織田信長と明智光秀|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】
「人手不足」と「人材不足」は違うという。
“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。
前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。
コロナ禍以前は“人手”不足が全国的に注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も浮き彫りになってきた。
戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”をいかに獲得し、定着させ、起用するかだった。
人材こそがすべて――これは現在も昔も変わらない。
戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。
「やってやろうじゃないか」
バブルが崩壊した1990年代以降、日本的経営の象徴だった終身雇用や年功序列といった人事制度は幻想と消え、近年、働き方改革の推進やライフスタイルの多様化に伴い、成果主義を導入する企業が増えてきた。
よく誤解されるが、“弱肉強食”の乱世とはいえ、戦国時代の大名家が皆、成果主義だったわけではない。当時、ほとんどの大名家では家臣の序列は決まっていた。代々、その家に仕えてきた譜代の重臣を飛び越え、いわゆる中途採用の外様や一介の牢人が偉くなることは難しかった。
そんななか、徹底的な成果主義を導入したのが、織田信長(1534~82)率いる織田家だ。
信長は人を道具のように捉え、性能のみで考えていた。だから身分や出自を問わず、その人物をみて召し抱えた。そして家臣がやりたいと言えば平等に機会を与え、実力を発揮した者を抜擢した。
信長は、家臣の人間性や個々の事情を斟酌しない。裏方でも成果さえあげれば平等に評価する。槍を手に戦場を駆ける戦闘部隊も、後方にあって食糧や弾薬などを運搬補給する支援部隊も同じように目にかけた。
「やってやろうじゃないか」
日々の成果が報酬に直結する成果主義は、織田家の家臣たちのモチベーションを上げる。家臣たちはスキルアップを図り、それぞれの役割のなかで成果をあげられるよう切磋琢磨し、個々の能力向上に努めた。
結果、それは織田家躍進の原動力となる。
「将軍を擁立すれば天下の政事が仕切れますぞ」
永禄10年(1567)8月、信長は自国である尾張につづいて美濃を統一する。
この頃、信長は娘・五徳を三河を統一した徳川家康(1543~1616)の嫡子・信康のもとへ嫁がせ、愛妹・お市を北近江の若き当主・浅井長政(1545~73)のもとへ送り出している(諸説あり)。また美濃攻略戦の過程で甲斐の武田信玄(1521~73)と勢力圏が触れ合うや、養女(妹婿・遠山勘太郎の娘)を信玄の嫡子・勝頼に嫁がせて友好関係を結んでいた。
信長は“遠交近攻”の逆――“近交遠攻”――利害が一致する近隣諸国と手を結び、遠方の者を攻撃奪取する戦略を採用しつつ、上洛戦の大義名分とタイミングを探った。
そして同年11月、信長は師父・沢彦宗恩(?~1587)の撰による、四文字のスローガンを掲げる。
「天下布武」
やがて信長のもとには、全国各地から腕におぼえのある者、知略に通じる者など多くの人材が集結する。そのなかに、文武ともにずば抜けた才能を持つ〝男〟がいた。
明智光秀(1516?~82)だ。
このとき光秀は2年前に三好三人衆や松永久秀によって弑逆された、室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭とのパイプを持っていた。
「将軍を擁立すれば、天下の政事が仕切れますぞ」
これは光秀でなくても、もちろん信長も含め、当時の戦国大名はであれば誰もが思いついたことだ。現に畿内には三好三人衆や久秀が擁立した14代将軍・義栄がいる。が、彼らは将軍を擁しながら権力闘争に明け暮れ、天下の政事を動かせていなかった。
そもそも発想や思いつき、アイデアといったものには何の価値もない。要はそれらをどう具現化し、現実の成果に結実させるかだ。
「ほう、おもいしろい」
信長は光秀の出現により、上洛戦の大義名分――15代将軍候補の義昭――を得る。そして彼は義昭を将軍に就けるべく迅速かつ果断に動いた。
翌永禄11年(1568)7月、信長は美濃の立政寺で義昭を丁重に出迎え、2ヵ月後には義昭を奉じての入洛を成功させる。
「やっと培ってきたスキルを活かせる」
