者が作品にこめた独自の価値判断を無視して、代わりに自分等が信じる世俗の価値観を作品に投影する道です。

宣長は彼等と異なる道を行きました。あえて二番目の道を選び、源氏物語という「異物」をそのままに迎え入れました。だから、これが道徳を説く物語でないことを、すぐに悟ることが出来ました。しかし、不道徳を勧めた物語ではないことも、同じくらい明らかでした。作者は道徳の価値を否定したいのではなく、人生の豊かさを測る尺度として道徳は必要十分な条件ではないと考え、道徳を越えた新たな価値を示そうと目論んでいる。

それは一体、何か?

作者が示した道徳とは別の価値、人生において道徳よりも価値の高い価値のことを、宣長は作者の言葉を借りてきて「物の哀れ」と名づけます。この言葉の最も基本的な意味は、「運命の味わい」のことです。これを知る人が善き人、これを表現できる人生が善き人生です。

何故そんなことが言えるのか?

宣長は「雨夜の品定め」(千年前の恋バナ)における左馬頭の発言に注目します。彼はこう言っていました。

(妻が)所帯の用事にかまけ切っていますのも、どういうものでしょうか。夫は朝夕の出入りにつけても、公私の人の振舞い、よい事悪い事となく見たり聞いたりしたことどもを、どうして気心の知れない者にしゃべりましょうぞ。やはり身近にいて、自分の話が分ってくれる人に聞いてもらおう、と思うにつけて、笑いも浮かべば涙も催すのです。あるいはまた、他人事ながら腹が立って、心一つに思い余ることがたくさんあったりする時、そんな具合では何を話しても無駄だと思うと、つい横を向いて、こっそり思い出し笑いが出たり、「ああ」と独り言が出たりしますが、ようようそれを聞きつけて「何事でございます」などと、間の抜けた様子で男の顔をのぞきこむ、といったような調子では全く情なくなります(谷崎訳「源氏物語」1-63)

宣長の解釈はこうです。

人のうへの事のよきあしきよろづの事の、わが心の内に思ふてばかりはゐられぬ事の有る物也。それは人にかたりてたがひにとかういへば、心の内のはるる物なり。然れどもうとき人に、ことごとしげにはいひきかせがたし・・・世間にまじはれば、おのづから腹立たしく心外なる事有りて、わが心ひとつには思ひあまりて、すましがたき事おほき物なるに、その中に人にはいはれぬことは、妻にこそは語らひ合せて、其の心をもはらしなぐさむべきを、かの物の哀れしらぬ妻にはいひてもかひなければ、何のためにかはかたりきかせんと思へば、見るも心づきなくてうちそむかるると也(岩波文庫版「紫文要領」83頁)

【現代語訳】
人の身の上に降りかかる善いこと、悪いこと、その他あらゆることの中には、心の内で思ってばかりは居られないことがあるものです。そんな時は人に語って、そのことについて互いにあれこれと思う所を言うことで、心の内を晴らすのです。とはいえ、そういうことに疎い人に言い聞かせても仕方がありません。また、世間と交際をすれば必然的に腹立たしく心外に思うことに遭遇して、心一つに留めておけないことが多々あるものですが、その中でも他人には言いづらいことは妻にこそ語り合って、その心を晴らし慰めたいものです。妻が物の哀れを知らない人であっては、言ったとて無駄であろう、ならば何のために語り聞かせようと、始めから諦めてしまって、夫婦の心が離れてゆくのです。

ひとり心の内で思うだけでは済ませられない思い(物の哀れ)を抱いた人は、必ずそれを人に語り聞かせたいと願います。歌を詠むのも、物語を書くのも、親しい人と哀れ深い話題について会話するのも、この願いを起点にして始まります。コップの水があふれ出るように、思いが余って語り出す行為であるという点で、宣長の中では、これらの行為は共通の心から出た個別の現象として統合的に理解されます。そして、「これが封じられてしまっては生きているかいがない」というくらいに、この種の表現の達成度は、人生の豊かさを左右するものとして理解されています。

物の哀れを表現する人とは、自己の感動を語って他人を感動させ、他人の感動を聞いて感動することの出来る人のことです。他人の喜びや悲しみを喜び悲しむことができること。そこには、ただ道徳的にふるまう以上の価値がある。自己の喜びや悲しみを他人が喜び悲しんでくれること。そのことが、道徳を超える生きがいを人生に与えてくれる。だから、さまざまな社会的制約があるにもかかわらず、私たちは互いの感動を伝え合おうと日々欲望しているのです。これが、宣長における「歌物語の発生起源説」です。

ここで第17夜「女ほど生きづらい物はない」の議論を想い起してみたいのですが、作者の紫式部は、源氏物語において「善き人」とされる人を、とても対照的に書き分けていました。光源氏と紫の上です。

光源氏は物の哀れを知りつくし、なおかつそれを十全に表現する人物として描かれます。紫の上は物の哀れを知りながら、それを表現するのに妨げとなる多くの制約に悩み苦しむ人物として描かれます。この書き分けは、片方に夢を託し、もう片方に現実を託すための書き分けだったのではないでしょうか?

