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織田信長と蒲生氏郷|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】

「人手不足」と「人材不足」は違うという。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。
前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は“人手”不足が全国的に注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も浮き彫りになってきた。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”をいかに獲得し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現在も昔も変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


信長流人材育成

新入社員は企業の将来を背負う大切な人材だ。
特に次代の経営を担う幹部候補の育成は、どの企業にとっても最重要課題といえる。

戦国の覇王・織田信長(1534~82)は、将来有望な10代の少年たちに自ら英才教育を施した。
そんななか次代の織田家を支えるべく、信長に最も期待されたのが蒲生氏郷(1556~95)だ。

永禄11年(1568)9月7日、信長は自国の尾張と美濃、同盟者である三河の徳川家康(1543~1616)、北近江の浅井長政(1545~73)の兵など6万を動員して上洛戦を敢行。約3週間後の26日には室町幕府15代将軍候補・足利義昭を奉じて上洛を果たした。

氏郷の父・蒲生賢秀(1534~84)は南近江の六角氏の重臣で、この上洛戦の過程で信長の軍門に降る。その人質として信長の許へ送られたのが13歳の氏郷だ。

この頃、岐阜城には氏郷と同じような境遇の子供たちがいた。

戦国時代の人質と聞けば、薄暗くフラストレーションが溜まる生活を想像する。しかし、当時の人質の預かり元は、とりわけ人質を牢に監禁していたわけではない。
特に信長の場合、人質を身近に置き、日常の行儀作法や戦場での軍隊の規律を教導した。

なぜか。

人質が成長して一廉の将となれば戦力になるからだ。

一方、人質となった子供たちにとってもメリットはあった。
日々、同じ境遇の者と交流し、その家の諸将とも顔見知りになる。気がつけば人的ネットワークが広がっていた。

彼らは信長の背中を見ながら能力向上に努め、領国経営や戦場における戦略・戦術を身につける。その過程で信長に認められれば、一躍、次代を担う幹部候補に抜擢された。

「あのものは、いずれ良き将になりましょう」

人質時代の氏郷が出会った人物に、美濃出身の稲葉一鉄(良通/1516~89)がいる。
一鉄は「文」と「武」を兼ね備えた武将で、ときおり信長に招かれては軍物語や自らの体験談を語った。

そんなある日のこと。一鉄が夜が更けるのも忘れて話つづけたところ、信長の小姓たちの大半が寝てしまった。言ってもまだ子供だ、無理はない。
そんななか氏郷は瞬き一つせず、目を輝かせて一鉄の話に聞き入っていた。

「あのものは、いずれ良き将になりましょう」

「ああ、いい目をしている」

氏郷の非凡な才能を見抜いた信長は、永禄12年(1569)に自らが烏帽子親となり元服させる。そして同年8月、伊勢大河内城の戦いで初陣を飾らせると、その冬には娘を嫁がせた。信長の氏郷への期待の大きさが感じられる。

以後、氏郷は信長の引き立てを受けつつ、その主要合戦――越前朝倉攻め、伊勢長島攻め、長篠・設楽原の戦い、有岡城の戦い、第二次天正伊賀の乱などに参戦。いずれの戦でも抜群の戦功を上げていった。

その氏郷の名が一躍、天下に轟いたのは天正10年(1582)6月――本能寺の変の直後だ。
氏郷は父・賢秀とともに近江安土城の信長の家族を救出すると、玉砕覚悟で光秀の誘いを拒絶した。

このとき畿内は光秀の勢力圏内にあり、大半は光秀を支持、あるいは消極的中立が占めていた。そんななか蒲生父子は、正々堂々と拒絶の意志を表明する。

主従関係がドライな戦国時代にあって、蒲生父子は義理堅く、実直だった。

「上様の仇、明智光秀を討つ」

羽柴秀吉(のち豊臣、1537~98)の“中国大返し”が遅れていれば、この父子は討死していただろう。やがて秀吉は、20歳も年少の氏郷をまるで賓客をもてなすように味方陣営に迎え入れる。