光秀の前半生は謎に包まれている。生年も出生地も諸説あり、確かなことは美濃出身で、若い頃に美濃を出て越前朝倉氏に仕えたらしいことくらいだ。実のところ、光秀が信長に仕えた時期は定かではない。
ただ、光秀が歴史の表舞台に登場するのは永禄11年(1568)11月、信長の上洛以後だ。このとき光秀は京都で織田家と朝廷や幕府の間を往来しているから、信長上洛の直前に仕えたとみるのが妥当だろう。また近年では67歳没説が有力視されている。逆算すれば光秀は53歳で信長に仕えたことになる。
いずれにせよ、光秀は尾張・美濃出身者を主体とする織田家にあって、京都の朝廷や幕府と交渉のできる人材だった。つまり、光秀は彼らと対等に渡り合うだけの知識と教養を持つインテリだ。
おそらく、若くして美濃を出た光秀は、立身出世を夢見て“北陸の覇王”・越前朝倉氏に仕えた。そして無名の10代~40代に文武の修行を積み、数多く現場を経験するなかで様々なスキルを身につけた。
そんななか朝倉氏三代――貞景・孝景・義景――を補佐してきた一族の重鎮・朝倉宗滴(教景)が陣没する。天文24年(1555)のことだ。以後、主君・義景は遊興にふけるようになり、天下統一はおろか越前一国の支配すら積極的におこなおうとしなくなった。
やがて光秀のもとにも、桶狭間の戦い(1560)で今川義元を討った尾張の織田信長の噂が聞こえてくる。戦国の武士は主君が無能で、その家がふるわなくなると、さっさと見限り別の家に移った。
「再仕官するなら織田家だ」
そこへ流浪の将軍候補者・義昭がやってくる。光秀は再仕官の材料に、この人物を大いに利用しようと思いつき、信長に近づいたのではなかったか。
当初、光秀は義昭と信長に両属の家臣として仕えていたが、信長と義昭の対立のなかで義昭と決別し、信長の家臣となった。
どうやら光秀は織田家にヘッドハンティングされたようだ。
そして光秀は織田家を知れ知るほど信長に魅了される。なにしろ、この家では成果主義が貫かれていた。
「やっと培ってきたスキルを活かせる」
やがて光秀は朝廷や幕府との交渉だけではなく、戦場で指揮を執らせても抜群の才を発揮する。
光秀は、信長の実力本位の人材抜擢のおかげで、わずか3年ののちに近江坂本城主(現・滋賀県大津市)となる。“一国一城の主”となったのは織田家譜代の家臣・柴田勝家(1522?~83)、丹羽長秀(1535~85)よりも早かった。その後、光秀は反対勢力が根強く残っていた丹波攻略の主将として戦線へ。天正8年(1580)には平定し、丹波一国を加増されて亀山(現・京都府亀岡市)城主となった。
「丹波国(における)日向守(光秀)の働き、天下の面目をほどこし候」
信長は光秀の働きを褒めたたえ、家中第一の切れ者としてもてなしている。彼は光秀に坂本と亀山、京都東西の要衝の地を委ねるなど、その力量を高く評価していた。
一方、光秀も自らの家臣団に対して「家中軍法」のなかで、主君への感謝の念を語っている。
「すべては、信長さまのおかげである」
光秀が“本能寺の変”に及んだのは、それからわずか1年後のこと。両者の間に何があったかは謎だ。
信長流成果主義の限界
光秀は織田家のなかで最も優秀な人材だった。彼は信長の過度な要求にも完璧に応え、成果を出してきた。
信長も光秀の成果に対し、所領をはじめ様々な形で報いてきた。上司として信長に落ち度はない。
ただこの頃、織田家は戦に明け暮れていた。信長も光秀も、織田家の家臣たちはずっと狂気と殺戮の世界に棲んでいた。皆、かなり強いストレスを抱えていただろう。
そんななか、織田家は天下統一に王手をかける。中途採用とはいえ、光秀には信長の「天下布武」のために誰よりも働いてきたというプライドがあった。
「そもそも上洛のきっかけを作ったのは私ではないか」
しかし、信長はこれまで人を道具や性能として以外は見ようとしてこなかった。彼には部下の疲労や悩み、本心やプライドに気づく能力が欠落していた。
狂気と殺戮の世界で、光秀は心身ともに疲労困憊していた。そんな彼が最終的に信長に求めたものは、成果に対する報酬ではなく、たとえば、ねぎらいの言葉ではなかったか。
「いまの織田家があるのは、おまえのおかげだ」
悲劇を回避する方法は、誰もいないところでの、そんな一言だったかもしれない。(了)
※この記事は2018年6月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。
【イラスト】:月岡エイタ
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