このように考えを進める時、私たちはアンパンマンと源氏物語という、まったく別の主題を持つかに思える二つの作品が、じつは非常によく似た態度によって書かれたのではないかということに、思い当たるのです。次に引用するのは、宣長が紫式部の夢をどのように受けとめたかを語った箇所です。

これすなはち物語は、物の哀れを書きしるしてよむ人に物の哀れをしらするといふ物也。されば物語は教戒の書にはあらねども、しひて教戒といはば、儒仏のいはゆる教戒にはあらで、物の哀れをしれと教ゆる教戒といふべし(65頁)


【現代語訳】
源氏物語は物の哀れを書き記して読者に物の哀れを知らせるための書です。物語は人に教訓を垂れたり、言行を戒めたりする、いわゆる教戒の書ではないのですけれども、あえて教戒という言葉を用いるならば、儒学や仏教が言うような意味の教戒ではなくて、「物の哀れを知れ」と教える教戒の書だと言うことが出来るでしょう

光源氏とアンパンマンは共に、作者の夢だけが詰めこまれて造形された人物です。そのゆえに、現実感がない。憧れを抱かない。目指したいと思えない。作者とて、「あの人のようになりなさい」と勧めているわけではない。しかし、「物の哀れを表現する人」(光源氏)と「正義を打ち立てる人」(アンパンマン)は、共に人間の可能性の極限を示そうとしている。それが作者のはかない夢だったとしても、それをはかないと思ってくれる読者さえ居てくれるなら、この世はほんの一歩であれ、「善き世界」に近づいたことになる。二つの物語に共通する態度とは、作者のはかない夢を、夢のように現実感のない人物に託して、読者の感化を期待した所にあります。この態度に「教戒」という言葉を与えたいのならば与えよ。いま引用した箇所で宣長が言っているのは、このことです。

一方で両者には相違点もあります。現実感のない男性(光源氏)に対比させて、現実感のある女性(紫の上)を鮮やかに造形してみせた点です。明治以降、近代の学者たち、小説家たちは、この点にばかり注目して、源氏物語が千年も前に書かれた極めて写実的な文学であることに驚嘆し、強調して、その「現代性」をこの上もなく褒めそやすことを習いとしますが、それは源氏物語の本質の半面を指摘したに過ぎません。

現代の価値観に合致する部分だけを取り出して褒めることはかんたんです。それは作品の生々しさを殺ぎ落として、檻に閉じこめた猛獣よろしく、安全な立ち位置から眺めているだけのことです。たしかに紫式部が見た夢は、「文学という檻」に閉じこめておくより他ないような、危険な夢でした。物の哀れを際限なく表現しつづける人間がたった一人存在しただけで、この社会を混乱させること甚だしかったのですから。源氏物語はその克明な記録です。

アンパンマンもこれと似ています。やなせたかしが見た夢は、正義の人に過酷な使命を負わせて、彼を何度も殺し、何度も蘇生させ、社会に善を実現するまで休みさえ与えない。しまいには「アンパンマンは君さ」とすら言い出す。そのような、とてつもなく危険で、切実で、業の深い私たちを癒すための、人類解放の夢でした。

今夜の話をまとめてみます。

宣長は、源氏物語の主題が勧善懲悪ではないということを、客観的事実として指摘します。しかしそれは、勧善懲悪という考えかた自体を否定したものではありません。道徳の価値は認めつつ、善悪を超える価値として「物の哀れを知ること」を掲げた所に、紫式部の独自の思想があると悟ったのです。そして、物の哀れを表現すること(語り合うこと)によってこそ、人間同士の豊かな交流が始まり、この人生を生きがいのある豊かなものにしてくれるということもまた、宣長が発見した紫式部の思想でした。

しかし実際には、物の哀れの表現は社会の通念や常識によってさまざまに制約されています。夢も現実も描きたい紫式部は、己の作品に夢と現実を半々に織り混ぜて書くようにしました。夢は光源氏に、現実は紫の上に、それぞれ託して。だから、光源氏という人物の奇妙さを怪しむなかれ。あれはどこかにいた人間を写したのではない。作者の夢を人間の形にこしらえたものだ。このことは、同じ方法で作られたアンパンマンを通して見た時に、いっそう分かりやすくなるでしょう。

今夜はこのへんで。

それではまた。

おやすみなさい。




【以下、蛇足】




源氏物語に関する過去の研究は、そこに「勧善懲悪」の主題を読み込もうと無理をするあまりに、作品の姿を曇らせ読者を惑わせてきた。

この宣長の断罪はよく知られていますが、有名な主張をなぞるだけでは面白くないので、今夜はあえてアンパンマンという現代版の「勧善懲悪物語」との類似点から源氏物語を読み解くという、ちょっと風変わりな試みを行った次第です。

正義と物の哀れ。価値を置く所こそ違えど、作者が奉じる価値(夢)を凝縮させた人物造形、夢と現実との距離感において、アンパンマンと光源氏はよく似ている。そんな視点から考えてみるのも、源氏物語という遠い昔の作品を身近なものとして理解するためには、大切なことだと筆者は信じます。

さて、次回は第2部「善悪と物の哀れ」の最終回として、第4章「物の哀れ詳論」について論じます。今回も含めて、宣長はくりかえし儒学と仏教の価値観を源氏物語に持ち込むこと(牽強付会)を批判してきましたが、この第4章ではじめて両者についての彼独自の見解が示されます。かなりの読みごたえがある箇所です。

乞うご期待。

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