![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/137135971/rectangle_large_type_2_258539bfaac0427a99e3371b85dbe0f7.jpeg?width=1200)
晩春の「丹鶴城公園」(和歌山県新宮市)【紀伊半島を知る、伝える】
(生まれ育った土地を“故郷”と呼ぶのなら、居を構え、もっとも長く暮らした土地は“地元”と呼ぶのだろう)
令和5年(2023)11月29日、父の三回忌法要を終えたあと、三重県の紀北町(旧・海山町)と尾鷲市にまたがる「便石山」(599m)の「象の背」に立ち、そんなことを思った。
父にとっては紀北町が故郷で、尾鷲市が地元にあたる。
![](https://assets.st-note.com/img/1712982743301-mNvHZQq8nL.jpg?width=1200)
父の死を機に自らのルーツを意識するようになり、45歳を前にセカンドキャリアについて考えるようになった。
そして「もし将来、紀伊半島に活動拠点を移すとしたら、今の僕がすべきことは何か?」を考えたとき、馴染みのある紀伊半島の東側、三重県の紀北町・尾鷲市・熊野市・御浜町・紀宝町の5市町で構成される「東紀州」も含め、紀伊半島について知らないことが多いことに気がついた。
まずは知ることから始める――何事においても基本だ。
東京で生活しながら情報を収集すべく、令和6年(2024)1月、Facebookの【紀伊半島の魅力を伝えよう】というグループに参加した。
「東紀州」を中心に、同グループに投稿した「紀伊半島」に関する情報や画像を、その時季に合わせて紹介していく。
【紀伊半島を知る、伝える】
晩春の「丹鶴城公園(新宮城跡)」
![](https://assets.st-note.com/img/1712984241111-swPM9LABgd.jpg)
【撮影】:水谷靖彦
晩春の「丹鶴城公園(新宮城跡)」
和歌山県は新宮市にある「丹鶴城公園の桜」。
紀伊半島最大の一級河川・熊野川の河口近く、南岸の丘陵にある城跡公園を「丹鶴城公園」という。
この丘陵が「丹鶴山」と呼ばれるようになったのは、平安時代末期、源為義の娘で熊野別当の妻・丹鶴姫(鳥居禅尼)の屋敷があったことに由来する。この頃、同地に丹鶴姫が東仙寺を建立したとされ、南麓には熊野速玉大社の神宮寺である香林寺(現・宗応寺)があったという。
その後、紆余曲折を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は紀伊国に浅野幸長を入国させた。
新宮にはその一族の浅野忠吉が入り、翌慶長6年、忠吉は「丹鶴山」にあった東仙寺と香林寺を移転させて築城を開始する。この城は元和元年(1615)の一国一城令によって破却されるが、3年後には再建を許可された。
元和5年、浅野氏が安芸国に国替えとなり、忠吉も備後国三原に移る。紀伊国には家康の10男・徳川頼宣(紀伊藩初代藩主)が入国し、新宮には頼宣の付家老・水野重仲が入った。
この重仲が忠吉の築城工事を継続しておこない、寛永10年(1633)、2代・重良の時代に「新宮城」が完成する。つまり、「新宮城」は浅野氏が築城を開始し、そのあとに入った水野氏が完成させた城といえる。やがてこの城が「丹鶴城」と呼ばれるようになった。
その後、約230年、新宮の中心だった「新宮城」も明治4年(1871)の廃藩置県によって廃城となり、明治8年には本丸・二の丸などすべての建造物はすべて取り払われた。
現在、本丸跡を中心に「丹鶴城公園」として整備され、高台からは熊野の山々や熊野川が見渡せる。
![](https://assets.st-note.com/img/1712984240848-nWm5nDdFGu.jpg)
![](https://assets.st-note.com/img/1712984241051-SkkbVtaI8h.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1712984241310-AQWSNXcutn.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1712984240789-RqKzBHaGSO.jpg?width=1200)
【撮影】
水谷靖彦
【撮影日】
令和6年(2024)4月12日
【所在地】
和歌山県新宮市新宮7688-2
【メモ/雑学】
・和歌山県新宮市にあった平山城。
・正保元年(1644)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図『正保城絵図』の「紀伊国新宮城之図」によると、本丸の南西に「鐘ノ丸」、その北西に「松ノ丸」が配されていたことがわかる。
・城跡の南約1kmにある「水野家墓所」は、新宮初代城主・重仲から10代までとその親族の墓碑が良好に保存されていることから、平成15年(2003)に「新宮城跡」とともに国の史跡に指定された。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?