このあたりの秀吉の立ち居振る舞いは、さすがだ。

その後、氏郷は秀吉の天下平定戦のなかで、その類稀な軍才を発揮する。秀吉と家康の直接対決となった小牧・長久手の戦いでは氏郷は殿軍を担当。やがて氏郷は天下の名将として仰がれるようになる。

「一歩も動けませぬ」

天正18年(1590)に天下統一を果たした豊臣秀吉は、政権第二位=五大老筆頭の徳川家康を関東に封じる。そして豊臣恩顧の大名たちを東海道筋やその周辺に配置し、家康が武装西進した場合に備えた。

秀吉の極度な警戒心と敵意は、当然、家康も気づく。

「さて、力押しでどの辺りまで進めようか」

ある四方山話の席上、本気とも冗談ともつかないトーンで家康が呟いた。

周囲にいた者は、一瞬、驚いたものの、冗談と気づくや口も軽くなる。幾つもの意見が出た。

そんななか家康の腹心・本多正信だけは口を開こうとしない。その様子に気づいた家康が正信に目を向けると、彼は周囲に気づかれぬよう無言のまま首を左右に振る。

(一歩も動けませぬ)

秀吉の家康包囲網のポイントは、東海道筋より関東の後方にあった。

このとき家康は、沈黙したまま頷き返す。

(その通りだ)

関東の後方――奥州会津には氏郷が控えていた。
その頃、氏郷は奥州会津に92万石の大名となっていた。
関東の家康のほか、奥州の伊達政宗、越後の上杉景勝の3人を牽制するため、秀吉があえて氏郷を配置したことはいうまでもない。

“三英傑”が認めた男

奥州会津に移るおり、氏郷は一つだけ秀吉に注文を出している。

それは秀吉本人や諸大名家から“奉公構”となっている者たちを召し抱える許可だった。

“奉公構”とは、主君の怒りを買って飛び出した者(牢人)を、ほかの大名家は召し抱えないようにと釘を刺した回状のこと。“奉公構”のような刑罰は、すでに戦国大名の分国法(家法)などにもあったが、彼らは領土の範囲が限られていたから国境を越えれば自由はきいた。
つまり“奉公構”は、天下を統一した秀吉だからこそ、その威力を遺憾なく発揮できたといえる。

それを氏郷は「解除せよ」と言う。しかも「断れば奥州には行かぬ」とも。

秀吉は氏郷の申し出をしぶしぶ了承する。

氏郷が召し抱えた牢人たち皆“はみ出し者”ばかりだ。彼はひと癖もふた癖もある強者たちを束ねて奥州へ下った。

氏郷が奥州会津に入国して1ヵ月が経過した頃、同地の旧領主・伊達政宗の煽動による一揆が勃発。葛西・大崎(現・宮城県北部と岩手県南部)の地に、30万石を新領した木村吉清が襲撃される。

一揆勢の抵抗は凄まじく、奥州一帯に拡大するかにみえた。
このとき氏郷は“はみ出し者”たちを率いて見事に鎮圧する。

新規に家臣を召し抱えたとき、いつも氏郷は同じ言葉を口にした。

「戦場に出たなら、わが家中に銀の鯰尾の兜で奮戦する者がいる。その者に負けぬように励め」

いざ戦となると、確かにわれ先に戦場を駆けて敵陣に踊り込み、次々と敵将の首をあげる鯰尾の銀の兜をかぶった者がいる。

主君・氏郷だ。

氏郷は何事にも“率先垂範”を貫いた信長を生涯の師と仰いだ。彼は家臣を統率するため、常に先頭に立って模範を示した。
当然、家臣たちは氏郷を慕った。

家臣統率の心得について彼は言う。

「家中の者には、情を深くして知行(領地・給料)を与えるべきだ。しかし、知行だけ与えても、情がなければ何事も成功しない。そして、情ばかり厚くとも、知行がなければこれもまた空しい。知行と情は車の両輪、鳥の両翼のようなものなのだ」

“三英傑”が認めた男・蒲生氏郷――信長流人材育成の“結晶”といえる。(了)

※この記事は2018年7月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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