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【戯曲】チェンジ・パートナーズ 一挙掲載版

2014年に書いた未発表の長編戯曲を公開します。私が初めて書いた戯曲になりますが、これが認められて?日本コメディ協会に参加を許されたという、自分としても記念碑的な作品です。

上手(かみて)と下手(しもて)の違いも分からないようなまったくの演劇初心者がいきなり長編を書くなど、今考えると恐ろしいですが、内容的にはこれまで書いた中でも一番王道を行くコメディかもしれません(脚本や小説を含めても)。

▼あらすじ

住吉佳純と廣沢怜のカップルは旅先の軽井沢で若いカップルと知り合う。滞在先のホテルでケンカになった二組は、翌日恋人を交換して観光することになるが、行く先々で相手に出会うことになり……。

登場人物:6人(男4:女2)
上映時間目安:1時間45分
劇場サイズ目安:中劇場以上

▼登場人物

住吉佳純(すみよしよしずみ、34)……売れないイラストレーター
廣沢怜(ひろさわれい、31)……派遣の事務系OL、動植物に詳しい
馬場炯介(ばばけいすけ、24)……大学院卒で求職中、学芸員志望
哀川七穂(あいかわななほ、26)……家具メーカーを退職したばかり
山内誠(やまうちまこと、27)……ホテルの従業員、ミュージシャン志望
白バイ警官

▼構成

【第一幕】
第一場 軽井沢のある安ホテル
第二場 同ホテル、夜遅く

【第二幕】
第一場 その翌日、ドライブ
第二場 浅間牧場
第三場 白糸の滝
第四場 鬼押し出し園
第五場A 野鳥の森
   B 野鳥の森
   C 野鳥の森
   D 野鳥の森
   E 野鳥の森
第六場 東京駅


▼本編

〈第一幕〉

▼一場

 軽井沢のとあるチェーン経営の安ホテル。四月中旬といっても当地ではまだ冬を越したばかりで、ゲレンデにはまだ雪が残っている。シーズンオフとオンの境目で観光客は極めて少なく、まだ営業を再開していない施設や店舗も多い。
 舞台はホテルのロビー。画一化された極めて簡素なデザインで、安さが売りとはいえあまりに飾り気がない。
 壁に薄型テレビがかけてあり、向かい合わせになるようにしてソファが二つ置かれている。隅には軽食や飲み物の自販機が設置され、それと並んでティーバッグやハンドタオル、その他アメニティが置いてあるステンレスラックがある。セルフサービスなのだ。他には情報検索用のノートパソコンが置かれた机、あとあるのは新聞や情報誌などの並んだマガジンラックくらい。
 舞台手前の下手側にエントランス。入ってすぐのところにフロントがある。フロント内の背後には横開きのドアがあり、奥は従業員の控え室になっている。正面奥と上手奥にそれぞれ廊下が続いている。ホテルは二階建てで、フロントの上に207号室、逆側に215号室がある。
 夜九時近く、ホテル内は静まり返っており、明かりはついているものの人の気配は感じられない。フロントも無人である。
 東京から格安ツアーで一泊旅行にやってきた住吉佳純と廣沢怜のカップルがチェックインする。ツアー料金は一名につき「新幹線の往復乗車券+ホテル代+朝食つき」で12700円。夕飯は外のレストランで済ませてきた二人は、鞄を一つ持っただけの身軽さである。

佳純 (エントランスから話しながら入ってくる)通りに植えてある木、あれ何? 
 コブシじゃないかな。
佳純 へぇ、あれがコブシ。きれいに咲いてるね。もっと背が小さいもんかと思ってた(フロントの呼び鈴をチーンと鳴らす。しかし、誰も現れない。ロビーを見回して安っぽさにがっかりして)いつも行ってる歯医者の待合室に似てるな。(怜に)こんなところですいませんねぇ。
 十分です。
佳純 (もう一度呼び鈴を鳴らすが、やはり誰も現れない)従業員もいない。他の客もいない。斧を持ったジャック・ニコルソンがいきなり出てきたりして。

フロント内の横開きのドアから、山内誠が現われる。制服を着ているが、無帽で寝癖がついている。上着のボタンを留めながらフロントに立つ。どうやら寝ていたらしい。愛想はいいが、お喋りなところが玉に瑕な若者である。

山内 すいません、お待たせしました。
佳純 大丈夫。まだカウントツーだったんで。
山内 ちょっと立て込んでおりまして。
佳純 ……なるほど。予約してる住吉です。
山内 (ノートパソコンで予約を確認する)住吉様、二名様ですね。はい、お待ちしておりました。では、こちらの宿泊カードにご記入いただいてよろしいですか。
佳純 はいはい。
山内 晴れてよかったですね。急に暖かくなってコブシも満開です。
 たくさんありますよね。
山内 軽井沢の町の木なんですよ。
 そうなんですか。
山内 (どこから来たのか言い当てようとして)東京から?
 そうですけど、どうして?
山内 そう言っておけば半分くらい当たります。新幹線ですぐですし。
佳純 (記入を終えて)新幹線、寝ちゃったからぜんぜん遠くに来た気がしないですよ。ホントにあっという間で。
山内 分かります。(チェックしながら)先週はマイナス二度まで下がったりしたんで、ちょうどいいときに来られたかと思います。
佳純 まだそんなに寒くなるんだ。
山内 では、こちらがルームキーになります。お部屋は207号室です。(正面奥の通路を指し)そちらを左手に行ったところに階段とエレベーターがありますので。
佳純 はい。
山内 朝食は七時から九時の間でやっておりますので、明日の朝、食堂の方にお越しください。食堂は(上手奥の通路を指し)、あちらを行った突き当たりにございます。
佳純 分かりました。
山内 それでは、どうぞごゆっくり。

佳純と怜は荷物を持って正面奥の通路から退場。

山内 (ノートパソコンをチェックして)今日の宿泊客は、あと一組か。チェックインの予定は七時半。(腕時計を見て)もう九時か。電話を入れるべきか、入れないべきか、入れるべきか、入れないべきか……。今日一番の難問だな。(と言いつつ、あっさり結論を下し)よし、電話はしない。ほっときましょう。ぼくには色々とやることがあるんでね。

山内、控え室に戻る。
フロントの真上にある207号室の明かりがつく。佳純と怜が中に入ると、部屋は驚くべき狭さである。ほとんどを占領するようにしてダブルベッドがでんと置かれ、余った部分が通路となっている感じ。お互いうまく避けなければすれ違うこともできない。室内は他にライティングボード、テレビ、湯沸かし器、そして足元に小型冷蔵庫があるだけ。窓はカーテンが閉まっている。

佳純 おれのアパートの方がまだ広いぞ。
 これはさすがに狭いね。
佳純 (部屋を点検して回る)開けてみる引き出しが一つもない。持ち帰れるものも何もない。お茶もない。
 お茶はロビーから持ってくるみたい。全部セルフなのね。(バスルームから歯ブラシを持った手を出して)歯ブラシはあった。
佳純 (苦々しげに)徹底してるのは嫌いじゃないけどな。
 景色はいいかも(とカーテンを開ける)。
佳純 (一緒に見て)……駐車場が見える。その向こうに車道がある。その向こうに何か資材置き場が見える。その向こうは、見えない。
 朝になれば浅間山が見えるかも。
佳純 噴火してなくなってなければね。
 (通りを歩く若いカップルに気がつく)あ、あの二人。
佳純 (見て)あぁ。今日何度か見かけたね。
 (彼らが入り口に向かうのを確認して)ここに泊まるみたい。今日、新幹線から一緒だったよね。
佳純 ホント? 美術館では気がついたけど。
 まぁまぁかわいい子。
佳純 まぁ――、(慌てて否定)いや、そう? よく見てなかったから。
 どうだか。
佳純 クレーの絵に感動してたから、そんなもの見る暇なんてなかったよ。
 (疑わしい目で)ふーん。よかったね、同じホテルで。
佳純 ま、貧乏旅行だってことは同じだな。

207号室の明かりが落ちる。
一階フロントにスーツケースを引いた馬場炯介と大きな肩掛けカバンを持った哀川七穂が来る。二人とも力尽きたように荷物を床にどさりと下ろす。炯介は呼び鈴を鳴らすが、またしても誰も現れない。他の宿泊客も見当たらず、ロビーはただ煌々と明るいばかりで静まり返っている。
二人は険悪ムード。歩き疲れてへとへとで、おまけに空腹でイライラしている。

炯介 (呼びかけて)すいません!
七穂 もうイヤ。疲れた。ここであってるのよね?
炯介 あぁ。(再び呼び鈴を押して呼びかける)ちょっと誰か!
七穂 レストランはシーズン前でまだオープンしてなかった。最終のバスは逃した。タクシーは通らない。道は間違える。せっかくラーメン屋があったのに、もっといいところで食べたいなんて通り過ぎるから何も食べてない。
炯介 割れた窓ガラスにガムテープを貼ってるような店だぞ。暖簾は黒ずんでたし、サンプルケースは埃だらけ。まともなものが出てくるとは思えないだろ。
七穂 何も食べないよりましでしょ。
炯介 他に店がないのがいけないんだ。見つけたと思ったら閉まってる。コンビニだって一軒もない。何なんだ、この町は。商工会議所に苦情を言ってやる。
七穂 すぐ人のせいにする。誰もいないの?
炯介 (苛立たしげに呼び鈴を鳴らす)誰か!

控え室から山内誠が現れる。今度は身なりはきちんとしている。

山内 お待たせして大変申し訳ありません。
炯介 遅いよ。
山内 失礼いたしました。ただいま大変混み合っておりまして。
炯介 混み合ってって、一体どこが――。
七穂 予約してます馬場です。この人の名前ですけど。
山内 はい、馬場様ですね、承っております。それではこちらの宿泊カードにご記入をお願いします。
七穂 はい(記入する)。
炯介 食堂、まだやってますか。
山内 (ノートパソコンを確認して)えー、お客様は夕食のご予約は……。
七穂 してないです。
炯介 でも、何かあるでしょ。何でもいいんで。
七穂 夕飯食べ損なっちゃって。
山内 そうでしたか。大変申し訳ないんですが、本日は他のお客様も含めて夕食の予約がございませんでしたので、何も仕入れてないんです。
炯介 何もない?
山内 申し訳ありません。
炯介 何も?
山内 はい、何も。
炯介 マジか……。近くに何かお店は?
山内 どこもまだシーズンオフで開けてなくて。
炯介 コンビニでもいいんで。
山内 はい、コンビニなら表の道を西に三キロほど行ったところに――。
炯介 三キロ! おれの住んでるアパートなんて向かいにコンビニがあるんだぞ。その二十メートル先にも別のコンビニがあるのに。
七穂 どっちかに軽井沢に移転するように言ったら?
山内 この町は色々条例がありまして。
七穂 条例。
山内 観光地ですから、その辺はうるさくてですね。そうだ。もしよろしければ、あちらの自販機にカップ麺が用意してございます。六種類。
炯介 (思わず声が裏返る)カップ麺!
七穂 (呆れて)結局ラーメン。
山内 焼きそばもあります。お仕事などで来られるサラリーマンの方々には夜食として大ウケでございます。
炯介 やかましいわ。
山内 お客様が何でもいいと仰ったもので。
炯介 これじゃあ普段のがまだましだ。
七穂 (記入を終えて)牛丼だもんね、毎日。
炯介 昼間は学食で食べてる。栄養バランスも取れてる。
七穂 もう卒業したのに、安いからって食べに行ってるんでしょ。
炯介 近頃はそういうやつが多いの。
山内 それではこちらがルームキーになります。お部屋は215号室ですね。(上手側の通路を指して)そちらに階段がございます。エレベーターをお使いのときは(今度は正面奥の通路を指して)こちらを左手に行ったところにありますので。
炯介 どうも。
山内 朝食は七時から九時の間でやっておりますので、明日の朝、食堂の方にお越しください。食堂は、(上手側の通路を指し)あちらを行った突き当たりにございます。
炯介 待った。その朝食を今食べたい。
山内 すいません、食料は明日の朝一に届くんですよ。
炯介 (がっくり)あぁそう。
山内 では、どうぞごゆっくり(控え室に消える)。
七穂 夕飯がカップ麺なんて、すてきな旅の思い出になりそう。
炯介 嫌味言うな。
七穂 言うわよ。言うでしょ。

佳純がロビーにお茶を取りに来る。炯介たちと鉢合わせて、思わず立ち止まる。

佳純 (二人を見て)こんばんは。
七穂 (会釈する)こんばんは。
佳純 よく会いますね。行く先々で。
七穂 そうですね。
佳純 ホテルまで同じとは。
七穂 えぇ。
炯介 (不機嫌に黙っている)
佳純 (雰囲気を察して)えーと、ティーバッグと紙コップ。お、軽井沢新聞だって。あぁ、ここ全部セルフサービスらしいですよ。じゃ、どうも。
七穂 (会釈して)どうも。

佳純、廊下を正面奥に退場する。

炯介 お前に色目を使ってたやつだ。
七穂 何それ。
炯介 気がついただろ、美術館で。
七穂 ちょっと見ただけでしょ。
炯介 ちょっとじゃない。何回も見てた。ちらちら、ちらちら。
七穂 目でも悪いんじゃないの?
炯介 いや、間違いなく七穂を見てた。パウル・クレーの絵を見てるふりして。
七穂 クレーよりわたしの方がましってことね。
炯介 (ありえないという風に)よせよ。
七穂 え?
炯介 とにかく、貧乏旅行ってことは同じだな。
七穂 どっちが貧乏かしらね。
炯介 おれたちに決まってるだろ。二人とも無職なんだから。
七穂 一緒にしないで。わたしは仕事を自主的に辞めたの。炯介は仕事が見つからないの。大違い。
炯介 妥協したくないんだ。美術館か博物館で働きたいんだよ。どうして西欧美術史を修めてIT企業で営業やらなきゃいけないんだ。それじゃ何のための勉強か、辻褄が合わないじゃないか。
七穂 IT企業も落ちたんでしょ。
炯介 手違いでね。書類上の手違いで。郵便事故で。打ち込みミスで。
七穂 とにかく落ちたの。
炯介 どうしてどこもおれを採用しない。
七穂 早稲田の大学院で西洋美術史を学んだエリートだから、みんな気後れしてるんでしょ。
炯介 その通り。
七穂 バッカみたい。
炯介 (ムッとして)さっさと荷物置いてラーメン食うぞ。
七穂 他に何もないしね。

炯介と七穂は荷物を持って上手側の通路に退場。
その上に215号室がある。
炯介と七穂がドアを開けて明かりをつける。広さは207号室と同じで、間取りはそれを逆にしただけ。炯介と七穂は部屋の狭さにしばし言葉もない。

七穂 何とか言いなさいよ。
炯介 (苦々しく)おれのアパートのがまだ広い。
七穂 すみれ荘ね。大学から徒歩七分。高田馬場にある築七十年のおんぼろアパート。入居者の大半が大学を卒業しても就職するでもなくふらふらして、永遠にそこに住み続ける呪われたアパート。中退の人も多い。みんな、そのままそこで死ぬんでしょ。
炯介 あのアパートには昔不知火猛がいたんだぞ。
七穂 そんな人、知らないし。
炯介 不知火猛だぞ。西洋的な感性で奇妙な幻獣を描き続けた画家。おれの隣の部屋に住んでたんだ。
七穂 その人が炯介の就職を斡旋してくれるわけ?
炯介 もう死んでる。昭和五十八年没。三十七歳の若さで死んだんだ。交通事故で。
七穂 あなたには何の関係もない人ってこと。
炯介 関係ある。おれの修士論文に三回も名前が出てくる。
七穂 隣の部屋に住んでたって書いたのね。
炯介 フランスの画家ルドンとの関係性を述べるのに言及したんだ。ルドンも不気味な怪物や幻想的な世界を描いたからね。
七穂 あら、ご立派。さ、着替えてラーメン食べよっと。
炯介 七穂は日本のカップ麺のうまさを知らない。
七穂 知るわけないでしょ、そんなもの。言っとくけど、もう二度とラーメン食べ歩きデートなんかしないから。
炯介 なんだって?
七穂 女があんなデートを喜ぶと思ったら大間違い。

