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「自分らしさ」は探さない。

「自分らしく生きる」

周囲の目やしがらみから「自由」になるための価値観として讃えられることの多いこの言葉は一方で、承認欲求を際限なく求めてしまう「罠」にもなる。

摂食障害の当事者の調査・研究を続けてきた文化人類学者の磯野真穂さんは、自著でそう指摘します。

「『自分らしさって何だろう』と自分に注目することは、『他者』に注目することでもあるから」

どういうことなのか、話を聞きました。

「自分探し」は、かたちを変えた承認欲求

――いつから「自分らしさ」に目が向くようになったのですか?

磯野:アメリカでの留学を終えて日本に帰国した2003年ごろです。個人的な実感ではあるのですが、それまでの「語り」の風景が変わった、と気づきました。

それまでのヒット曲は誰かへの募る思いを込めたラブソングばかりだったのに、「あなたはあなたでいいんだよ」「ありのままで」「夢を追いかける」というメッセージがあちこちで流れてました。

これは、かたちを変えた「承認欲求」だと感じました。

私が漠然と感じたことに繋がる話を、詳細に理論化しているのが、米国の医療社会学者で、患者の語り(ナラティブ)を研究してきたアーサー・フランクです。彼は、1995年に出版した「傷ついた物語の語り手」(訳・鈴木智之)の中で、社会での「自己物語の増殖」について指摘しています。

つまり、「私は誰なのか」を探し求める語りの増殖です。

フランクの時代からすでに20年以上、私が帰国してから17年が経過した今、そうした「自分語り」は、ブログやSNSなど、テクノロジーの普及で、さらに増えたと言っていいでしょう。

新聞社やテレビ局が独占的に持っていた「発信」という特権が、社会に解放され、普通の人たちがいくらでも「自分」を発信できるようになった。

さまざまな「自分語り」が生まれてくるなかで、「自分のものを読んでほしい」「どう読んでもらうか」という発想は、どうしたって生まれてきます。

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――「ありのままでいい」というのは、本人そのままを受容する言葉ですよね。

磯野:そう、とても素敵な言葉だし、本当にそうなったらいいなと思うんですけど。

けれど一方で、「わたしって何だろう」「自分らしさって何だろう」と自分にすごく注目することは、「わたし」を見つめることではなく、実は「他者」に注目することなんですよね。

「自分らしさ」が何かを知るためには、参照点として「他者」を置かないと、比較ができないんですよ。

人は生きていくうえで「誰かに認めてもらいたい」という承認欲求が必要ですし、それを求めるのは自然なことです。その一方で、「自分が周りにどう思われているかを意識するのはよくない」「周りに合わせるのはかっこわるい」というブレーキも働く。

なので、普段は「承認」なんて必要ないという素振りを見せながら、一方でそれを満たす、矛盾した振る舞いをせざるを得ないのが現実です。

現代社会の「当たり前」の一つは、「あなたらしさ」の賞賛です。しかしこの「あなたらしさ」には罠があり、それは「あなたらしさ」を謳歌するためには、その「あなたらしさ」を他者に承認してもらわねばならないという陥穽です。この罠に陥ると、「あなたらしさ」は、不特定多数の他者を強烈に意識した「〈他者の視線に満たされた〉あなたらしさ」にすり替わります。
『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)より引用

間違えると、「自分」が消費社会の「商品」になる

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磯野:「自分らしさ」の罠を考える上で分かりやすい例が、「就活」の自己PRです。

自分を短い時間・スペースでどうPRすべきかを考えると、同世代の競争相手と自分を比べ、どこか抜きん出たところをフックのある一言でまとめたキャッチフレーズを考えざるを得なくなる。

言い換えると、自分にラベルや名札をつけ、それを他者から「価値あるもの」として認めてもらうための努力です。

だから自分探しは、「他人より自分が優れているところは?」という思考回路を導きやすい。「自分」を見ていたはずが、「他者」と比べて、頭一つ抜け出すところに「自分」を見いだしやすくなる。

でもそれは、自分の「商品化」につながると思いませんか?

