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江戸時代に最も重要視された「重陽の節供」とは?【歴史にみる年中行事の過ごし方】

「重陽」とは旧暦9月9日のことで、陽数(奇数)の最大値「9」が月と日に重なることから「重九」ともいった。

この「重九」の音が「長久」に通じることから縁起が良い日として喜ばれ、江戸時代には「五節供」の1つとして幕府の式日にも定められる。

「五節供」は明治5年(1872)12月の「明治の改暦」に伴い廃止されたものの、それぞれ旧暦の日付をそのまま新暦に引き継いで民間行事として残った。

「菊の節供」「栗の節供」とも呼ばれた「重陽」の行事から、その歴史を振り返りたい。


菊は不老長寿の力がある霊薬

古代中国の年中行事を記した『荊楚歳時記』によると、遅くとも漢代(BC206~220)には9月9日に茱萸(漢方薬に用いる生薬の一つ)を腰に下げて山や丘など高い所に登り、菊の花を浸した「菊酒」を飲んで邪気を払う風習があったという。

当時、流行していた神仙思想では菊は不老長寿の力がある霊薬と信じられていた。

これらの行事が飛鳥時代から奈良時代にかけて日本に伝えられる。
ただし、『日本書紀』の天武天皇14年(685)9月壬子条に菊を愛でる「重陽の宴」が催されたと記録されているものの、翌年=朱鳥元年(686)9月9日に天武天皇が崩御したこともあり、その後、約130年にわたって停止されていた。

宴が再開されたのは平安時代初期の弘仁年間(810~824)のこと。延暦10年(791)に天武天皇の国忌が廃され、弘仁2年(811)には嵯峨天皇が神泉苑に文人を召して華やかな宴が催したことがみえる。そして、淳和天皇の天長8年(831)以降は宴紫宸で行われるようになった。

日本独自の風習「菊の被綿」

平安時代初期、9月9日の「重陽の宴」は紫宸殿の儀として定着する。その次第は『西宮記』や『北山抄』などに詳しいが、天皇が紫宸殿に出御、皇太子以下公卿参入着座、文人賦詩、賜宴、奏舞、詩の披講、賜禄などがなされたという。

それが平安時代末期になると、天皇が出御せず、宜陽殿で臣下に「菊酒」を賜るだけの平座の儀が多くなる。
この「菊酒」は杯に菊花を浮かべたもので「菊花酒」ともいい、やがてまじないとして杯の中の菊花を吹いて飲むしきたりもできたという。

また、この間、前日(8日)に菊に綿を被せたものを屋外において、その香と露を綿に移し、当日(9日)にその綿をとって顔や身体を拭い長寿を祈願するという風習が生まれている。これを「菊の被綿(きせわた)」といった。

「菊の被綿」について、清少納言は『枕草子』のなかで「九月九日はあかつきがたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたくぬれ、うつくしの香ももてはやされて、つとめてはやみたれど、なほくもりて、ややもせばふりおちぬべくみえたるもをかし」と記している。

また、紫式部はその日記に「九日、菊の錦を兵部のおもとの持て来て」と書き、「菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」と詠んでいた。

五節供の最後を締めくくる節供

鎌倉時代から室町時代にかけて「重陽の宴」は、あまり盛んには行なわれなかったようだ。後醍醐天皇の『建武年中行事』にも「重陽の宴」は絶えて久しいと書き留められているという。

それが江戸時代になると「重陽」は五節供の1つとして幕府の式日に加えられ、五節供の締めくくりとして重要視された。

江戸後期の天保9年(1838)に刊行された『東都歳時記』には「重陽御祝儀 諸侯 御登城」とあり、諸侯は9月9日の五ツ時(午前8時頃)に出仕して祝儀を述べ、白木の三方へ引合一重、紅白の丸餅、熨斗に菊枝を添えたものなどを献上した。また、この日、大奥では延命の吉例として、御祝いの杯に黄菊の花びらを浮かべて飲んだという。

一方、「菊の被綿」については、江戸後期に書かれた『古今要覧稿』という書物に「九日に花咲あへぬ年は、綿を菊の花のかたにつくりて、八日の夕に菊にきせ置、露にしめりたるを九日にとりて、その綿にて身をのごいて、齢をのべ、老をのごひすて、若がへるなどいふまじなひにせるよしなり」と解説されていた。

9日の朝に菊に降りた露には、若返りの霊力が宿るとされる伝承が、当時、広く普及していたことがうかがえる。

なぜ「重陽の節供」は馴染みが薄いのか

江戸時代、五節供の最後を締めくくる「重陽」は最も重要な節供として扱われ、地方の武家や庶民にも浸透した。

地方の農山村では、旧暦の9月9日を秋の収穫祭とすることが多く、彼らは「菊酒」を飲み、秋の味覚である新米と栗を炊いた「栗ご飯」を食べて五穀豊穣を祝ったという。そのため、この日は「栗の節供」とも呼ばれた。

そんな「重陽の節供」は、なぜ現在、ほかの節供に比べて馴染みが薄いのか。

その理由の1つとして、時代が下るにつれて3月3日の「上巳」や5月5日の「端午」に加わった、子供の成長を祝う要素が「重陽」にはみられないことがあげられる。

そしてやはり、明治6年(1873)の太陽暦の採用によって、季節にズレが生じたことが大きかった。

旧暦の9月9日は現在の10月中旬にあたり、菊の花が美しく咲き誇る、まさに見頃を迎える時期だった。

しかし、新暦の9月9日は、まだ残暑が厳しい。菊の花を楽しむにも、栗を収穫するにも時期的に早すぎるため、この日を祝う風習はあまり残らなかった。

「明治の改暦」以降、季節感を失ったことで現在「重陽」の行事は廃れつつあるが、それでも10月から11月にかけて全国各地で開催される菊人形展や菊の品評会などは、その名残りとみられている。(了)

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国立国会図書館デジタルコレクション

【主な参考文献】
・神崎宣武著『「まつり」の食文化』(‎角川書店)
・谷口貢・板橋春夫編著『年中行事の民俗学』(八千代出版)
・河合敦監修『図解・江戸の四季と暮らし』(学習研究社)

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