両者にらみ合って、ふんと顔を背ける。

炯介 先に一人で食べてる。
七穂 ご自由にどうぞ。

炯介、部屋を出て行く。七穂は荷物をほどく。
一方、207号室では佳純と怜がくつろいでいる。

佳純 (ベッドに寝転がって地元新聞を読んでいる)軽井沢の人口って知ってる?
 (何かメモを取っている)うぅん。
佳純 約二万人だって。ボロくていいから、こういうところに別荘がほしいよなぁ。いっそ住んじゃってもいいか。新幹線で一時間ちょいなんだから、打ち合わせで東京に出るのだって便利だし。だいたい今時ほとんどデータのやり取りだし、わざわざ都内に住んでる必要なんてないんだよ。あんな家賃の高いところ。
 そうね(適当に相づち)。
佳純 今の仕事がシリーズものでしょ? それが軌道に乗れば、そう現実離れした話でもないよね。知り合いのイラストレーターにも地方に住んでる人何人かいるし。でもあれか、普通に乗ったら新幹線で片道いくらなんだっけ。
 (メモ取りつつ)東京―軽井沢間で五千円以上したと思う。
佳純 月一回東京に出るだけでも交通費一万円か。出版社が持ってくれると思う?
 (適当な受け答え)出版社だって厳しいんでしょ? 無理じゃない?
佳純 そうだよな。(怜を見て)さっきから何してるの。
 明日、お土産いくつ買えばいいかと思って。
佳純 お土産? そんなものいる?
 わたし、うっかり職場で旅行行くって言っちゃったの。あそこ、みんなにお土産買ってくるのがルールみたいになってるから。
佳純 面倒くさっ。やだなー、そういうの。
 何で言っちゃったんだろ。失敗した。
佳純 買わないとあとが怖いか。
 よっしーは誰にも買わなくていいの?
佳純 おれは平気。
 誰にも?
佳純 だって友だちとかいないし。
 担当さんは?
佳純 買おう。一番いいやつ。五千円くらいの。
 その半分で十分だと思うけど。
佳純 他の編集者と分けられるように、十五個入りとか二十個入りとかのお菓子。ちょっとでも印象よくしておかなきゃ。
 明日、帰りの新幹線が六時十五分でしょ。ちゃんとお土産買う時間確保しとかないとね。ねぇ、そういえばさっきの話だけど。
佳純 何?
 引っ越して一緒に住む?
佳純 え?
 軽井沢に家買う?
佳純 え、そんなお金ないよ。
 だってさっきは――。わたしの貯金も合わせれば、できないこともないと思うけど。
佳純 一緒に住むって言ったって……。
 何。
佳純 (恐る恐る)結婚して?
 だって、去年の夏にはうちの両親に挨拶に来るって話になってたのに。
佳純 そっちの親戚に急に不幸があったから。
 分かってるけど、それが落ち着いたと思ったら、今度はよっしーが忙しいって。
佳純 過労で入院までしたんだ。きつい締め切りが続いたから。
 うん。
佳純 今の仕事がどれだけ大事かは分かってるだろ。世界の色々な民族の文化や生活を紹介する本でシリーズもの。毎年二冊刊行。全十巻の予定。今ようやくその一冊目が終わったところなんだ。何回も何回も描き直してさ。
 大変だったよね。
佳純 あっちを直したかと思えばこっちを直して、せっかく直したところをまた元に戻したりもしたからね。初めての大きい仕事なんだよ。これがちゃんと形になれば、向こう五年は収入にも困らない。評判がよければ次にもつながるし、チャンスなんだ。
 それは分かってる。でも、描きたい絵を描けてるの?
佳純 え?
 あんまり楽しそうに見えないから。
佳純 そりゃ、色々要求が細かいから。でも仕事なんだから我がまま言えないだろ。
 それはそうだけど。
佳純 うまくいけばバイトだってやめられる。黙々と棚を組み立てるだけのつまんない仕事をさ。まぁ、あれはあれでけっこう好きだけど。だいたい、今となってはきみのお父さんも結婚に反対してるじゃないか。
 わたしが結婚することには大賛成。あなたと結婚することに反対してるの。
佳純 その点に関してはおれとお父さんで同じ意見ってことか。
 何それ?
佳純 いや、冗談。
 やっぱり結婚したくないんだ。
佳純 冗談だってば。
 うちのお父さんだって最初は賛成してたんだから。
佳純 間が空いて冷静に考えてみたら、やっぱり売れないイラストレーターなんかダメだって思ったんだろ。ほとんどフリーターみたいなもんなんだから。収入を考えればフリーターより悪いくらいだし。
 よっしーの態度がはっきりしないから。
佳純 嫌われてたら挨拶にだって行けないよ。(後悔して)昼間、教会なんか見に行ったのがいけなかったんだ。軽井沢にこんなに教会があるなんて知らなかった。
 結婚式の下見に来てるカップル、けっこういたよね。
佳純 おれたちは教会の建築を見に行ったんだ。
 いやでも目に入るから。でも、結婚を控えたカップルってやっぱりちょっと違うな。独特の高揚感があるっていうか。
佳純 それで挙式にかかる費用がバカ高いってことに気がつかないんだ。
 わたしたち、このままどうなるの?
佳純 どうって。おれだって最初はそのつもりで挨拶行くことになってたんだから。ちょっと、タイミングを逃しただけだよ。
 次のタイミングはいつ来るわけ?
佳純 仕事は一区切りついたけど、向こうが一通りチェックして最終のOKが出るまではまだ気持ちが落ち着かないから。あれだけ直したんだからもう大丈夫だと思うけど。とにかく今はまだ他のことは考えられない。二人で旅行に来るのなんて久しぶりなんだし、ちょっと休ませてくれよ。
 (気落ちしつつ)そうだよね。ごめん。
佳純 いや、おれだって……。ちょっとホテル内を探検してこようかな。
 好きだよね、探検。いってらっしゃい。

佳純、部屋を出て行く。
一階ロビーでは炯介がカップ麺を食べている。

炯介 うまい! ガイドブックに乗ってたレストランなんかよりこっちのがいいよ。(フタを見て)どこのメーカー? メモっとこ。レストランなんて予算一人三千円だもんな。ぼったくりだろ。カップラーメン何杯食えるんだよ。(スープを飲んで)十五杯食える。絶対こっちだろ。

佳純が通りかかる。

佳純 あ、どうも。
炯介 (チラッと見て)あぁ。
佳純 夜食ですか。
炯介 えぇ、まぁ。
佳純 明日も暖かいみたいでよかったですね。先週はマイナスまで下がったそうなんで。
炯介 (やや冷たく)そうですか。絵がお好きなんですか?
佳純 え?
炯介 今日、美術館でお見かけしたんで。軽井沢現代美術館とセゾン現代美術館、両方で。
佳純 あぁ、まぁ。一応絵を描く仕事をしているので。
炯介 (色めき立って)画家さんですか?
佳純 いや、なんと言うか、イラストを。
炯介 (露骨にバカにして)あぁ、イラストレーター。日本全国に百万人はいるという。
佳純 (受け流して)えぇ、まぁ。百万人のうちの一人です。
炯介 (ずけずけと)どういう媒体でお仕事されてるんですか?
佳純 雑誌のカットとか、色々。駆け出しですから。そちらはどんなお仕事を?
炯介 ぼくは、その、大学院に通ってます。
佳純 あぁ、それで。
炯介 それで?
佳純 平日に旅行できるなんて、二人とも普通の勤め人じゃないよなって。
炯介 一応、西欧美術史を専攻してます。大学院を出たら美術館か博物館の学芸員になる予定です。
佳純 なるほど。
炯介 絵はどちらで勉強されたんですか?
佳純 勉強というか、ほとんど独学みたいなもんなんですけど。大学は日大の芸術学部で――。
炯介 (露骨にバカにして)あぁ、日芸。

部屋着に着替えた七穂が来る。
炯介と七穂はちらりと視線を合わせ、そっぽを向く。
佳純は七穂が着ているパーカーを見て、あっとなる。胸のところにナマケモノのロゴが入っており、それを食い入るように見つめる。

七穂 (佳純の視線に戸惑い)あの、何か?
佳純 (はっとなって)いや、あの。
炯介 ほらな。ちらちらどころか、おれが目の前にいるのに堂々とおっぱいを見る。透視されてるぞ。
七穂 やだ(さっと腕で胸を隠す)。
佳純 いや、その服……。
七穂 え?
佳純 そのロゴを見てて。
七穂 はぁ。
佳純 おれがデザインしたんだ。
七穂 え、この服ですか?
佳純 いや、そのロゴ。
七穂 え? (ロゴを見せて)これを?
炯介 (鼻で笑うように七穂に紹介して)こちら、イラストレーターの先生でね。(と言ったあと驚いて)え!
七穂 これって、今けっこう人気のブランドじゃないですか。
炯介 (息せき切って)今、こいつのようなちゃらんぽらんな女子の間で人気のナマケモノのロゴをデザインされた、ふくましげき先生ですか!
七穂 ですか?
佳純 ……あの、……違うんだけど。
炯介 違う?
七穂 違う?
佳純 おれは……。
炯介 ふくましげき先生ではない?
佳純 ではなくて。
炯介 お名前を聞かせてください。
佳純 住吉佳純。
炯介 すみよし、よしずみ。(シラけて)違う。知らない。ふくましげき先生ではない。ただの無名のイラストレーターだ。変な名前の。
佳純 でも、そのロゴはおれが描いたんだ。
七穂 どういうことですか?
佳純 つまり、おれが描いたものが、別の、そのなんとかってやつが描いたことになって、世に出回っている。
炯介 それがヒット商品になって、あなたからデザインを盗んだやつはブレイクしたと。
佳純 (沈痛な面持ちでうなずく)
炯介 ふくましげき先生を盗人呼ばわりする。
佳純 よくあるんだ、そういうことは。
炯介 (あからさまに軽蔑して)いますよね、ネットとかでそういう妙なことばかり言ってるやつ。
佳純 今更言ったところでどうにもならないのは分かってるよ。
炯介 歴史は勝者によって書かれる、か。ま、二人で仲良くやってください。(七穂に)気が合いそうでよかったじゃないか。

七穂はその嫌味に顔をしかめて返す。
炯介、やれやれという感じで上手側の通路から退場。

七穂 すみよし、よしずみさんって……。
佳純 変な名前でしょ。上から読んでも下から読んでも一緒的な。
七穂 よしもとよしとも、みたいですよね。
佳純 ! 驚いた。それ言われたの初めてだ。だいたいみんな「気象予報士か」って言うよ。下の名前がよしずみだから。じゃなきゃ「山本山かよ」とか。
七穂 よしもとよしとも、けっこう好きなんで。
佳純 若いのに珍しいな。あなたは、お名前は?
七穂 哀川です。哀川七穂。哀川翔の哀川に、数字の七に、稲穂の穂。
佳純 哀川翔の哀川。覚えやすいね。
七穂 だいたい相川七瀬みたいって言われるんですけど、アイカワ違いなんてすよね。
佳純 いやいやいや、哀川翔の哀川! いいよ。下の名前もよく似合うかわいい名前だ。七穂ちゃん。
七穂 ありがとうございます。

正面奥の通路から怜が来る。

佳純 あ、怜。
 お茶、明日の朝の分ももらっておこうと思って。
佳純 (七穂に)あの、カノジョ。(怜に)こちら、哀川さん。哀川翔の哀川ね。
 哀川翔?
七穂 こんばんは。今日、何度かお見かけしました。
 そうですね。(七穂の服に目を留めて)……あ、それ。
七穂 (気を使うように)カレシさんがデザインされたんですよね。
 (佳純に)話したんだ。
佳純 ちょっとだけ。おれがデザインして、そして、何もしてないふくましげき先生が世間では大ブレイク中。
 あなたの友達のね。
七穂 友達なんですか?
 大学時代からの。
佳純 だった。過去形。もう友達じゃない。それどころか盗人だよ。犯罪者。
七穂 ホントなんですね。
佳純 まぁ普通信じないよな。きみのカレみたいな反応するのが普通だよ。
七穂 ごめんなさい、信じてなかったわけじゃないですけど。でも、ひどいですね、友達なのに。
佳純 まったくだよ(とため息)。
 (七穂に)この話はしない方がいいの。っていつも自分からしちゃうからしょうがないんだけど。ショックが大きくて。
七穂 ごめんなさい、わたしがこんな服着てたから。
佳純 いや、仕方ないよ。それだけ売れてるってことなんだから。さっき彼が言ってたことじゃないけど、世の中売れたもん勝ちなんだし。
 そんなことないってば。
佳純 じゃあ、これをデザインしたおれに何があるんだ? 何もないだろ。何にもなし。こんな仕事、いつか絶対やめてやる。絶対やめてやるからな。
 (七穂に)口癖なの。やめてやるやめてやるって。(佳純に)今いい仕事が来てるんだから、それを大事にすればいいでしょ。
佳純 それだってこれに比べたら(と七穂のパーカーを指す)。……やめやめ。おれ、探検の途中だった。このホテル、何もないぞ。見事なまでに何もない。……おれと同じだ。

控え室から山内が出てくる。セルフサービスのアメニティ類を補充する。

山内 (三人を見て)いいですね、旅先で出会いがありましたか。
佳純 どうも。ちょっと散歩に出てきます。
山内 はい。といっても、近くには何もないですけど。
佳純 何もない。……おれと同じだ。
山内 最寄のコンビニまで三キロあるので。
佳純 そんなに。でも、別にコンビニには行かないから。
山内 そうですか。お気をつけて。あ、上着を持って行った方がいいかもしれませんよ――。

佳純、エントランスから出て行く。

山内 って、行っちゃいましたね。
 あ、ティーバッグ、いただいてもいいですか。
山内 あぁ、どうぞ(と大量に渡す)。
 (慌てて)こんなにいいです。
山内 うちはこれくらいしかないんで。
 あの、そんなつもりじゃ。
山内 いいですから。(七穂に)お客さんも要りますか?
七穂 わたしはラーメン買いに来ただけなんで。
山内 そうですか。じゃ、わたし、奥のコインランドリーにおりますので、御用がありましたらお呼びください。
七穂 どうも。
山内 (フロント裏から洗濯籠を掲げて見せ、にこやかに)自分の洗濯物です。
七穂 や、教えてくれなくてもいいんですけど。

山内、廊下を下手に消える。
七穂、販売機でカップ麺を買い、脇のポットでお湯を注ぐ。
怜、ロビーに備えてあるノートパソコンで調べものをする。

七穂 カレシさんなんですね。ご結婚されてるのかと思いました、何となく。
 うぅん、結婚はしてないの。
七穂 ご予定はあるんですか?
 え?
七穂 軽井沢って言ったら結婚式かなって。今日教会見てたらなんか憧れちゃって。
 うちらはただの旅行。そちらは考えてるの?
七穂 いえ。今二人とも無職なんで、とてもそんなこと。
 そう。大変ね。
七穂 というか、あんなのと結婚とか考えられないし。
 そうなの?
七穂 わたし、先月仕事を辞めたばかりなんですけど、これを機に男も替えようかなって、今ちょっと考えたりして。どう思います?
 どうって言われても。
七穂 ちょうどいいタイミングじゃないかって気がするんですよね。
 でも、せっかく二人で旅行中なのに。

炯介が来る。

炯介 (あてつけがましく)イラストレーターの先生は一緒じゃないのか。
七穂 ちょっとやめて。
炯介 二人でいちゃいちゃしてたじゃないか。
 いちゃいちゃ?
七穂 あっち行ってなさいよ。(怜に)してませんから、そんな……。
炯介 いちゃいちゃ。
七穂 だから、してないってば。
炯介 いいじゃないか、お似合いなんだから。
 そういえば、さっきなんかいい雰囲気だった。
七穂 (怜に)違います。そんなんじゃないですから。
炯介 昼間からちらちら目を合わせてたし。
 彼、あなたのこと見てた。
炯介 ほら。
七穂 よして。何もないですから。(炯介に)何しに来たのよ。
炯介 全然足りないから焼きそばも食べようと思ったんだよ。悪いか。
七穂 お金ないんだから我慢すれば。
炯介 カップ焼きそば買うくらいの金はある。
七穂 借金だって返さなきゃいけないでしょ。
炯介 (訂正して)奨学金。借金じゃなくて、奨学金。奨学金の返済。
七穂 返さなきゃいけない奨学金なんてないから。そういうのは教育ローンっていうの。借金。奨学金じゃなくて、借金。仕事も見つからないのに、これから返していけるわけ? 炯介、バイトだってろくに続かないじゃない。焼きそばなんか食べてる場合じゃないでしょ。
炯介 (言い返せなくて悔しくて、怜に)こいつはこういう女なんですよ。
七穂 こういうって何よ。
炯介 こちらの素敵な大人の女性とは大違いってこと。ぶーぶー文句垂れてばっかりのヒステリー女が。
七穂 ……(苛立ちを押さえて)わたし、部屋で食べます。(炯介に)戻って来ないでよね。
炯介 誰があんなカプセルホテルみたいな部屋。