「自分」の使い方を間違えると、消費社会に「自分」を「商品」として無造作に投げ込むことになってしまう。そういう落とし穴が見過ごされたまま、「自分らしさ」がやたら謳歌、称賛されているのは、見ていて危ういなと思うことがあります。

「逸脱しない私」を求め身体をイジる

――摂食障害の当事者のインタビューや調査を続けてこられました。

磯野:インタビューをまとめた本(『なぜふつうに食べられないのかー拒食と過食の文化人類学』)を書いた時には、「やせたい」という気持ちから人は逃げられるのではないかと漠然と思っていました。

でも、どんな社会にもある種の「理想体形」があって、それを参照点に人が動くのは、わたしたちが身体を持って、コミュニティで生きている限り、逃れられない運命なのだと考えるようになりました。

自己管理が称賛され肥満が治療の対象とされる社会で、痩せている体が理想なのはある意味仕方のないことではあります。でもマーケットが過剰にあおっている側面もあるということは、ある程度知っておいた方がいい。

ちょうど今日、大学で講義をしたんですが、受講していた学生からこんな話を聞きました。

SNSのストーリーに脱毛の広告がやたらと流れてくる。「元カノはすべすべだったんだけど」「20代女子からの予約殺到中」といった内容だ、と。それを聞いた学生の一人が「脱毛していない私は汚いんだろうかと思う」と話していたのが印象的でした。

この場合、「承認」を受けたいというより、「普通」から外れないように、と考えている節がある。

売る側としては、脱毛・美白・アンチエイジングをしてほしい。だから「何かが欠けていませんか」とメッセージを流します。周りも脱毛した、なんて話が実際出てきたら、受け手は「自分は平均より下なんじゃないか」「普通から外れているんじゃないか」と感じるんだと思います。

劣等感・逸脱感が作り出され、「逸脱しない自分」になるための「コンプレックス商材」が売られている。SNSなど個人にカスタマイズされたテクノロジーが発信する広告などの呼び声に無批判に取り込まれてしまうと、自分は何がしたくて、何がしたくないのかを見極めることが難しくなってします。

恥じらいや性的な興奮は、自分の意思とは関係なく生まれてくるどうにもあらがえないもののように思えます。ですが、そんな気持ちの中にすら、それぞれの文化が持つ価値観が滑り込むのです。(中略)気持ちを自分だけのものだと思いすぎると、私たちをとりまく世界が、私たちの気持ちを作っているという事実に気づきにくくなり、逃げるという選択肢がみえにくくなります。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)

数字はときに、世界の彩りを消し去る

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――摂食障害の人は、自身の体重や体脂肪、カロリーや炭水化物の量など、「数字」にとてもこだわりますね。

磯野:私も摂食障害の当事者にインタビューしているときに「数字にとらわれているな」と感じました。そういう面は確かにあると思います。

ただ、それまで摂食障害の当事者がカロリーや体重など数字にこだわりをもつのは、よく見られる「症状」だと認識されるにとどまり、数字へのこだわり自体が分析対象にはなっていなかった。数字そのものが、いったいどういう意味を持ち、何を引き起こすのかーー摂食障害研究では、この視点が見過ごされていたと言っていいと思います。

この間、『ダイエット幻想』を読んでくれたという高校生がTwitterで「7200kcalのカロリー貯金をしたい」とつぶやいていました。

食べ物を、「数字」に変換し、収支を計算する。こういう考え方が今の社会で一般的なのは、疫学データで集団の健康を分析する「予防医学」が普及し、健康も「自己管理」できる、という考えの影響が大きいと思います。

「○○を食べている人は病気になりやすい・なりにくい」「肥満の人は様々な病気になりやすい」といった情報が広まると、食べ物・食べ方そのものが健康に「いい」「悪い」と価値づけされるようになり、人々の価値観として内面化されていく。

お茶を飲むときですら「これはゼロカロリーだから”よい”飲み物だ。しかもジンジャーが入っているらしいので、これは身体にいい」とか「このオレンジジュースは、角砂糖いくつ分だから飲むと体に悪い」とか、ある種、アタマで食べ物をとらえてしまうようになる。

生きるために不可欠な営みであるはずの「食べる」という行為が、「栄養素」などの一元的な情報として扱われるようになる。場合によっては罪悪感のもとになり、その罪悪感に応えるかのように、「ギルトフリー食品」と呼ばれる、太らないおやつまで登場してくる。