七穂、ラーメンを持って廊下を上手側の通路に消える。

炯介 あー、せいせいした。(改めて怜に)どうも。いい夜ですね。
 えぇ、まぁ。
炯介 (お腹をさすって)こんな夜はお腹空いちゃいますよね。
 (よく分からないまま)えぇ。
炯介 ちょっと伺ってもいいですか? 今日の夕飯って何を召し上がりました?
 え? あの、チーズフォンデュを。
炯介 (食欲をそそられて)チーズフォンデュ! 天然酵母パンか何かを漬けちゃったりして(漬けて食べる仕草をしながら)。
 (うなずいて)根菜なんかも。それからポークソーセージ。あとはトマトとスモークサーモンのサラダ。
炯介 (思い描きながら繰り返す)根菜、ポークソーセージ、トマトとスモークサーモンのサラダ。あぁうまそう。
 デザートに軽井沢プリン。
炯介 プリン! とどめ刺されちゃったな。贅沢しましたね。
 そうでもないですけど。
炯介 ぼくが夕飯に何を食べたか、ご存知ですか。
 いえ。
炯介 ここのカップラーメンです。
 あら。
炯介 色々手違いがありまして。
 それで焼きそばも食べようとしてるの?
炯介 ええ、まぁ。
 それは、ちょっと……。
炯介 何です?
 かわいそう。
炯介 よしてください。惨めな気持ちになっちゃうじゃないですか。
 (思いついて)あの、ちょっと、ちょっと待っててください。
炯介 え?
 いいから、ちょっとだけ待ってて。

怜、急いで部屋に戻る。
炯介はロビーのソファに座って所在なく待つ。
207号室に戻った怜、荷物の中から紙袋を取り出す。中にはおやきが二つ入っており、佳純と怜が夜に小腹が空いたときに食べようと買っておいたものである。
怜、再びロビーに来る。

 (紙袋を差し出して)よかったら、これ、どうぞ。
炯介 (受け取って中を覗いて)おやきだ! おやきじゃないですか。いいんですか?
 ええ。(ロビーを見回して)トースターか、せめて電子レンジがあればいいんだけど。
炯介 いいですいいです。おやき、今日昼間食べたいと思ったんですよ。でも、あまり余計なお金を使わないようにって思って。うわー、嬉しいなぁ。いただいちゃっていいですか?
 ええ。お茶でいい?(と用意する)
炯介 あ、何から何まですいません。いただきます。(と、おやきを食べて)うまい!
 よかった(お茶を渡す)。
炯介 (お茶を飲んで)あー、温まる。やっぱり大人の女性は違うな。包容力があるっていうか、よく気がつくっていうか、落ち着きがあるっていうか、洗練されてるっていうか。もう、その全部ですね。それにおキレイですし。
 (笑って)褒めすぎ。でもありがとう。一つは彼のなんだけど食べちゃっていいわ。
炯介 じゃ遠慮なく(と噛り付く)。

佳純、エントランスから戻ってくる。
怜はそれを見て慌て、炯介が二つ目のおやきを食べているのを紙袋ごと奪って後ろ手に隠す。

佳純 (ぶるぶる震えながら)冷えちゃった。ホントに何もないわ。真っ暗だし、車も走ってないし。地元の人は何してるのかね。夜遅くまで開いてる喫茶店がないところに移住は無理だな。(怜と炯介に気づいて)あぁ、きみたち。何してるの。
 べべ、別に。早かったね。
佳純 けっこう寒くて。先週マイナスだもんな、そりゃ寒いよ。そういえば、おやきがあったでしょ。あれ食べよう。
 (素っ頓狂な声で)おや、おやき?
佳純 昼間買ったやつ。夜、小腹空いたときにでも食べようって。
 どどどどど、どうかしら。温め直さないとおいしくないし、やめておけば?
佳純 (ロビーを見回して)何だよ、電子レンジもないのか。いいよ、冷たいままで。熱いお茶と一緒に食べれば(と行きかける)。
 (とにかく呼び止めて)あ!
佳純 何?
 お腹、本当はそんなに空いてないんじゃない?
佳純 え?
 だって、わたし、まだお腹いっぱいだもの。チーズがたっぷりたまってるっていうか。
佳純 (お腹をさすって確かめて)そうか。いや、ちょっと空いてる。ちょうどおやき一個分くらい。
 ダメ、こんな時間に食べたら太るから。
佳純 普段のがもっと食べてるって。

山内が洗濯から戻ってくる。怜が後ろ手に隠している紙袋を見つける。

山内 (まったく呑気に)お、河田堂のおやきですか。いいですね。おいしいんですよね、あそこのおやき。紙袋もオシャレだし。かわいいデザインの判子が押してあって。ちょっとくらい冷えてても、熱いお茶と一緒に食べるとうまいんだなぁ。

山内、言いながら控え室に消える。ロビーの三人は沈黙に固まる。
佳純、怜が後ろ手に隠していた紙袋をさっと奪い取る。そして、中を確かめる。

佳純 あー、おれのおやき!
 違うのよ、この人がせっかくの旅行なのにカップ麺しか食べてないって言うから、かわいそうになっちゃって。
佳純 おれのおやきを、勝手に、こんなやつに!
炯介 ぼくだってあんたのものなんかほしくないですよ。返します。
佳純 (食べかけのおやきを掲げて)こんな食べかけ、いるか!
 明日また買えばいいじゃない。
佳純 今夜食べるのを楽しみにしてたんだよ。(炯介に)この盗み食い野郎!
炯介 盗み食いとは何だ!
 やめて。
炯介 それはこちらの素敵な女性(ひと)からいただいたんだ。盗んでなんかない。
佳純 素敵な女性! (怜に)なんでやったりするんだよ。
 だから、この人が食べるものがないっていうから――。
佳純 そこに軽食の自販機があるだろ。
 それじゃ味気ないでしょ。
佳純 こんなやつ、どうでもいいだろうが。
炯介 ぼくが若くて将来性がある人材だからじゃないですかね。しがないイラストレーターなんかと違って。どっちを助けるかって言ったら、そりゃぼくですよ。

言い争いの間に七穂が来て、ロビー入り口で立ち止まり様子を伺う。

佳純 あぁ! みんな勝手におれのものを盗むんだ。デザインを盗まれ、おやきまで盗まれる。どうしておればっかりこんな目に遭うんだ! (はっと気がついて怜と炯介を見て)「こちらの素敵な女性」? 怜のことまで盗むつもりか!
 ちょっと何言ってるのよ。
炯介 あなたもおやき一つで小さい男だな。
佳純 一つと一口だ。一つと一口。実質二つ。一口かじったらもう食えないだろうが。
七穂 お取り込み中、すいません。
佳純 わっ、いつから。
七穂 ちょっと前から。
炯介 何しに来たんだよ。
七穂 (炯介には冷たく)ラーメン食べたら喉が渇いたもんで。どうしたんですか。
佳純 こいつ、この、きみのカレが、おれが夜食で買っておいたおやきを盗み食いしたんだ。
炯介 (七穂にあてつけがましく)それはこちらの優しくて美しい方にいただいたの。
七穂 へぇ。優しくて美しい。
佳純 一個と一口。実質二個。
 わたしがあげたの。ここのもの以外に食べ物がないっていうから。
佳純 それからきみのカレは、おれの恋人まで盗もうとしてる。
 それは勘違いだから。
七穂 そうなんだ。
炯介 あなたのような売れないイラストレーターにはもったいない素敵な女性なんで。
七穂 へぇ。
佳純 歳、知ってるのか? きみとじゃ干支が一回りするぞ。
 そこまで離れてません。
炯介 人の魅力に年齢は関係ない。
佳純 平成生まれの人間の言うことは信用ならない。
 あなたは誰の言うことも信用しないじゃない。
炯介 昭和生まれの人間こそ信用できない。
七穂 わたしもギリ昭和なんですけど。だいたいあんたはあれなの、おやきが二つあったのに、わたしにはくれようとも思わないわけ?
炯介 おれが思ったのは、お前にだけは絶対にあげないってことだ。
七穂 こちらの優しくてお美しい方にいただいたものだから?
 やだ、みんなそんなに。
炯介 お前と違って、優しさあふれる大人の女性にね。
七穂 あぁそう!
炯介 (張り合って)そうだよ!

炯介と七穂はいがみ合って顔を背ける。
場はしばし膠着する。

佳純 これで避暑地のホテルに役者が揃ったってわけだ。
炯介 二時間ドラマだったらこの中の誰かが死ぬ。
七穂 ふん。
佳純 ゾンビ映画だったら全員死ぬ。
 やめてよ。

フロントの中の控え室が開いて山内が出てくる。

山内 (ノートパソコンをいじって)明日の朝食の予約は、っと、二組四名様。今日泊まってるカップルか。って今日あの二組だけだもんな。(といってロビーの四人に気がついて)。あぁ、皆さん、お揃いで仲がよろしい。旅先での出会いっていいもんですよね。
炯介 まったく!
七穂 ホントに!
山内 (怜に)おやき、おいしかったでしょ。
 今、それはちょっと――。
山内 おいしいんですよ。明日ぼくも買いに行こうかな。(全員の視線を感じて)あれ、何ですか? ぼく、何か変なこと言いました?
佳純 いや、別に。

佳純と怜、炯介と七穂、それぞれ目を合わせ、ぷいとそっぽを向く。
四人とも牽制しあって、またしばし膠着状態が続く。

七穂 (唐突に)決めた!
炯介 何だよ。
 何?
七穂 (佳純の手を取って)わたし、明日住吉さんと観光する!
佳純 (当惑して)え? え?
 ちょっと、あなた何言ってるの?
炯介 はっ。そうしろよ。お似合いの二人で観光。すればいいだろ。
七穂 だからそうします。
佳純 いや、あの……。
七穂 ね?
佳純 えーと。
七穂 いいじゃないですか。わたしたち、気が合いそうだし。
佳純 いや、七穂ちゃん、でも……。
 七穂ちゃん。へぇ、もうよく知ってるみたい。七穂ちゃん。何が七穂ちゃんよ。
佳純 だってそういう名前だから。
 手、離したらどうなの?
炯介 嬉しそうじゃないですか、しがないイラストレーターの先生が若い子にモテて。
佳純 (手を振りほどこうとするが本気ではない)あの、ほら、ぼくたち今日会ったばかりなんだし。
七穂 離しませんから(炯介に見せつけるように佳純に寄り添う)。
 離れなさいよ。
七穂 いやです。
 (ムッとしてそっぽを向く)
佳純 (怜を気にして)いや、でも、ね?
七穂 ちょうどそろそろオトコ替えようかなって思ってたんで。
佳純 いや、そんな簡単に替えられるものじゃないし。
炯介 (唐突に)そういうことか!
佳純 わっ。
七穂 何。
炯介 分かったぞ!
佳純 何が。
炯介 (怜の手を取って)明日、ぼくたちも一緒に回りましょう!
 (あわてて)え、ちょっと。
炯介 一緒に観光するんです。仲良く、恋人同士みたいに。
七穂 どういうつもり。
炯介 (怜とつないだ手を見せて)こういうつもり。
 いや、だからちょっと(振りほどこうとするが、炯介は離さない)。
佳純 手を離せ。そいつは盗っ人だぞ。
炯介 盗っ人ではない! おやきをもらったことが縁で結びついた二人です。(怜に)やっぱり旅には出会いがありますね。
山内 (じっと状況を見守っていたが、なんだかよく分からないまま)ぼくが結びの神ってことですか。
佳純 やかましい。
炯介 お名前、なんて仰るんでしたっけ?
 え? あの、廣澤です。
炯介 下のお名前はレイさんでしたか。
 えぇ……。
佳純 教えるな、詐欺集団から電話がかかってくるぞ。
炯介 レイさんか。クールな名前ですね。エヴァンゲリオンみたいだ。二人で楽しい思い出を作りましょう。
 いや、どうなんでしょう。
炯介 いいじゃないですか。見てください。あちらがお楽しみだっていうのに、どうしてぼくらが楽しんじゃないけないんです?
 そんな(と佳純と目を合わせるが、お互い意地を張ってそっぽを向く)。
炯介 ね? いいじゃないですか、明日一緒に。
 そうね、わたしたちはわたしたちで観光しましょうか。
佳純 勝手にしろ。
山内 なんだか知りませんが、面白くなってきましたね。
佳純 あんたは何をずっと見てるんだよ。
山内 (フロントを指して)ここが職場ですから。
佳純 誰も用ないから、引っ込んでてくれ。
山内 そうですか?
佳純 そうだよ。
山内 一応明日のスケジュールを管理したり、仕事があるんですけど。
佳純 遠慮してくれ。
山内 (仕方なく)分かりました。普段は遠慮を知らない男と言われてますが、ここは遠慮させていただきます。

山内、控え室に引っ込む。

佳純 いい加減、ふざけるのもこれくらいにして――。
七穂 (腕に絡みついて)明日、楽しみですね。
佳純 あ、ちょっ。
七穂 お互いもとの相手より合ってると思いません?
佳純 それは、どうかな(助けを求めるように怜を見る)。
 (佳純に背を向けて)試してみてもいいかもしれないよね。
佳純 おい。
炯介 最初からこうすればよかったんですよ。
佳純 最初からって、どこが最初だよ。
七穂 それとも、男同士と女同士にします?
佳純 (炯介を見て、首を振る)ないない。
炯介 (佳純を見て、首を振る)絶対ない。
七穂 他の組み合わせなんかありえないじゃないですか。これがベスト。
佳純 組み合わせにこだわるね。
七穂 人事部だったんで。
佳純 (観念して)分かった。でも、ということは――。
七穂 はい?
佳純 おれときみは一緒に寝るってことだ、同じベッドで。
 バカじゃないの。
七穂 それはないです。
佳純 なんで。
七穂 ないと言ったらないです。
佳純 でも――。
七穂 そこまで言ってないんで。
佳純 あ、そう。じゃ、今晩のところはひとまずそれぞれの部屋で休んで――。
 わたし、そんなこと言う人と一緒に寝ませんから。
佳純 おい。
炯介 (佳純を笑って)はっはっは。怜さんはぼくと寝るんですよね。
 いいえ。わたしは一人で寝ます。
佳純 (炯介を笑って)はっはっは、ざまぁみろ。
 疲れたから誰にも邪魔されたくないの。
炯介 (七穂を見て)じゃあ今日のところは――。
七穂 わたしも一人でゆっくり寝かせてもらいます。
炯介 待てよ。そしたらおれはどうしたらいいんだよ。
七穂 知らない。自分で考えれば。
佳純 (怜に)おれだって、どう――。
 知りません。

怜は正面奥に、七穂は上手に、それぞれ退場。
山内、控え室から出てくる。

山内 差し出がましいようですが。
佳純 また出た。
山内 お部屋でしたら、まだ空きがございますが。
佳純 聞いてたのかよ。
山内 ロビーでの話し声は、聞き耳を立ててれば聞こえるんですよ。
佳純 聞くな。
炯介 呼び鈴鳴らしても聞こえないくせに。
山内 お部屋、すぐにご用意できますが。
炯介 一応訊いてみるけど、いくら?
山内 シングルで一泊4800円になります。
炯介 高い!
佳純 高い!(炯介と同じタイミングで言う)もともと往復の新幹線代込みで12000円とかだからな。それを思うと。
山内 ツアー料金じゃないとどうしてもそうなりますね。それともお二人で一部屋にするとか?
炯介 まさか。
佳純 冗談言うなよ。
山内 となると、土下座して謝りますか、お二人とも?
炯介 (佳純と見合って)しませんよ。だいたい、する必要がない。
佳純 あいつが勝手におれのおやきをあげたのに。
炯介 またおやきって言った。
佳純 (炯介を睨む)
炯介 ぼくはロビーで寝かせてもらいます。ここなら寒くないし、ソファで十分だ。(とソファに行く)
山内 あの、うちとしましては、それはちょっと……。
佳純 きみ。
山内 はい。
佳純 名前は。
山内 (名札を強調して)山内です。
佳純 (控え室を指して)山内くん、奥の部屋はそれなりに広いんだろ?
山内 え? まぁ、スタッフが寝泊りする部屋になってるので。
佳純 おれはそこで寝よう。
山内 いやいやいや。
佳純 雑魚寝でかまわないから。
山内 無理ですよ。
佳純 こうなったのはもとはと言えばあんたのせいだぞ。
山内 そんな。
佳純 考えてみてくれ……(と言って自分でも考えるが、山内のせいかどうか分からない)。とにかく、こうなったのにはあんたにも責任の一端がある。
山内 そう言われてみると、そんな気がしますね。
佳純 だろ? だから、おれときみとで一晩仲良くやろうじゃないか。
山内 まぁ、ここの儲けは別にぼくが気にすることでもないですし。
佳純 そうそう。もう今日の仕事は終わりだろ? 奥に行って温かいものでも飲もうじゃないの。
山内 ただで飲めるのはお茶しかないですよ。
佳純 それで十分。(と、山内の肩を抱くようにして控え室に入っていく)

▼二場

セットは一場にほぼ同じ。ただフロント部分が取り払われ、奥の控え室内部が見えるようになっている。
客室よりは広いが、備品の入ったダンボールが積み重ねてあったり、ハンガーラックがあったりして狭く感じる。窓辺には山内誠の洗濯物も干してある。奥には洗面所とシャワーもあるらしい。
壁際に簡易ベッドが二つ並んでいる。それぞれのベッドの上に佳純と山内誠がいる。山内誠はアコースティックギターを抱えて曲作りをしている。佳純は壁に寄りかかって座り、山内誠がコードをかき鳴らすたびにうんざりしたような顔をする。

山内 (ギターを弾きながら、ハミングしたり歌詞を当てはめたりする。うまくいかなくて何度も仕切り直す)ルルル~、リ~ラ、違うな。……恋の~。恋の~、軽井沢、ブルゥゥース。軽井沢とブルースって合わないな。合いませんよね? (佳純に聞くが返答はない。なくても気にしない)フフフ~ン、フフ~ン、違うな。
佳純 きみは何をしてるわけ。
山内 え? いやだな、何してるように見えますか?
佳純 歯を磨いてるようには見えないね。
山内 作曲です。曲を作ってるんですよ。
佳純 なぜ?
山内 なぜって、インスピレーションが沸いているからです。
佳純 インスピレーション。
山内 こう見えても、ぼく、音楽やってるんですよ。
佳純 もしかしたらそうなんじゃないかと思った。
山内 住吉さんたちのおかげです。
佳純 何が。
山内 なかなか曲作りが進まなかったんですけど、今日住吉さんたちのことを見てたらひらめくものがありました。
佳純 そりゃけっこう。
山内 あの子のために一曲作ろうとしてるんです。
佳純 あの子って?
山内 ぼくが永久(とわ)の愛を誓った相手です。
佳純 そんなものを誓ったか。
山内 ま、それは誇張なんですけどね。ぼくと彼女が誓ったのは、今度一緒にドライブに行くことだけです。でも、その誓いは果たされてません。メッセージしても返してくれなくなっちゃったんですよ。
佳純 なるほど。よく分かった気がする。
山内 やっぱり、恋の苦しみが芸術を生み出すんですね。
佳純 もしかして、仕事中もここで曲作りとかしてる?
山内 創作は時と場所を選びませんから。
佳純 謎が解けた。
山内 住吉さんは絵をお描きになるんですよね。
佳純 まぁ。
山内 ここでお会いしたのも何かの縁です。ぼくがCD出すとき、ジャケット描いてください。
佳純 けっこう図々しいやつだな。だいたい、おれのイラスト見たこともないじゃないか。
山内 見に行きます。展覧会とかあったら案内ください。
佳純 予定ないけど。
山内 ぼくもライブをやるときにはご連絡します。
佳純 軽井沢まで来られないから。
山内 ライブはいつも東京でやります。住んでるのはあっちなんで。
佳純 (驚いて)そうなの?
山内 ここ、近いですから。
佳純 そりゃ新幹線使えばそうかもしれないけど。えー、地元の人かと思ってた。
山内 世田谷の用賀というところに住んでます。
佳純 近所じゃん。おれ、駒沢。二つ隣の駅だ。
山内 宿泊カードのご住所見ました。奇遇ですね。
佳純 (感激)うわー、(から一転)全然旅行に来た気しないわ。まさか通ってるわけ?
山内 それはさすがに。シーズンになったら来て住み込みで働くんですよ。一種のリゾートバイトですね。交通費もホテル持ちなんで。
佳純 その間、東京の部屋はどうするの。
山内 親元なんで問題ないです。
佳純 実家?
山内 はい。それでこっちで稼いで、東京にいる間は働かないんです。
佳純 それでバンドやったりしてるんだ。
山内 そういうことです。
佳純 はー。うらやましい生き方だな。
山内 そうですか?
佳純 逆別荘暮らしみたいなもんだな。
山内 (突然)こんな生き方からロックは生まれねぇよ!
佳純 驚かすなよ。なんだよ、いきなり。
山内 この、胸の中でジリジリとしている、焦燥感みたいなものを、ロックな気持ちで叫んでみました。(再び)こんな生き方からロックは生まれねぇ! そう思うだろ、お前ら。
佳純 いや、お前らっておれ一人だし。そしたら生き方変えろよ。
山内 (あっさりと)いや、音楽を変えます。その方が楽だし。
佳純 すごい音楽観だな。
山内 ホント言うと、ロックってそこまで好きじゃないんですよね。そう熱くなれないっていうか。カントリーとかのが好きなんですよ。ブルーグラスとか。ルーツ系って分かります? でも、なかなか趣味が合うやつがいなくて。バンドとかやってると、どうしても仲間に合わせないとうまくいかないじゃないですか。
佳純 言ってることは分かるけど。
山内 それ自体、全然ロックじゃないですよね。スタジオ練の後、みんなで和気藹々とプリングルスなんか食べたりして。しかも、マックに持ち込みですよ。
佳純 事によってはあるのかな。
山内 (宣言するように)まず音楽を変える。
佳純 音楽を変える。
山内 そして、恋をする。
佳純 そして――。それはあれじゃないの、山内くん、すべての問題は恋人さえ見つかれば全部解決しちゃうっていう、そういうパターンじゃないの?
山内 恋をすれば音楽が変わるんです。(考えて)あれ、音楽を変えて、恋をして、また音楽が変わるのか。
佳純 忙しいな。山内くんは、あれか。
山内 なんです?
佳純 現在彼女募集中。
山内 近いですね。はっきり言って当たりです。でも、ぼくだって何も努力してないわけじゃないんですよ。ときどき観光客をナンパしてみたりもします。
佳純 するのか。
山内 します。気持ちが緩んでるかなとか思っていやらしい期待をして。でも、一人旅の女はやめといた方がいいですね。
佳純 どうして。
山内 シャレになりませよ。どんどん森の奥に入っていったり、睡眠薬を大量に持ってたりするんですよ。下手すると道連れにされます。
佳純 一人旅の女はやめておこう。
山内 でも、住吉さんだってそうでしょう。
佳純 何が。
山内 どうしてこんなシーズンオフに避暑地へ来たんですか?
佳純 肺病を治しに。
山内 いや、恋をしたいからですよ。恋に苦しみたいからです。誰かに恋焦がれたいからです。
佳純 あぁそう。
山内 絶対そうです。シーズンオフ、避暑地、別荘。ここは安ホテルですけど、それはいいじゃないですか。そして四人の男女。舞台も役者も揃ったってもんです。
佳純 さっき言ったけどな、それ。
山内 いいなぁ、ぼくも入れてほしい。本当はあの若い娘のこと、けっこういいと思ってるんでしょ。正直に言ってください。正直に言ってくれれば、明日協力しないでもないです。(やけに迫って)ね、正直に。住吉さんの口から直接聞きたいんです。
佳純 (白状して)まぁ、けっこうかわいいとは思うけど。
山内 (ほとんど苦しがるように)うらやましい!
佳純 いや、恋人とかいてもちょっといいかなくらいはさ、一日一回くらい思うじゃない。街中まで出たときなんかだと、一日五十回くらいは。
山内 もう一つ、もう一つ質問させてください。それじゃあ、カノジョさんのことはどう思ってるんですか? 正直なところ。
佳純 え? そりゃ、まぁ……。
山内 煮えきりませんね、煮えきりませんね、煮えきりませんね。要するに、どっちもそれなりにいいってことですか?
佳純 それなりっていうか、まぁ付き合ってるわけだし。
山内 要するに、どっちもいい?
佳純 でもほら、あいつはさ。
山内 つまり、どっちもイケてる? 付き合えるものならどちらとも付き合いたい?
佳純 いや、どちらとも? そんなことができるなら、まぁ挑戦してみてもいいかもしれないけど、でもおれは別に――。
山内 うらやましい! 新しい曲が書けそうです。明日、もしできることがあったら協力させてもらいます。ぼくに任せてください。
佳純 いいよ。余計なことするなよ。
山内 頑張ります。
佳純 だからいいって。山内くんは、あれだな、もしかしたらすごいやつなのかもしれないな。
山内 よく言われるんですよ。お前はひょっとしたらすごいやつなのかもしれないって。でも、みんなやっぱり違ったみたいだって結論をくだします。
佳純 だろうね。
山内 (時計を見て)もうこんな時間じゃないですか。明日に備えてそろそろ寝ましょう。
佳純 言っとくけど、おれは別によこしまなことなんて考えてないからな。
山内 分かりましたからもう寝てください(横になって布団をかぶる)。実力を発揮するには十分な睡眠をとることが大切なんです。本に書いてありました。
佳純 いや、だからおれが言いたいのは、おれたちはあの若い二人に巻き込まれたのであって……。(山内を見て)山内くん。……(返事はない)え、もう寝てるの? いや、だからおれはさ……。寝よ。(布団に入る)


〈第二幕〉

▼一場

その翌日。
高原を走る一直線の道路。天気は快晴で、佳純と七穂の乗ったレンタカーが走ると背景がどんどん流れ去っていく。レンタカーは軽自動車で、運転は佳純。舞台上には他に何もない。

佳純 ドライブ日和だね。
七穂 道は空いてるし、暖かいし、最高ですね。
佳純 見て、浅間山。
七穂 まだけっこう雪残ってますね。本当に北軽井沢方面でよかったですか?
佳純 もちろん。こっちももともとその予定だったから。
七穂 よかった。わたし、ソフトクリーム食べたいんです。ミルクの、うんと濃厚なやつ。
佳純 絞りたてってやつね。いいよいいよ、あとで食べよう。もう何でも言うこと聞いてあげちゃう。
七穂 嬉しい!
佳純 そういえば、あいつらはどうしたかな。
七穂 あいつら?
佳純 あの二人。
七穂 あぁ。あいつは運転できないんで、サイクリングでもしてるんじゃないですか。
佳純 はっ。エコなやつらだ。

佳純と七穂の車、下手に消えていく。
入れ替わりに、上手から炯介と怜の乗ったレンタカーが現れる。佳純たちの少し後方を走っているのだ。やはり軽自動車で、運転は怜。

 いい天気。
炯介 道は空いてるし、空気はいいし、最高ですね。あ、浅間山だ。
 まだだいぶ雪残ってるのね。
炯介 すいません、運転お願いしちゃって。
 大丈夫。運転、けっこう好きだから。それより支払いしてもらっちゃって、こっちこそ申し訳なくて。
炯介 それくらい当たり前じゃないですか。
 馬場くんは、彼女とは仲直りしないの?
炯介 その話はよしましょうよ。今日は怜さんとデートなんですから。
 デート。
炯介 いくらでもわがまま言ってくださいね。全部聞いちゃいますから。
 じゃあ、あとでソフトクリーム食べたい。
炯介 怜さんのわがまま、かわいいなぁ。絞りたての牛乳で作った濃厚なやつですね。
 そうそう。
炯介 お任せください。
 そういえば、あの二人も同じ方向に行ったんじゃないかな。
炯介 ホントですか?
 わたしたち、もともとこっちに来る予定だったから。
炯介 じゃ、どこかで鉢合わせるかもしれないですね。(前方を見て)あ、あの車、もしかして。

佳純と七穂の車が下手から現れる。
頭上で赤信号が灯る。
佳純と七穂の車が停止する。その横に、炯介と怜の車がゆっくりとつける。佳純と七穂も相手に気づく。以下、車内での会話は相手には聞こえない。

佳純 ――あいつら、ドライブなんかしやがって。あんなボロい軽で。
七穂 カノジョさん、運転できるんですね。
佳純 (苦々しげに)けっこう好きなんだ、運転。
炯介 ――向こう、仲よさそうじゃないですか。
 そう?
炯介 ラブラブですよ。手ぐらいつないでるかもしれない。あんなボロい軽のくせに。
 そんなこと。
佳純 ――(信号を見て)おれの前は走らせないぞ。
七穂 え、なんで?
佳純 (聞いてない)あんな車に負けられるか!
炯介 ――絶対負けちゃダメですよ。
 え?
炯介 アクセル全開で。いや、ぼくが踏みます。(炯介、足をまたがせてアクセルを踏む)
 え、ちょちょ、ちょっと!

信号が青に変わる。
その途端、それぞれの車が猛スピードで発進する(背景がものすごい勢いで流れていく)。
どちらが前に出るか、カーレースのように競い合う。

七穂 ――(Gがかかって助手席にのけぞる)こわいこわいこわい!
佳純 (横を睨み付けながらハンドルにしがみついて)この野郎。やるじゃねぇか。
炯介 ――(佳純の車を見て)あいつら。怜さん、こうなったら体当たりだ!
 無理無理。絶対無理!
炯介 こうやるんですよ!(横から手を伸ばしてハンドルをぐいと回す)
 ぎゃー!
佳純 ――(ぎりぎりでかわす)バカ野郎! なめんなよ!(ハンドルを切ってやり返す)
七穂 ひぇー!
炯介 ――よけて!(横からハンドルを操作してかわす。が、車体がぐらぐら揺れる)くそっ!
 ウソ、ウソ!

炯介たちが怯んだ隙に佳純はすばやく加速し、怜の車を置き去りにする。
怜の車、上手に消えていく。

佳純 はっはー、ざまぁみろ!
七穂 (ぐったりとなり)……住吉さんて、ハンドル握るとちょっと人が変わりますね。
佳純 いい気分だ。もっと飛ばそうか?
七穂 いいですいいですいいです。十分スピード出てますから。
佳純 この道路はおれたちのもんだ、いぇー!(とアクセルふかす)
七穂 えー!

佳純の車、またしてもぐんと速度を上げる。
と、上手から白バイが登場する。

七穂 あ、住吉さん! (夢中の佳純の肩を揺さぶる)住吉さん!
佳純 え?
七穂 警察! 警察!
佳純 くそっ、サツか!

白バイ、佳純の車の脇に来て、路肩に停めるように手で指示。
佳純、仕方なく従う。車を停めて、運転席の窓を開ける。

警官 (無愛想に)免許証。
佳純 (黙って渡す)。
警官 何キロ出てたか分かってます?
佳純 何キロ? 女性に体重を訊くなんて失礼な。
警官 ……(冷たい目で見る)。
佳純 (七穂に)ダメだ、とても冗談が通じる相手じゃない。
七穂 すいません、道が気持ちよくって、つい気が緩んで。
警官 九十五キロ。制限速度は?(背景の標識を指す)
七穂 (それを見て)五十キロ……。ということは、四十五キロオーバー……。
警官 その通り。
佳純 (いかにも不服そうに抗議して)他に誰も走ってないじゃないか。
七穂 (佳純の口を塞いで)いいから。(警官に)すいませんでした! 本当に深く深く反省してます!