数字と付き合わずに生きていくのは非現実的ですが、数字そのものが持つ力に自覚的であるということは、言い過ぎても言い足りないことはないと思います。

数字を用いた管理の視点が人々の生活に入り込むと、そこでは何が起こるのでしょう。(中略)数字の管理下に置かれたモノ/者たちは、それらがもともと埋め込まれていた文脈、すなわち具体的な世界から切り離されてしまいます。するとその影響を受けた人々の生活スタイルや考え方までもが変化することがあるのです。これが数字の持つ脱文脈化の力、言い換えると、世界の彩りを消し去る力です。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)

自分の身体が他者の声で満たされないために

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磯野:文化人類学を専門とする私は心を「現れ」ととらえています。世界との接地面に「心」が現れてくる、と見る。

摂食障害の話を聞くと、過去の苦しさと未来の不安が団子状になって覆いかぶさっている感じがする。その未来と過去の断片で押しつぶされて「今」に接地できていない感じがある。

だから「いかに接触するか」「いかに世界とかかわるか」だと思います。

人は生活上、「母」「教員」「学生」といった、いろんな「役割」をもっていて、その役割に応じたつながり方や生き方をしています。これを「タグ(札)付けする関係」と呼びます。

社会を営む上で、こうした「タグ付け」の関係は必要です。ただ、人間関係が「タグ付け」の関係だけで満たされてしまうと、自分自身まで「タグ」で価値づけ、「こういう“教員”であるべきだ」など決め打ちされた役割に縛られかねない。タグの価値だけでつながった人間関係は、そのタグの価値が下がれば終わりです。

では、私たちの存在を「軌跡」(ライン)でとらえるとどうでしょう?

ここでいう「ライン」とは、イギリスの文化人類学者、ティム・インゴルドが、著書「ラインズ 線の文化史」で描き出した概念です。それを人間関係に置き換えて、私たちの人生は、これまでの経験や出会ってきた人々でかたちづくられているととらえ直せば、たどってきた道は、人それぞれに当然異なり、その軌跡こそが「自分らしさ」だと考えられるのではないでしょうか。

自分が他者に呼びかけられることで始まるという事実を認めつつ、でも自分の身体が他者の声で満たされないようにするには一体どうしたらいいでしょうか。あなたが描いてきたライン、そしてこれから描かれるであろうラインの行方を、ワクワクしながら面白がり、そしてあなたとともにラインを描いていこうとしてくれる他者に出会うこと。言い換えると、タグ付けする関係でなく、「踏み跡を刻む関係」を作り上げてくれる他者に出会い続けていくことです。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)


「当たり前」をずらして見える世界

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高校時代空手をやっていたのですが、怪我のせいでパフォーマンスを十分に発揮できない選手をみてきました。それがきっかけで、大学では運動生理学を専攻しました。

けれど、アメリカの大学に留学中、文化人類学と出会いました。「こんな学問があるのか」と衝撃を受けたんです。人間の体を細胞レベルまでミクロでみていく生理学から、人のありふれた暮らしのあり方、ささやかな考え方を通して人間をを見つめる文化人類学に、思い切って専攻を変えました。

文化人類学は、些細な日常から研究のかたちを積み上げていきます。例えば、かごの編み方や猟の仕方、ものの運び方など、具体的な生活をベースに抽象度の高い理論を生み出していく。

「いい」「悪い」をいったん保留し、些細なことも丁寧にみていくと、事象の「相対化」がおのずと始まります。はたから見たらおかしくて遅れているように見える風習や生き方が、その地域で生きていくために大事なことだってある。

一つの価値観で良し悪しを判断せず、「『当たり前』をずらす」という視点で、世の中の当たり前を「なぜ?」と考えてみる。

すると、わたしたちの世界の住みよさもみえてきます。

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磯野真穂(いその・まほ)
国際医療福祉大学大学院准教授。文化人類学者。1976年長野生まれ。摂食障害の当事者の調査研究を続けている。主な著書に『なぜふつうに食べられないのか―拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、哲学者・宮野真生子さんとの往復書簡をまとめた『急に具合が悪くなる』(晶文社)など。食べることや身体、取り巻く社会を考えるワークショップ「からだのシューレ」主宰。

インタビュー動画はこちらから

取材・文:水野梓 写真:西田香織 動画:神山かおり 編集:錦光山雅子

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Torus(トーラス)は、AIのスタートアップ、株式会社ABEJAのメディアです。テクノロジーに深くかかわりながら「人らしさとは何か」という問いを立て、さまざまな「物語」を紡いでいきます。
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