上手から怜の車が現れる。

 あ。
炯介 スピード違反で掴まってやんの。ウケる!
佳純 くそっ!(と車を発進させようとする)
七穂 (あわてて取り押さえて)ダメダメダメ!
佳純 行かせてくれっ、ふごごっ(また口を塞がれる)。

怜の車は脇を通り過ぎて下手に消える。

警官 レンタカーですね。
七穂 観光です。あの、本当にすいませんでした。
警官 シーズンオフのありがたい観光客ということなら、いくらか大目に見てやらないでもないですけどね。
七穂 そうしていただけると本当に。ほら、住吉さんも。
佳純 え?
七穂 謝るの!(と強引に頭を下げさせる)本当にすいませんでした!
警官 本来なら一発免停ですからね。
七穂 はい、もう二度と違反しないように気をつけます。
警官 じゃ、四十五キロオーバーのところを三十キロオーバーということで――。
七穂 ありがとうございます!
佳純 何がありがとうなんだ、んがごっ(また七穂に口を塞がれる)
警官 三点の減点ね。一万八千円の罰金(と切符を渡す)。
佳純 なっ、一万はっ、んが!(すぐにまた七穂に口を塞がれる)
七穂 分かりました。本当にすいませんでした!
警官 制限速度を守って安全運転でお願いします。

警官はバイクにまたがり、Uターンして下手に消える。

七穂 ふぅ。(佳純を離して、息をつく)
佳純 一万八千円って!
七瀬 分かってます。
佳純 一万八千円だよ! もう一回軽井沢来れるだろ。こんな誰も走ってない道路でちょっとスピード出したくらいで。
七瀬 仕方ないじゃないですか! 違反したんだから。
佳純 ……。(ぐったりシートにもたれる)だから警察は嫌いなんだ。
七穂 半分払います。
佳純 ダメだよ。おれが違反したんだから。
七穂 でも。あいつが挑発するから。
佳純 いいから。気を取り直してデートの続き、楽しもう。
七穂 運転、代わりますか?
佳純 大丈夫。
七穂 (半信半疑で)制限速度、守れます?
佳純 安全運転で行くから。
七穂 お願いします。

佳純、車をスタートさせる。そして、ゆっくりと下手に消える。
まもなく背景は流れるのをやめ、駐車場となる。右手に行くと浅間牧場、左手に行くと白糸の滝という看板が出ている。上手から怜の車が現れて停まる。

 ふー。なんか疲れちゃった。
炯介 ありがとうございます。降りましょうか。
 そうね。

怜と炯介は車を降りる。
そこへ、上手から佳純の車が来る。佳純はゆっくりと車を駐車し、二人とも車を降りる。

炯介 (佳純たちに)旅先で警察に捕まるなんて、まったく幸先がいいですね。
佳純 そっちだって制限速度はオーバーしてただろ。
炯介 捕まったのは運が悪かったからだと言いたいんですか。そういう考えはよくないな。
七穂 全然問題なし。今のトラブルが二人の距離を縮めたから。ね?(と佳純と腕を組んでみせる)
炯介 お前――。
佳純 まぁ、そうとも言えるかな。
七穂 どっちに行く?
佳純 えーと、じゃあ、牧場。
七穂 早く二人きりになりたい。
炯介 そしたらぼくたちは滝に行きましょう。ねぇ、怜さん。
 それがよさそう。
炯介 (七穂に聞こえよがしに)手をつないでもよろしいですか?
 え? あの、えぇ。(やや強張って)もちろん。
佳純 ちょっ、何言ってんだよ。
炯介 それじゃ、失礼して。(怜と手をつなぎ、見せびらかす)さ、ぼくらも二人だけでデートを楽しみましょう。

それぞれのカップル、睨み合う。

七穂 行きましょ。
佳純 そうだな。
炯介 (七穂たちに)くれぐれも牛の糞など踏まないように。(怜に)行きましょうか。
 えぇ。
七穂 そっちこそ、くれぐれも川に滑り落ちたりしないように。

佳純と七穂は上手に退場。
炯介と怜は下手に退場。

▼二場

牧場へと続く小道が緩やかに登り、やがて上手側の小高い丘に出る。客席側に牧場が広がっている想定。佳純と七穂が話しながら小道を歩く。

佳純 七穂ちゃんは漫画好きなの?
七穂 え?
佳純 昨日、よしもとよしともの話が出たから。
七穂 あぁ、けっこう読みますね。
佳純 他に好きな漫画家とかいる?
七穂 それはもうこの人しかいないですね、伊藤潤二。
佳純 あ。
七穂 え?
佳純 同じ同じ。おれも。大好き、伊藤潤二。
七穂 ホントですか?
佳純 伊藤潤二の中で何が好き?
七穂 『富江』シリーズとか、映画にもなった『うずまき』とかもいいですけど、個人的には『ギョ』がベストです。
佳純 ギョギョッ! いいよね、『ギョ』! 陸上ザメが最高。
七穂 あれ、ウケますよね!
佳純 そうそう。あと双一シリーズも好きだな。
七穂 双一、わたしも好き! 憎めなくて。
佳純 なんだ、けっこう好みが似てるじゃん。そしたら、そうだな、じゃあ好きな俳優とかいる?
七穂 (迷うことなく)ジム・キャリー。
佳純 ホントに?
七穂 中学の頃はジム・キャリーと結婚したいって思ってました。
佳純 おれも! いや、結婚したいとは思わないけど、一番好きな俳優だよ。出演作は全部見てる。
七穂 ホントですか?
佳純 『エース・ベンチュラ』とか最高。
七穂 あれ、めちゃくちゃ笑えますよね。特に一作目!
佳純 絶対一作目だよね! ちょっとちょっと、話し合うなぁ。そしたら、あえて、あえてもう一人上げるとしたら?
七穂 俳優で?
佳純 そう。
七穂 えー、ちょっと待って。うーん。
佳純 せーので言おう。
七穂 (決まって)はい。いいですよ。
佳純 せーの。
二人で サモハン・キン・ポー。
七穂 えー!
佳純 マジか! 水島裕の吹き替えが最高なんだよね。
七穂 それそれそれ!
佳純 もっと行ってみよう。じゃ、好きな動物。
七穂 せーので?
佳純 (うなずいて)せーの。
二人で 猫。
佳純 わ、また!
七穂 これはあるある。あるある。ありますよ。
佳純 まぁ、これはあるか。じゃ、好きな食べ物で。せーの。
二人で 餃子。
七穂 ウソ。
佳純 好きな路線。せーの。
二人で 田園都市線。
七穂 あの、しょっちゅう人身事故で止まるところがいいんですよね。
佳純 理由も一緒だ。それじゃあ、好きなスポーツは?
二人で 高校野球。
佳純 一回負けたら終わりっていうのがたまらないよね。
七穂 そう! 熱い!
佳純 じゃ、好きなギャグは。好きなギャグ。
七穂 えー、好きなギャグとかあります?
佳純 あるでしょう。これが一番大事でしょ。絶対あるよ。考えてみて。
七穂 えー、あ、これかも。いいですか? じゃ、せーので。
二人で (並んで一緒に)せーの、閉店がらがら。
佳純 (驚いて横に飛びのく)うわっ、なになになに!
七穂 ヤバっ! なんか鳥肌立った。
佳純 七穂ちゃんて、見かけによらず、何て言うかB級志向だね。
七穂 けっこうそうなんです。
佳純 これは、ほとんど運命だ。おれたち、運命だよ。
七穂 いや、それは言い過ぎですよ。
佳純 絶対運命だって。どうする?
七穂 どうするって言われても、別にそんな――。
佳純 こうなっちゃったら、どうにかしないとって感じでしょう。
七穂 そうですか。
佳純 何? そんな冷静? 同じギャグを好きとか、ある?
七穂 でも、驚きました。住吉さんの絵、見てみたいです。好きになれるかも。
佳純 いくらでも見せるよ。近いうちにいくつかカットを描いた本が出るんだけどさ、完成したら一冊あげる。
七穂 すごい。是非。
佳純 フリーランスの仕事って保証はないし、収入は安定しないし、必ずしも好きに描けるわけじゃないから大変なんだけど、今度の本が無事に形になってくれるとずいぶん助かるんだ。うまく次につながってくれれば、バイトもやめられるかもしれないし。
七穂 それで?
佳純 それでって?
七穂 彼女さんと結婚できる?
佳純 いや、そういうわけじゃないけど……。
七穂 何だかんだいって真面目に考えてるんですね。
佳純 いやいや、だからそういうわけじゃ。
七穂 否定しなくてもいいのに。
佳純 何となく、癖でね。否定するのが。
七穂 住吉さんて、どうして絵を描こうと思ったんですか。
佳純 え?
七穂 わたし、先月いっぱいで仕事やめちゃって、今求職中なんですけど。自営業の方のお話を参考までにと思って。
佳純 あぁ――。おれ、もともと学校が全然好きじゃなくてさ。授業中に教科書とかノートに落書きすることだけが楽しみだったの。例えば、歴史の教科書に昔の政治家とか軍人の写真ってあるでしょ。
七穂 はい。
佳純 フルシチョフの頭をコーンヘッドにしたり、坂本竜馬をケンタウルスにしたり。
七穂 (笑って)おかしい。
佳純 あとパラパラ漫画とかね。そういうのがクラスの子にウケたりしたからかな。他愛ない絵だけどね。一応大学でそっち方面の勉強も少しはしたけど、ほら、個人の素質ってものがあるから会社勤めとか向かないことを無理してやっても続かないし。それでイラストを描いているってところかな。
七穂 なるほど。
佳純 売れないイラストレーターの言うことだから、何の参考にもならないかもしれないけど。
七穂 そんなことないです。面白かったです。
佳純 お、着いた。

佳純と七穂は丘に上がり、眼下に広がる牧場を一望する。まだ冬を抜けたばかりで放牧ははじまっておらず、牛は一頭もいない。

七穂 うわー……。って、牛、一頭もいませんね。ただの草原。
佳純 放牧もシーズンってあるのかな。あ、見て、(遠くを指さして)あの木陰に一頭だけ。
七穂 あ、ホント……。
佳純 (よく見て)……牛じゃないな。あれは……、屋外で、後ろから重なっている、どこかの人間のカップルだな。……カメラ持ってくればよかった。
七穂 (慌てて話をそらして)でも、いい景色ですね。大自然っていうか。
佳純 (深呼吸して)空気もきれいだし、気持ちいい。
七穂 別のところ見てみましょうか。何か別の動物とかいるかもしれないし。
佳純 そうだね。

二人、再び丘を下りて小道を歩く。

七穂 でも、やっぱり夢があっていいですよ。
佳純 え?
七穂 仕事のこと。
佳純 夢ってほどのこともないけど。七穂ちゃんは、次のアテはあるの?
七穂 それが特になくて。自分らしく働きたいみたいなことは言いませんけど、もう少しまともな環境のところがあればっていう、それくらいで。一応失業保険が出てるんでそこまで焦ってないんですけど、でも、何の仕事しても結局似たり寄ったりじゃないかって気がしちゃって。
佳純 そうなんだ。
七穂 どこの会社に行っても、上司のろくでもないギャグみたいな思いつきのせいで意味もなくてんてこ舞いになったり、つまらない派閥争いみたいなものに巻き込まれたりするだけじゃないかって。あれ、不思議なんですけど、どうしてみんな日和見主義なのに派閥争いするんですかね。
佳純 それで結局、声がデカいだけのやつのろくでもない意見が通る、みたいな。
七穂 そうなんですよ! なんか仕事してても辻褄合わせしてるだけみたいにしか感じられなくて。
佳純 それは面白くないよな。
七穂 そうなんですよ。だからっていちいちやり合っても疲れるだけじゃないですか。孤立するし。それで結局、単に自分ひとりのためだけに、お給料もらえるからってそこにいるだけみたいになって。あと、世間体ですよね、世間体のために会社員やってるだけみたいになって、バカバカしくなって。
佳純 七穂ちゃん、けっこうロックだね。
七穂 つまんない愚痴言ってすいません。でも、すぐやめたんだったら自分とは関係ないで済ませられますけど、三年やったら文句を言う権利はあると思うんですよ。私ルールですけど。
佳純 いやいや、それは正しいよ。
七穂 もうちょっとましな職場で、ましというか、耐えられる程度のバカバカしさのところで働けたらいいのかな。別に正社員じゃなくてもいいんです。そりゃ将来を考えると非正規って色々厳しいのかもしれないけど、でも、普段から毎日が充実してないのに将来なんてないだろって思いません?
佳純 けっこう厳しいところ突くな。
七穂 同じことを繰り返すんじゃ、前の仕事をやめた意味ないですから。
佳純 それはそうだ。
七穂 あるいは、結婚してダンナに働いてもらって、自分は家庭に納まるのでもいいかなとか考えたりもします。一番楽そうだし。でも、女は現実的だからみんなそう考えるんですよね。だから、こっちのが競争率は俄然高いんです、就職なんかより、多分。つまり、いい条件の揃った男はそうそう捕まえられない。
佳純 あの彼は?
七穂 あいつも学生のときはまだよかったですけど、世の中に出て現実にぶつかっていく力があるかっていったら、ないですもん。だいたい不器用なくせにプライドばっかり高くて、働くのには向いてないんです。バイトだっていやなことがあるとすぐやめちゃうし。世間知らずだし。甘ったれだし。ケチなくせに経済観念ないし。あいつに人生を託せるかっていったら、ちょっと無理です。
佳純 ずけずけ言うね。
七穂 わたし、色々頭に来てるんです。なんかもう、未来がない気がするんですよ。
佳純 未来がない。
七穂 働いてても未来がない。かといって働かなきゃどうにもならない。失業者には現在もないんです。
佳純 未来もない、現在もない。SFみたいな話になってきたね。
七穂 お先真っ暗。このまま行ったらホームレス。
佳純 それはさ、働くってことと夢や理想みたいなものが何の関係もなくなっちゃってるってことなんだろうね。
七穂 分かります! 言ってることめっちゃ分かります! 仕事なんてもうほとんどが右から左へ流すだけなんですよ。頭脳労働なんてウソばっかり! ただあっちにもこっちにも気ぃ使って、成果なんか全然あがらないのに磨り減るだけ磨り減って、それで休みになったら寝てばっかり。ほとんどおっさんじゃないですか。
佳純 それはさ、つまんない世の中ってことだよね。
七穂 そーですよ! つまんないですよ! わたしまだ二十六ですよ。まだ若いんですよ。若いのに、将来のことを考えても夢や理想が全然見えないなんてひどいじゃないですか。
佳純 希望がない。
七穂 まったくなし。
佳純 つかぬことを伺いますけど、七穂ちゃんは選挙のとき投票に行く?
七穂 一応、行くことには行きます。暇があるときは。
佳純 どこに投票する?
七穂 わたしは成人して以来、一貫して白紙投票です。
佳純 ……それもおれと同じだ。
七穂 住吉さんとわたし、考え方が似てますね。
佳純 趣味も似てるし、考え方も似てる。おれたち、もっとよく話してみるべきかもしれない。
七穂 はい。
佳純 こうなったら、二人でもう一泊しない?
七穂 それは……、考えときます。
佳純 ダメとは言わなかった。一歩前進だ。
七穂 前向きな人ですね。
佳純 こつこつと積み上げていくタイプでね。
七穂 (笑って)売れないイラストレーターですね。
佳純 大器晩成型なんだよ。

▼三場

小川沿いの小道は、道沿いにはさまざまな植物が生え、鳥のさえずりが聞こえてくる。道の先には白糸の滝。湾曲した岩壁から数百条の地下水が白糸のように垂れている。炯介と怜が話しながら小道を歩いてくる。

 (鳥の鳴き声に)あ、キビタキ。
炯介 なんです?
 キビタキ。鳥よ(辺りを見回す)。
炯介 鳥。
 姿は見えないな。
炯介 どんな鳥ですか?
 全身は黒くて、羽のところとかに黄色が入ってるやつ。小さい鳥(また鳴き声が聞こえる)。あ。
炯介 この声?
 そう。
炯介 (探して)いませんね。
 残念(と再び歩き出す)。
炯介 あの、今日は変なことに巻き込んじゃってすいません。せっかくの旅行だったのに。
 おかしなことになっちゃったね。
炯介 ぼくら、今二人とも無職だからお互いにイライラをぶつけちゃって。
 わたしたちもちょっと雰囲気悪くなってたから、あんまり気にしないで。
炯介 そう言っていただけると少し気持ちが楽になります。やっぱり怜さんは優しい人だ。
 そんなことないけど。
炯介 就活でもけっこう厳しいこと言われるし、彼女もけっこうキツいところあるんで、優しさが身に沁みます。
 就活、大変だよね。
炯介 えぇ。
 わたしの頃も就職氷河期なんて言われてたから分かるな。
炯介 そうなんですか。
 五十も六十もエントリーして、一つも通らなかったりしたから。
炯介 どこも落ちると自分が全否定されてるみたいな気持ちになりますよね。
 うん。わたしの場合、なんとなく周りに流されてやってただけだから、落ちても仕方ないんだけど。
炯介 ぼく、大学院で美術史を研究してて、できれば学芸員になりたいんです。美術館とか博物館の。
 そうなんだ。
炯介 でも、そういうところは募集自体があまりないんです。もちろん倍率も高いし。それで一般企業も受けるんですけど、もともとそういうところに就職したいと思ってるわけでもないから全滅で。百社。
 百? それはキツいね。
炯介 モチベーションもだんだん下がってくるし。
 でしょうね。わたしは結局いわゆる就職っていうのはしなかったの。
炯介 そうなんですか。
 わたし、農学部だったんだけど、卒業したあと大学で一年間研究させてもらって、そのあとはバイト暮らし。途中からは親元に戻ったから、そうそうお金に困ることもなくて。適当にアルバイトして、あとは父が畑をやってるからそれを手伝ったり。
炯介 農家なんですか?
 (首を振って)半分趣味みたいなもの。でも、わたしも土仕事けっこう好きだから。
炯介 なんだか、いいですね。
 いろいろな生き方があると思うけど、自分さえ納得してれば世間の目も気にならないから。
炯介 強いんですね。
 それでも、三十近くなってくるといつまで結婚もしないでふらふらしてるんだって視線はけっこうきついものがあるよ。(笑って)その三十ももう過ぎちゃったけど。
炯介 全然見えませんよ。
 ありがと。
炯介 もし学芸員になれたら、いつか自分で展覧会を企画したいんです。誰でも知ってるような有名な芸術家じゃなくて、まだ世に知られていない芸術家や作品を紹介したいんですよ。歴史に埋もれてしまった人もそうですし、現代で活躍している人もそうです。いいものは多くの人に見てもらいたいですし、芸術家も作品もやはりそれを望んでると思うんです。少しでもそういうきっかけが作れたらいいな、なんて。
 すてきね。
炯介 すいません、つい熱くなってしまいました。
 でも、あきらめないでほしいな。最初は希望通りの仕事ができなくても、いつかチャンスが巡ってくるかもしれないし、何が起こるか分からないから。
炯介 そうですね。ありがとうございます。怜さんと話してたら前向きな気持ちになれました。
 (足元の花に気がつく)あ、アズマイチゲ。
炯介 アズマ、何です?
 へぇー(道端に腰をかがめて花を愛でる)。
炯介 珍しい花なんですか?
 アズマイチゲ。スプリング・エフェメラルって言ってね、花が咲いてから種が実るまでを一、二ヶ月で済ませちゃうの。今花が咲いてたら、五月中頃には種を実らせて、六月に入る前には枯れちゃうかな。
炯介 短命なんですね。
 どうしてかっていうと、周りの樹木が葉を広げはじめると、地面には日光が届かなくなって光合成ができなくなっちゃうから。
炯介 それでそんなに急ぐわけですか。
 そう。見られてよかった(立ち上がって歩き出す)。
炯介 野鳥とか植物とか、詳しいですね。
 子供の頃、親に教わったの。
炯介 ぼくなんか、鳥っていったらスズメとハトと、あとカラスくらいしか分かりません。
 男の人ってけっこうそうだよね。
炯介 カレシさんもやっぱりそうですか。
 彼は、仕事で植物とか動物とか描くことがあるから、それでも詳しい方。
炯介 あの人がね。あ、滝が見えてきましたよ。

滝はそれぞれの筋が細く水量も少ないので、水音も静か。地下水のため滝壷の水は澄んでおり、辺りの空気はひんやりとしている。

炯介 いいもんですね。
 ほんと。気持ちいい。
炯介 誰もいないし、貸切ですよ。
 (水に触れる)わ、冷たい。
炯介 (やはり水に触れてみる)ホントだ。
 (炯介にタオルを渡し)はい。
炯介 あ、すいません。怜さんは、あの男と結婚しようと思ってるんですか?
 え? ずばり訊くね。
炯介 ちょっと気になって。
 そういう話も出てなくはないんだけど……。
炯介 はっきりしない?
 結婚って形にこだわることはないと思うんだけど、でも、じゃあ今のままでいいのかって言ったら、わたしたち一緒に住んでるわけでもないし……。
炯介 怜さんはどうしたいんですか?
 わたしは、……(悩んで)分からないな。
炯介 それで現状維持みたいなことになってしまう。
 彼もけっこう考えが古風なところがあって、もう少し安定した収入がないととか思ってるみたいで。
炯介 フリーランスはやはり厳しいですか。
 別でアルバイトもしないと、自分ひとりの生活も成り立たないみたい。わたしとしては、収入とは関係なくもう少し好きに絵を描いてほしいと思わなくもないんだけど、生活もしてかなきゃいけないから、なかなかね。いやね、会ったばかりなのにこんな話。
炯介 いいじゃないですか。お互いにもっとよく知り合いましょうよ。怜さんとしては、彼に決断してもらいたいんですね。
 そうなのかな。
炯介 彼がはっきりしないから、怜さんの気持ちもはっきりしない。
 うーん。
炯介 でも、失礼ですけど、決断の苦手そうな人ですよね。
 (笑って)どう贔屓目に見ても、大物になるタイプじゃないかな。
炯介 今日、どうしてOKしてくれたんですか。あの人が本当は怜さんのことをどう考えてるのか知りたいとか、そういう気持ちもあったとか?
 どうかな。それもあるかもしれない。
炯介 そうだ。滝をバックに写真撮りませんか。
 え?
炯介 いやですか?
 (首を振って)うぅん。

二人は滝の前に横並びになる。炯介はスマホを自分たちに向けて構える。

炯介 ちょっと照れちゃいますね。
 少しね(と言いつつ髪を直す)。
炯介 じゃ、いきます(と撮る)。ありがとうございます。(画像を確認して)よく撮れてますよ(と怜にも見せる)。
 ありがと。
炯介 とってもきれいです。
 え? やだ、からかわないで。
炯介 思ったことを言っただけです。そろそろ行きましょうか(と先に歩き出す)。
 うん(少し戸惑いがちにあとからついていく)。

▼四場

鬼押し出し園。浅間山の麓に広がる奇岩群。浅間山は間近にそびえ、周囲の山並みも絶景。園の中ほどにある観音堂(舞台中央奥)へ至る参道が、奇岩の間をうねるように伸びている。
観音堂の手前にある鐘楼堂が、舞台の下手側手前にある。かつてジョン・レノンがこの地を訪れた際に、この鐘をついたと言われている。
上手側手前には小さな売店があり、名物のソフトクリームなどが売っている。売店にいるのはホテルのフロントにいた山内誠だが、後ろを向いて働いているので最初は誰なのか分からない。
上手から佳純と七穂が歩いて登場。

七穂 けっこう坂ですね。
佳純 日差しもきつくなってきたし。(売店を見つけて)お、約束したソフトクリーム、食べようか。
七穂 やった!
佳純 (店員に声をかけて)すいません。
山内 (振り返って)はい、いらっしゃい。(気がつくが驚くこともなく)あぁ、住吉さんじゃないですか。
佳純 うわっ、お前か!
山内 そろそろ来る頃じゃないかと思ってました。
佳純 何でお前がここにいるんだよ。
七穂 ホテルの人?
山内 覚えててくださって嬉しいです。
佳純 こちら、山内くん。
山内 朝と夜はホテル、昼間はここで働いてます。睡眠時間三時間でがんばってます。彼女募集中です。
佳純 見事な自己紹介でした。じゃ、そういうことで(行こうとする)。
山内 ちょっとちょっと。
佳純 何?
山内 それはないなぁ。
佳純 なんだよ。
山内 ソフトクリーム、食べて行きましょうよ。せっかくの旅行じゃないですか。デートじゃないですか。ぼくじゃないですか。
佳純 いや、他でも売ってるし。
山内 ここ、鬼押し出し園ではうちだけですよ。絞りたてのミルクを使った濃厚ソフトクリーム。四百円。
佳純 高い。三百五十円で売ってるところもあるのに。
山内 ここまで材料とか運んでくるんですから、勘弁してくださいよ。それに見てください。(七穂を指して)彼女なんて、ソフトクリームが食べられなくてもう死にそうじゃないですか。
七穂 死にそうではないけど。
山内 死にますよ。食べたら食べたで、おいしすぎて死にますよ。
七穂 どっちにしろ死ぬんだ。
佳純 そんなにおいしいの。
山内 もちろん。まだおいしすぎて死んだって例は報告されてませんけど。
佳純 分かったよ。買うよ。二つください。ミルクソフトクリーム、二つ。
山内 ……二つ?
佳純 何。
山内 二つですか。
佳純 今度は何だよ。
山内 一つでいいんじゃないですか?
佳純 一つ? どうして?
山内 住吉さん、デートされてるんですよね。
佳純 そりゃ、まぁ。(七穂に)おれたち、デートしてるんだよね。
七穂 そうですね。
佳純 (山内に、勝ち誇って)ほら見ろ。
山内 だからそう言ってるじゃないですか。それで、デートなら一つでいいじゃないですか。
佳純 どうして。
山内 どうしてって。
佳純 どうして。
山内 あーもう。だから、二人で一つ。
佳純 二人で一つ?
山内 まだ寒いですから、一人で一つ食べたらお腹壊しちゃいますよ。
佳純 でも……。
山内 なんです?
佳純 そんなの、あれじゃないか。
山内 あれって。
佳純 ほら。
山内 (気がついて)やだなー。やだなー、住吉さん、やだなー。間接キスですか? いい年して何言っちゃってるんですか。
佳純 うるせぇな。
山内 (こっそりと共犯めいて)協力するって言ったでしょ。
佳純 (こっそりと)空気読めよ。そういうんじゃないから。
山内 (七穂に聞こえるように)彼女はいやだなんて言ってないですよ。ねぇ。
七穂 (ちょっと返事に困るが)あの、わたしは、別に。
山内 (佳純に)ほら?
佳純 (七穂に)でも、やっぱり、あれだよねぇ。
七穂 まぁ、何て言うか、できれば。
佳純 そうだよね。(自分に言い聞かせて)そうだよね。(山内に)そうだよ。ミルクソフトクリーム、二つ。
山内 (不服そうに)いいんですか?
佳純 二つで。
山内 (折れて)分かりました。お作りしますから、少々お待ちください。そうだ、その間、そこの鐘楼で鐘をつくといいですよ。あのジョン・レノンもついたという鐘です。軽井沢といえばジョン・レノン、ジョン・レノンといえば軽井沢ですから。
佳純 いいよ。おれ、ポール・マッカートニー派なんで。
山内 そうなんですか?
七穂 (笑う)。
佳純 あれ、なんか可笑しかった?
七穂 いえ、別に何でもないです。でも、せっかくだから、やりましょうよ。
佳純 七穂ちゃんがそう言うなら。

佳純と七穂は鐘楼堂に行って、二人で一緒に鐘を撞く。ごーんと荘厳な音が響き渡る。

山内 (感じ入った様子で)何度聞いてもいいですよね。本当はもう何千回も聞いてるから飽き飽きなんですけど。でも、住吉さんが鳴らすと違うなぁ。なんとなく、悲哀がある。
佳純 ぶつぶつうるさいな。
山内 ミルクソフトクリーム、二つで八百円です。

佳純はぴったり支払い、ソフトクリームを受け取る。一つを七穂に渡す。さっそく舐める。

七穂 おいしい!
佳純 (山内に半ば嫌みに)おいしすぎて死にそうになるぞ、山内くん。
山内 そうでしょう!
佳純 七穂ちゃん、観音堂まで行こうか。
七穂 はい。
山内 見晴らし、最高ですよ。(佳純を手招いて)
佳純 何?
山内 そこで一気にキスですよ、キス。
佳純 キスなんかするかよ!
山内 しましょうよ。
佳純 しないよ。
山内 彼女、待ってますよ。
佳純 そんなわけないだろ!
山内 ありますって。分かってないなぁ。見てください、あの男に餓えた、物欲しそうな顔。
佳純 そんなわけ……(と七穂を見る)。
七穂 (一心不乱にソフトクリームを舐めている)
山内 男住吉、ここが見せ場っすよ!
七穂 (佳純に)見せ場?
佳純 いいからいいから、行こう。

佳純と七穂は上手側から退場し、観音堂に向かう。
入れ違いに、下手側から上がってきた炯介と怜が登場。

炯介 汗かきますね。
 けっこうしんどい。
炯介 ちょうど売店があります。ソフトクリームでも食べましょう。
 あら、この人。
山内 どうも。おやきのお姉さんですね。
 おやきのお姉さんって。
炯介 だれかと思ったら、ホテルの。
山内 山内です。朝と夜はホテル、昼間はここで働いてます。睡眠時間三時間でがんばってます。彼女募集中です。
炯介 改めて自己紹介されちゃいましたね。
山内 おやきの次はソフトクリームですか。お二人とも隅に置けないなぁ。
炯介 (満更でもなさそうに)そういうわけじゃないんですけどね。
山内 すっかり恋人同士だ。
炯介 そうですか?
山内 (いきなり威勢よく)そんなお二人にはっ! 一人ずつぺろぺろ舐めるなんて淋しすぎる。恋人コースで行きましょう。
炯介 恋人コース。そんなコースがあるんですか?
山内 お任せください。でででん! 二人で一つのソフトクリーム!
炯介 二人で一つ……(考えて、理解して)。いいですね! ねぇ、怜さん!
山内 いいでしょう!
 (返事に困って)いや、あの、どうなんでしょう。
炯介 絶対いいですよ!
山内 決まりですね。
炯介 恋人コースでお願いします。(怜に)いやぁ、猛プッシュされちゃいました。あれだけ押されちゃうと、ぼくも弱いなぁ。
 (やや唖然として)そう。
山内 今お作りしますから、少々お待ちください。そうだ、その間、そこの鐘楼で鐘をつくといいですよ。あのジョン・レノンもついたという鐘です。軽井沢といえばジョン・レノン、ジョン・レノンといえば軽井沢ですから。
炯介 ジョン・レノン。遠慮しとこうかな。ぼく、ポール・マッカートニー派なんで。
山内 あなたも?
炯介 あなたもって?
山内 いや、たまにそういう方いらっしゃるんですよ。少数派ですけど。
 (笑って)
炯介 あれ、何か可笑しかったですか?
 何でもないの。ただ、彼と同じだから。
炯介 ポール派なんですか、あの男も?
 断然ね。
炯介 (あまり面白くなさそうに)へぇ。
山内 奇遇ですね。ジョージもリンゴもいるのに。あの二人はどうしたらいいんです? そういえば、ぼくが音楽やってるって言いましたっけ?
炯介 そうなんですか?
山内 そうなんですよ。それで――。
炯介 あ、ソフトクリーム!
山内 (あわてて機械を止めて)大盛りにしておきました。恋人コースですから。
炯介 今、よそ見してただけでしょう。
山内 いいからいいから、サービスですよ。四百円になります。
炯介 いいからって。じゃ、これ。
山内 はい、ちょうどで。

炯介、ソフトクリームを受け取る。

 (ソフトクリームを見て)すごい。
炯介 サービスしてもらっちゃいました。あの人、いい人ですね、なんか色んな意味で。(ソフトクリームを怜に渡して)お先にどうぞ。
 ありがとう。じゃ、いただきます。
山内 そういえば、さっきの続きなんですけど、聞いてもらえます? ぼくはデビッド・バーンっていう人が好きなんですけどね――。
 せっかくだから、鐘ついてこようかな。
炯介 怜さんがそう言うなら。

炯介と怜、ソフトクリームを交代で舐めながら鐘楼堂に行く。山内誠はそれに気がつかずに働きながら一人で喋り続ける。

山内 ジョン・レノンと言えば、ジョン・レノンがオノ・ヨーコと一度別れて飲んだくれていた「失われた週末」と言われている頃によく一緒につるんでいたのがハリー・ニルソンって人なんですけど、そのニルソンはそのまんまのタイトルの「ニルソン・シングス・ランディ・ニューマン」ってアルバムでランディ・ニューマンの書いた曲を歌っていて、で、そのランディ・ニューマンのアルバムで何度が客演してスライドギターとか弾いているのがライ・クーダーって人なんですけど、そのライ・クーダーが二人で一緒にツアーもしている盟友がデビッド・リンドレーというこれまたすごいギタリストで、そのデビッド・リンドレーと組んで何枚もアルバムを作ったのがジャクソン・ブラウンなんですよ。で、そのジャクソン・ブラウンがプロデュースを買って出て再デビューを果たしたのが、その頃音楽活動から離れていたウォーレン・ジヴォンで、そのウォーレン・ジヴォンの曲をいくつかライブで取り上げたりもしているのがあのボブ・ディランなんですけど、そのボブ・ディランとことあるごとに比較されるのを煩わしく思いつつも一緒にツアーだってしたこともあるのがポール・サイモンという人で、そのポール・サイモンの「サプライズ」というアルバムでまさかのコラボレーションをしたのがブライアン・イーノなんですけど、そのブライアン・イーノがかつてプロデュースしたのがトーキングヘッズっていうバンドで、そのトーキングヘッズのリーダーが、ぼくの好きなデビッド・バーンなんですよ――。

山内が喋っている間に、まず炯介が鐘を撞き、それから怜も鐘を撞いて、戻ってくる。
その間に下手側から、観音堂から戻ってきた佳純と七穂が現れる。二人は炯介と怜に気づいて足を止める。炯介と怜が一つのソフトクリームを二人で舐めているのを見て、自分たちの手の中に一つずつあるソフトクリームを見て、二人とも激しく嫉妬する。

山内 ――だから、ぼく、ジョン・レノンって聞くと、どうしてもデビッド・バーンのことを考えちゃうんですよね。
炯介 (そこでようやく戻ってきて)え、すいません、何ですって?
山内 え?
炯介 すいません、聞いてなかったから。
山内 今のセリフをもう一回言わせるんですか?
炯介 鐘を撞いてたもんで。
山内 これだから観光客はイヤなんだ。
炯介 だってあなたが勧めるから。
山内 ぼくはジョン・レノンもけっこう好きだって言ったんです、ざっくり言うと。
炯介 ぼくだって別に嫌いではないですよ。
山内 そうですか。いつも思うんですけど、鐘が四つあって、ビートルズのメンバー全員がそれぞれ一つずつ撞いて、訪れたファンが自分の好きな人が撞いたのと同じ鐘を撞くようにしたら面白いんですけどね。鐘の数をカウントして、ファン投票みたいにしたりして。……それじゃ、リンゴがかわいそうですか?
炯介 ぼくに訊かれても。
山内 ぼくもリンゴ好きですけどね。リンゴのファンは一人で十回撞いていいことにしましょうか。ここはそういう場所じゃないんですけど、そんなことどうでもいいじゃないですか、ねぇ?
佳純 (離れたところから)二人で一つのソフトクリーム。あいつ、何が協力するだ。
七穂 カレ、ケチなんです。二人で一つならお財布にも優しいから。
炯介 (怜に)観音堂も見てみましょうか。
 えぇ。

と行きかけると、佳純と七穂に気がつく。

炯介 うわ、またいた!
七穂 よく会うわね。
炯介 (二人を見て鼻で笑う)一人一つずつのソフトクリーム。

佳純と七穂は、差をつけられたような思いで苦い顔。そのとき、佳純が「あっ」と食べかけのソフトクリームを地面に落とす。

佳純 ……落ちちゃった。
炯介 あんた、今自分で落としたじゃないか!
佳純 七穂ちゃん、よかったら、おれも一緒に食べていいかな、それ。
七穂 え? もちろん、いいに決まってるじゃないですか。
佳純 (七穂の手ごとソフトクリームを掴んで、これ見よがしに荒々しく舐め回す)うまい。れろれろれろれろ。
七穂 あーん、もっと舐めて。
佳純 なんか、とってもデートっぽいね。
七穂 おいしそうに舐めるところが素敵。
佳純 だろ? 七穂ちゃんも、はい、あーん。(とソフトクリームを口に持っていく)
七穂 (少しエロチックに舐めて)いいわぁ。おいし。

それを見て炯介と怜も嫉妬にもだえる。

炯介 怜さん、観音堂に行きましょうか。
 そうね、二人で景色を眺めながら仲良くソフトクリーム食べましょう。
佳純 おれたちはそろそろ行こうか。浅間山が噴火するといけないし。
七穂 わたしたちがいなくなったあと、あの人たちがここにいるうちに噴火するといいんですけど。

佳純と七穂は上手に、炯介と怜は下手に退場する。
山内は一人でよしよしというようにうなずく。

▼第五場A

野鳥の森。クリやカラマツが茂る緑深い森。木漏れ日が射し、鳥のさえずりが聞こえてくる。鳥の餌台が取りつけられている樹木もある。
佳純と七穂が上手から来る。七穂はむしゃくしゃして切れる寸前。

七穂 何なの、あの二人! アッタマ来る!(地団駄を踏むと、鳥が羽ばたく音がする)
佳純 あ、鳥が逃げた。
七穂 (小石を拾って容赦なく鳥に投げつける)あんなやつ、殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!
佳純 七穂ちゃん、捕まるよ。ここは国に指定された野鳥の森なんだから。
七穂 (鳥が騒がしく鳴きわめく)知るか! 死ねこの野郎! 死んじまえ! 死ねー!

七穂、力尽きて肩で息をする。

佳純 (少し様子を見てから)落ち着いた?
七穂 すいません。ちょっと、取り乱しました。
佳純 おれも、七穂ちゃんをあんまり怒らせないようにするよ。
七穂 鳥、死にましたか。
佳純 いや、今夜は鳥料理は食べ損なったみたいだ。
七穂 (思わず笑って)
佳純 ちょっと原始的な狩猟方法だったから。
七穂 住吉さんて、いい人ですね。
佳純 え?
七穂 わたしの無茶な提案に付き合ってくれて。
佳純 まぁ、キスぐらいはさせてくれるんじゃないかと思って。
七穂 させませんけどね。
佳純 え?
七穂 簡単にはちょっと。
佳純 ソフトクリームは同じやつ食べたのに。
七穂 それとこれとは別です。
佳純 たいして変わらないと思う――。
七穂 (きっぱりと)別です。
佳純 となると、自分でキスまで持っていくしかないってことか。
七穂 (面白がって)できます?
佳純 おれは本当は、頼りがいのある、セクシーでタフな男なんだぜ。見た目と違って。
七穂 見た目は、いわゆるダメ男ですよね。
佳純 それは世を忍ぶ仮の姿でね。本当の男というものを教えてやる。おれの夢が何だか分かるよな?
七穂 何ですか。
佳純 女の子と森の中で追いかけっこすること。捕まえた拍子に草むらに倒れ込んで、相手とふいに見つめ合ったりなんかしちゃって、そのまま唇を重ねる。それから後ろ手におもちゃの手錠をはめて、着てるものを半脱ぎにして、アリクイのような長い舌で体中を――。
七穂 ちょ、そこまで! 前半だけで十分です。
佳純 それ以上はおれの口からは言えない。
七穂 言わなくていいですから。でも、その夢、叶えたいですか?
佳純 え?
七穂 わたしのこと捕まえられますか? 森の中で追いかけっこ。
佳純 捕まえてみせようじゃないか。十秒ハンデをあげよう。
七穂 いいんですか。
佳純 狩りの楽しみってやつだ。
七穂 じゃ、遠慮なく。

七穂、クラウチングスタートの姿勢になって自分で「よーい、どん」と言って走り出す。ロードランナーのような勢いで駆けてゆき、瞬く間に下手に消える。

佳純 (呆気に取られて)あれ、そんな全力疾走する?

佳純も追いかけて下手に退場。
空になった舞台へ、まもなく炯介と怜が上手より現れる。

炯介 なんだか、面白くないですね。
 不愉快。
炯介 それです、不愉快。不愉快だ。何なんですか、これは。
 考えたくない。
炯介 そうだ。今はぼくたちデート中なんだ。ネイチャー・ウォッチングを楽しみましょう。怜さんと一緒ならツアーガイドいらずですよ。(大袈裟に深呼吸して)あぁ、新鮮な空気だ。生き返る。
 (急に自信をなくして、ふと立ち止まる)。
炯介 怜さん?
 わたしがいけないのかな。
炯介 え?
 わたしが結婚のこと持ち出したりするから、プレッシャー感じたのかも。
炯介 怜さんがそんな風に考えるのはおかしいですよ。それに、そういうことっていつかは決断しなきゃいけないことじゃないですか。
 そうだけど……。
炯介 怜さんって、人に自信を持たせるのは上手なのに、自分には自信を持てないんですね。
 (思わぬことを言われて)え?
炯介 違いますか?
 そう言われると……。
炯介 生意気言ってすいません。
 うぅん。多分当たってるんだと思う。
炯介 でも、控えめだけど、考え方が地に足が着いてるっていうか。怜さんは、人のいいところを見てくれるし、一緒にいると安心できます。
 ありがとう。
炯介 きっと人に何か教える仕事とかやったら、すごくいいんじゃないかって気がします。
 なんだかわたしが教えられちゃってるみたい。
炯介 エラそうにすいません。でも、あんな男にはもったいないですよ。ぼくが付き合いたいくらいだ。
 もうおばさんだよ。
炯介 そんなことないです。怜さんはとても魅力的だ。(ぐっと迫って)女の人は、いつも気持ちをしっかり掴まえてないとダメなんです。ぼくだったら、怜さんみたいな人がいたら絶対に離しません。
 (話をはぐらかして)この森、色んな生き物がいるんだろうね。
炯介 ニホンカモシカとか、ツキノワグマもいるみたいですよ。
 え、クマ?
炯介 入口の看板に書いてありました。
 出たら大変だね。
炯介 ぼくが何とかします。
 何とかって――、あ。
炯介 何です?
 (樹木の上を指し)見て。
炯介 (ビクッとして)……クマ! いや、違うな。キビタキですか?
 あれはムササビ。
炯介 あぁ、あれがムササビ。そうそう、ムササビですね、あれは。

怜は木の幹に身を隠すようにする。炯介もそのあとに続く。二人は少し声を落として会話する。

 もしかしたら、飛ぶところが見れるかも。
炯介 あの、ぶわってマント広げるみたいにするやつですか? 見てみたいな。
 夜行性だから、きっと今巣穴から出てきたばかりね。
炯介 ちょっと待ってみましょうか。
 えぇ。
炯介 けっこう大きいですね。
 わたしも初めて見た。

息をひそめて待っていると、ムササビがぱっと体を開いて空を飛ぶ。

 あっ!
炯介 飛んだ!

樹の影から出てくる怜と炯介。怜は頭上を滑空するムササビを目で追いながら、後ろ向きに歩く。そのとき、「きゃっ」と木の根っこに踵を引っかける。危うく転びそうになったところを、炯介がすばやく抱きかかえる。

炯介 大丈夫ですか?
 ありがとう。

二人は間近で目が合い、意識してぱっと離れる。

炯介 (やや気詰まりに)すいません。
 うぅん。
炯介 でも、いいもの見ましたね。
 ちょっと感動ちゃった。
炯介 ぼくも。

炯介と怜、微笑み合う。それから下手に退場する。

▼第五場B

同じ森の別の場所。セットはほとんど一緒だが、隅に丸太を組んで作ったベンチがある。余裕で逃げ切った七穂がそのベンチに座って佳純を待っている。傍らには水の入ったペットボトル。やがて、上手より息を切らした佳純が来る。足はふらふらで喋ることもできない。

七穂 とうちゃーく。
佳純 (ぜーぜー息をする)
七穂 全然ダメでしたね。
佳純 (切れ切れに)そんな、速く、走らなくても。
七穂 すいません、つい。わたし、中学高校と陸上部だったんですよ。
佳純 おれの普段の運動量、知ってる?
七穂 いいえ。
佳純 ゼロ。
七穂 そんな感じですね。
佳純 階段上るだけでも、息切れするのに。
七穂 座ります?
佳純 あぁ。
七穂 お水、どうぞ(ペットボトルを差し出す)

佳純はごくごくと一気飲みし、少し落ち着く。

佳純 ありがと。
七穂 もう少し食いついてくるかと思いました。
佳純 足の速いイラストレーターなんて、イラストレーターの定義に反するよ。明日、絶対筋肉痛だ。陸上って、短距離?
七穂 ハードルです。200メートルとか400メートル。
佳純 あの、ハードルをまたぐときに、股関節の筋が出るのが、たまらないんだ。
七穂 (笑って)住吉さんって、けっこうかわいいところありますね。
佳純 え?
七穂 なんか、息切らしてるの見てたら。
佳純 こう見えても、母性本能をくすぐるタイプでね。
七穂 (笑って)さっきと言ってることが違う。
佳純 何でも揃ってるんだ。キスはお預け?
七穂 次のチャンス狙ってください。
佳純 何とかしてものにするからな。B級志向の七穂ちゃんには、芸術至上主義の彼は合わないよ。
七穂 あいつにはサモハン・キン・ポーのかわいさなんか絶対分かりません。
佳純 お、オオルリ。
七穂 (つられて上を見上げて)何ですか?
佳純 (指さして)ほら、あの鳥。青いの
七穂 へぇ。よく分かりますね。

オオルリが鳴く。

七穂 きれいな声で鳴きますね。
佳純 うちの猫連れてきてたら喜んだだろうな。うまいんだ、鳥捕まえるのが。
七穂 お留守番ですか。
佳純 ペットホテルに預けてきた。

二人の近くにオオルリが降り立つ。水溜りで水浴びする。

七穂 あ、来ましたよ。オオルリ。水たまりで水浴びしてる。
佳純 幸福の青い鳥だ。
七穂 かわいい。
佳純 七穂ちゃんの方がかわいいよ。
七穂 え? またまた。
佳純 ま、鳥と人間じゃ比べ物にならないけど。
七穂 でも、わりとよく言われるんです、かわいいって。
佳純 そう言いたくなる人の気持ちが分かるね。スケッチブックがあったら絵に描きたいところだよ。七穂ちゃんの場合(と指でフレームを切って見て)、少し右斜めから見るのが一番見映えがするかな。
七穂 住吉さん、いつもそうやって口説くんですか?
佳純 学生時代に使ったことがある手なんだ。そのときは気持ち悪がられたけど。おれ、いつか個展を開きたいんだけどさ、そこで正面にこうバーンと、いや、正面じゃちょっとインパクトありすぎるから、ちょっと一画に、七穂ちゃんを描いた水彩画をさりげなく飾ったりなんかしたりしてね。
七穂 (さすがに照れて)わたしなんか描いてもしょうがないですよ。
佳純 描かずにはいられないよ。七穂ちゃんは、とってもかわいくて、若くて、……若くて、……若くて、……若くて。(若いと言いすぎたことを自問自答して)五歳くらい?
七穂 二十六です。
佳純 二十六っていったらかわいさのピークじゃないか。その顔! この一瞬を描きたい。よく見せて、記憶に焼き付けるから。
七穂 住吉さんも、さっきは怒ったんですか。あの二人に。
佳純 え? さぁ、どうだったかな。
七穂 怒るのは、カノジョさんのことが好きだからですよね。
佳純 もう忘れちゃったよ。七穂ちゃんと一緒にいたら。
七穂 本当?
佳純 本当。だから、七穂ちゃんにも忘れてもらわないと(ぐっと迫る)。

オオルリが飛び立つ。

七穂 (逃れるようにして)あ、オオルリ、行っちゃった。
佳純 (七穂の手を捕まえて振り向かせる)七穂ちゃん。

佳純と七穂、見つめ合う。

七穂 もし、わたしたちがキスしたら、どうなるんですか?
佳純 どうって?
七穂 それでも、お互いもとの恋人のところに戻るんですか? 何もなかったふりで。
佳純 どうしたらいいかは、あとで自分に聞いてみれば分かるんじゃないかな。

佳純、七穂に顔を近づける。七穂は目を薄く閉じかけるが……。

佳純 (急転)ちょちょちょ、ちょっと待った!
七穂 え?
佳純 (お腹を押さえて)何か、急にお腹が。
七穂 大丈夫ですか? いきなり走ったりしたから?
佳純 いや、これは、ソフトクリームのせい、かも。
七穂 ええっ! とにかくおトイレに。
佳純 いや、大丈夫。続きを……、(と言うが)ああっ!
七穂 え! うそ!
佳純 ……いや、大丈夫だった。でも、ぎりぎり、ぎりぎり、ぎりぎり。
七穂 行ってください。
佳純 どこ? トイレ、どこ? やばいやばいやばい。
七穂 (上手を指さして)ちょっと戻ったところに小屋がありました。
佳純 ごめん、続きはあとで!(走りながら)あの野郎、何が協力しますだ!

佳純、走って上手に退場。

七穂 (再びベンチに座り込んで、気が抜ける)もう、間が悪いんだから。

▼第五場C

同じ森の別の場所。セットはほとんど一緒だが、今度はベンチはない。木立の向こうに浅間山が見える。怜と炯介が上手から歩いてくる。お互いを意識して黙りがちである。

炯介 このあと、どうしましょうか。
 わたし、お土産買わないといけなくて。
炯介 そしたら、駅前のアウトレットがいいですかね。先に車返しちゃって。
 そうね。
炯介 終わっちゃいますね、デート。
 そうだね。
炯介 いやだな。
 え?
炯介 帰りの新幹線、何時ですか。
 六時十五分だけど。
炯介 ぼくは六時ちょうどのやつです。一本違いだ。
 そう。
炯介 こうしませんか。カレシさんと切符を交換して、ぼくと一緒に帰りましょう。
 そんな、無茶なこと――。
炯介 家に帰るまでがデートじゃないですか。
 それを言うなら、遠足でしょ。とにかく困るよ。
炯介 このまま別れるなんていやです。率直に言って、ぼく、怜さんに惹かれてます。
 そんなこと言われても。
炯介 もっと話がしたいです。いやですか?
 (迷って)そういうわけじゃないけど。
炯介 じゃあどうしますか。
 また東京で会うとか……。うぅん、ダメよね、そんな。
炯介 東京に帰って時間が空けば、また気持ちが変わってしまう。ぼくは今、怜さんと一緒にいたいんです。本気です。あいつと別れて、ぼくと付き合ってください。
 ずいぶん思い切ったこと言うのね。昨日今日会ったばかりなのに。
炯介 就活してて気がついたんです。チャンスはその場でものにしなきゃいけないって。いったん掴み損ねたら、もう運は巡ってこない。
 それは言えてるかもしれないけど。
炯介 怜さんに必要なのは、思い切った決断です。
 でも、強引よ。
炯介 怜さんみたいな人は強引にされないとダメなんだ。
 彼女はどうするの?
炯介 それは……。でも、お互い今の相手とはもう潮時なんじゃないですか。

炯介、悩む怜の手を取り、引き寄せようとする。
怜、首を振って、炯介から少し離れる。
そこへ、舞台下手よりトイレへと急いでいた佳純が現れる。佳純は二人の姿を見つけ、はっとなって足を止める。二人に気づかれないように木の幹に隠れ、成り行きを見守る。

炯介 また写真撮りましょうか。旅の、最後の記念に。ちょうど浅間山も入りそうだし。
 (背を向けて悩んでいる)
炯介 写真もダメですか?

怜は炯介に振り返って、少し無理に笑顔を作って首を横に振る。炯介は「じゃ、ここで」と怜と並んで立ち、スマホを自分たちに向けて構える。

炯介 じゃ、撮りますね。

そのとき、炯介はぱっと体の向きを変え、いきなり怜の唇を奪う。怜はもがくが、炯介は手を掴んで離さない。
除き見ていた佳純、ショックで後ずさり、そのまま下手に消える。
怜、炯介を押しのけると、上手へ走って逃げる。

炯介 怜さん!

▼第五場D

同じ森の別の場所。トイレ小屋がある。鳥のさえずりが聞こえる中、水洗の音が響く。
まもなく、少しげっそりとして打ち沈んだ表情の佳純が出てくる。ハンカチで手を拭き、放心した様子でそれをゆっくり折りたたむ。
そこへ下手より怜が来て、ばったり出くわす。

 よっしー……。
佳純 ……えーと、どちら様でしたっけ。
 よっしー。
佳純 何か。

怜は罪悪感で相手の顔をまともに見られない。佳純もどんな態度を取ったらいいか分からず、二人の間に気まずい空気が流れる。

 今日、どうだった?
佳純 今日? 最高でしたよ。若い子とデートしたんでね。気に入られちゃって、「わたしのこと描いてください」なんて言われたりして。
 ……そう。
佳純 そう。
 あの子、いい子そうだったもんね。
佳純 かわいいし。
 うん。
佳純 そっちは、どうだったんだよ。
 わたしは、まぁまぁ楽しかったかな。
佳純 そうなんだ……。そうだろうな。おれなんかもう用なしだろ。
 怒った?
佳純 別に。おれには七穂ちゃんがいるから。
 怒らないの?
佳純 どうしておれが。トイレも出たし、すっきりでハッピーだよ。
 よっしー。
佳純 何。
 帰り、どうしようか。
佳純 どうしようって、何が。
 新幹線。
佳純 新幹線が何。
 (言い出しかねて)切符交換して、一緒に帰ろうって誘われた。
佳純 へぇ。
 うん。
佳純 (強がって)あ、そう。ま、そうだよな。あんな……、いや、何でもない。
 ……。
佳純 で、どうするつもりなんだ。
 どうしたらいい?
佳純 知るかよ。一緒に帰ればいいだろ。
 そうしてほしい?
佳純 好きにすればいいだろ。そうしたきゃ、そうしろよ。
 そうね。
佳純 (引っ込みがつかなくなって)おれもちょうどそれ言おうとしてたんだ。
 え?
佳純 おれも彼女に帰りも一緒にどうかって誘おうとしてたところ。
 ……そうなの。
佳純 切符交換してくれればこっちとしても都合がいい。
 いいの?
佳純 あぁ。
 でも、まだOKもらったわけじゃないんでしょ?
佳純 するに決まってるだろ。おれたちはすごく気が合うんだよ。
 そう。じゃあ、いいのね(と念を押す)。
佳純 あぁ。
 ……分かった。
佳純 切符、あとで渡すから。車返したら。
 ……うん。

怜、晴れない表情で下手へ退場。
佳純、去っていく怜を振り返る。しかし、追いかけはしない。

▼第五場E

先ほど炯介と怜が別れた、木立の向こうに浅間山が見える場所。炯介が一人で思い悩んでいると、電話が鳴る。炯介、番号表示を見て慌てる。

炯介 (かしこまって)はい、もしもし、馬場です。はい、馬場炯介です。お世話になっております。はい。はい。……はい。……え? はい。それで、わたしを? 学芸員として? 採用? 本当ですか! あ、あの、ありがとうございます! 何と言ったらいいか。……さっそく来週からですか? いえ、何も問題ございません。何をおいても駆けつけます。今日からでも大丈夫です。今ちょっと旅先ですが、一時間半もあれば伺えます。……え? 来週からでいい? 分かりました。はい。不肖馬場炯介、命燃やし尽くす覚悟で頑張らせていただきます! ……え、そんなに頑張らなくてもいい? ほどほど? はい。では、ほどほどということで。はい。よろしくお願いいたします! 失礼いたします!

炯介、電話を切り、有頂天になって飛び上がる。

炯介 やった! やったやったやったやったやった! もう誰にも失業者なんて言わせないぞ。ぼくは、学芸員になったんだ。それも、東京都現代美術館! 第一志望だったところ! はっ! はっ!

下手より七穂。佳純が遅いので様子を見に来たのだ。七穂は炯介の喜びようを見て、怪訝な顔をする。

七穂 あんた、大丈夫?
炯介 (喧嘩していたことなどすっかり忘れて)ちょっと聞いてよ!
七穂 何?
炯介 現代美術館が採用してくれるって! おれを! 採用!
七穂 え? え!
炯介 最初に採ったやつが一週間で辞めちゃったんだって。やっぱりおれの呪いが効いたんだな。(呪いを再現して)パワハラでやめろ、ミスしろ、クビになれって。
七穂 一番行きたかったところじゃん。
炯介 そうだよ! 来週から来てくれって。これでおれも学芸員だ。社会人一年生。
七穂 信じらんない。
炯介 呪いってマジ効くんだな。悪魔に感謝しなきゃ。
七穂 ……やったね。やった。やったじゃん(遅蒔きながら喜びが沸いてくる)。
炯介 そうだよ!
七穂 炯介!
炯介 七穂!

炯介と七穂、駆け寄って抱き合う。すぐに喧嘩していたことを思い出して、あっと体を離す。それから、やはり喜びを分かち合いたい気持ちが勝って、再び抱き合う。
上手より怜が現れる。炯介と七穂がしっかりと抱き合っているところを目撃して、言葉を失う。

炯介 (気づいて)あ、怜さん!

炯介、七穂を待たせて怜に駆け寄る。

炯介 聞いてください。ぼく、就職が決まったんですよ!
 え?
炯介 前に面接で落ちたところが、改めて採用したいって。ぼく、学芸員になるんです!
 あの、おめでとう……。
炯介 怜さんの言った通りですね。何が起こるか分からないって。
 彼女とも、仲直りしたんだ。
炯介 あの……(七穂とちらりと目を合わせて)、えぇ。(申し訳なさそうに)ぼく、自分の気持ちがよく分かってなかったみたいで。だから、さっきの話は……。
 分かってる。冗談だったことにしとく。
炯介 すいません。今日は楽しかったです。色々ありがとうございました。

炯介は七穂のもとへ戻り、二人で突然開けた明るい未来について語り合う。
上手から佳純が来て、怜の隣に立つ。佳純もまた、状況を見て困惑する。

佳純 ……(怜に)どうなってるんだ?
 (怜はただ黙って首を振る)
佳純 (現実を見たくなくて)別れを惜しんでるんだな。おれと七穂ちゃんが一緒に帰るからって。そうだ。切符、今のうちに交換しておこうか。
 その話はもういいの。
佳純 どうして? せっかくみんないるし――。
 見ての通りよ。
佳純 別れを惜しんでるんだろ。これが最後の別れになるんだから。このまま喧嘩別れで……。

炯介と七穂、抱き合って熱いキスをかわす。佳純は見間違いではないかと目を擦る。

佳純 ここは、幻覚を見る森的なやつか?
 そうじゃないと思う。
佳純 おれと七穂ちゃんがああなるはずだったんだ。違うのか?(怜に)どうなってるんだ。
 何が起こるか、分からない……。

七穂が佳純に気づいて、申し訳なさそうな顔で来る。

七穂 住吉さん。
佳純 (まだ少しの期待を込めて)七穂ちゃん。
七穂 お腹、大丈夫ですか?
佳純 もう平気。全部、きれいさっぱり出したから、男らしく。さっきの続き、いつでもいけるよ。かなりいいところまでいってたよね。あとほんの三十秒くれれば、きみを腰砕けにしてみせる。
七穂 ごめんなさい。
佳純 五秒でもいい。
七穂 わたし、彼と仲直りしたんです。
佳純 仲直り?
七穂 (うなずく)
佳純 おれが、トイレに行ってる間に? 下痢ピーで苦しんでいるときに?
七穂 あの、そんなつもりじゃなかったんですけど……。
佳純 おれがトイレに行ってる間は、時が止まるんだ。だから、仲直りなんてできるはずがない。
七穂 どうしたらいいか、自分に訊いてみたんです。
佳純 どうしたらいいかはおれが教えるよ。知ってるんだ、どうすればいいかは。
七穂 わたし、やっぱり彼のことが好きみたい。
佳純 七穂ちゃんは……(二の句が継げない)。
七穂 ごめんなさい。
佳純 そうなの?
七穂 (うなずいて)だから……。(と言い淀む。それから怜に)あの、一瞬だけ、許してください。
 え?

七穂、佳純にすっと近寄って頬にキスをする。
佳純、驚いて目を丸くする。怜と炯介もそれぞれ驚く。

七穂 わたしたちには軽井沢の思い出があるってことで。カノジョさん、幸せにしてあげてください。(怜に)ごめんなさい。
 (何とも答えようがない)
七穂 あの、じゃあここで。さようなら。
 あ。
七穂 え?
 車のキーだけ。
七穂 あ、そうですね。

怜、ポケットから車のキーを出し、七穂に渡す。
七穂、頭を下げて炯介のもとへ戻る。炯介は何か文句を言おうとする。

七穂 (手を上げてそれを制して)何も言わないで。

炯介は不服そうに佳純を睨む。

七穂 ほら、行こ。

七穂は手を差し出す。炯介はその手を取る。二人は下手に退場。
佳純と怜、それぞれフラれたような惨めな気持ちで取り残される。

佳純 (キスされた頬に手を当てて、言い訳するように)かわいいもんだよな。
 怒ってないから。
佳純 でも、どうして……(まだ展開についていけず)。
 就職が決まったんだって。
佳純 あいつが? ……それだけ?
 そうみたい。
佳純 あ、そう。内定ゲットしたんだ。……めでたい話があるのは、いいことだな。……そうなんだ。……あ、そう。

佳純も怜も、しばし途方に暮れる。

 どうしようか。
佳純 土産、買うんじゃなかったっけ。
 そうだ、今何時?
佳純 (時計を見て)四時十五分。車返して、買い物して。新幹線の時間にはちょうどいいかな。
 だね。行こっか。
佳純 あぁ。

そのとき、佳純の携帯が鳴る。

佳純 (着信を見て)担当さんだ。ちょっとごめん(怜に断って電話に出る)。はい、住吉です。ども、おつかれさまです。どうかしましたか? 大丈夫ですよ。まさか、また直しじゃないでしょうね?(軽口を言って笑う) え? それならいいですけど。なんですか、もったいぶって。……はぁはぁ。……はぁ。……はぁ(相手の話を聞いているうちに次第に表情が曇る)。……どういうことですか? え? いやいやいや、そんなの今更無理ですよ。だって、半年以上もかかってる仕事じゃないですか。

怜も次第に心配になってきて、成り行きを見守る。

佳純 だから、そちらの意向に沿って何回も描き直したんじゃないですか。(次第に声を荒げる)途中で体壊して入院までしてるんですよ。ギャラは三分の一もらえるって、約束してただけいただかないと困りますよ。こっちだってそのつもりで他の仕事セーブしてやってるんですから。編集長が代わったって、そんなこと言われても納得できませんよ。それはそちらの事情じゃないですか。……ぼくが悪いわけじゃないなんて、そんなの分かってます。もう九割九分終わってるんですよ? 今更それはないでしょう。(はっと気づいて)もしかして、シリーズの続きも? ダメってこと? ……なかったことに。(だんだんすがるような調子になってくる)どうして急にこんな……、どうにかならないんですか? いくらなんでもひどすぎるでしょ。ぼくの絵は一枚も使われないんですか? ただの一枚も? あんなに描いたのに?

傍らで聞いている怜も居たたまれない気持ちになる。

佳純 ……(がっくりと落ち込んで)そうですか。……また何か機会があったら。……えぇ、えぇ、はい。……いえ、いいです。大丈夫ですから。……はい。……どうも(力なく電話を切る)
 よっしー。
佳純 ……。
 ……。
佳純 あの本、絵はやめて全部写真にするって。新しい編集長の鶴の一声でそう決まったんだと。どうせ、使いたいカメラマンでもいるんだろ、若い女の。
 そんな……。ひどい。
佳純 もう決定。おれは約束の三分の一のギャラもらってお払い箱。シリーズの続きの話もなし。
 そんなの、ひどすぎるよ。
佳純 もちろんひどいさ。どうせこうなるって分かってたんだ。苦労だけして何にもなし。いつもそうだ。……ギャラ、三分の一か。何にもないよりましだな。……(少しの間無言になって、そして突然)やめた! 今度こそホントにやめる。三分の一は退職金。
 よっしー。
佳純 今度こそ絶対にやめる。やめやめやめ、もうやめ! やめた!
 ダメよ。やめてどうするの。
佳純 他の仕事探す。ちゃんと働いた分だけ金になる仕事。棚の組み立てでもいい。やった分だけお金になるし、作った棚はちゃんと使われるし。その方がずっといい。
 また好きな絵を描けばいいじゃない。よっしーの本当に描きたい絵。たくさん描いて、それで個展やろうよ。ずっとやりたかったんでしょ。
佳純 売れないよ、そんなことやっても。
 絵を見て、気に入った人が声かけてくれるかもしれないし。
佳純 そんな――。それにすぐ描けるわけじゃないし。その間、収入とかどうするんだよ。
 わたしが何とかする。
佳純 何とかって。
 働くし、一緒に頑張ろうよ。
佳純 きみのお父さんが喜ばないだろうな。
 そんなの関係ない。続けてれば、きっとそのうちいいこともあるから。
佳純 散々こんな目に遭ったあとで?
 お願いだから、やめるなんて言わないで。
佳純 (少し折れて、しかし気力のない声で)……好きな絵っていったって、何を描いたらいいんだか。
 ゆっくり探せばいいじゃない。
佳純 しばらく何もしたくない。
 ちょっと休めばいいよ。この旅行にだって気分転換で来たんでしょ?
佳純 そうだった。……なんてひどい旅なんだ。
 (思わず笑って)でも、みんな、いい思い出になるよ。
佳純 今日のことが?
 きっとそのうち。そしたら、絵にしたっていいし。
佳純 あぁ。そうだな。

怜、佳純の身体に手を回して、二人で下手に向かう。

佳純 いいところで下痢したんだ、あのソフトクリームのせいで。帰る前にあいつに文句言ってやりたいよ。山内くんに。
 そうね。……いいところって?
佳純 それは……。何でもない、もう終わったこと。あいつ、用賀に住んでるんだって。
 誰が?
佳純 山内くん。
 すぐ近くじゃない。
佳純 うん。あいつが東京に戻ってきたら文句を言いに行こう。 
 そうだね。

二人、話しながら下手に退場する。

▼六場

その日の夜七時半頃の東京駅。人が行き交う足音と発着電車のアナウンス。
舞台中央を線路が横切っており、手前のホームの上手側にスーツケースや鞄、紙袋を持った炯介と七穂がいる。やがて、奥のホームの下手側にやはり荷物を持った佳純と怜が現れる。

七穂 (佳純と怜に気がついて)あ、あの二人。おーい!

七穂と炯介、手を振る。
佳純と七穂も気づいて手を振り返す。少し元気がないが、炯介と七穂はそこまで気がつかない。お互いに声は届かない距離。

七穂 あの二人、お似合いだよね。
炯介 そうか?
七穂 長く付き合ってるみたいだけど、なんか仲良いし。
炯介 まぁ。でも、三十過ぎてあんなふらふらしている人見ると、ちょっと気が楽になるよな。名前、なんだっけ。
七穂 住吉さん。すみよし、よしずみ。
炯介 あとで検索してみるか。ネットで絵が見つかるかも。それより、何かうまいもん食べて帰ろうか。就職祝い。昨日のこともあるし。
七穂 今度こそ食べないとね。何にする?
炯介 中華?
七穂 うーん、わたしお肉が食べたい気分。
炯介 オッケー。

炯介たちの乗る電車が来るアナウンスが入る。

炯介 お、来た。

炯介と七穂、改めて佳純と怜に手を振る。佳純と怜も再び手を振り返す。電車がホームに入る。

炯介 あそこ、座れそう。

炯介と怜、荷物を持っていそいそと上手に退場。まもなく扉が閉まり、電車は発車する。
奥のホームでは佳純と怜が電車を待っている。

 あの二人、うまくいくといいね。
佳純 正直言うと、遠からず別れる気がするけど。
 (考えて)わたしも、ホントはちょっとそんな気がする。若い子の言うことなんて当てにならないね。
佳純 まぁね。
 でも、若いっていいよね。
佳純 (頷いて)年を感じますね。
怜 そういえば、あの子もポール・マッカートニー好きなんだって。
佳純 あいつが? へぇ。いいところもあるんだな。
 また会えるといいね。
佳純 いいさ、どっちでも。
 そう?
佳純 まぁ、そのうち。

電車が到着するアナウンスが入る。佳純と怜、下手に退場する形で電車に乗り込む。まもなく扉が閉まり、電車は発車する。
電車が遠のいていく音が、空の舞台に聞こえる。



― 幕 ―


いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。