見出し画像

僕の専門性/技術/武器は「人生の美しさや味わいを知っている」で良い。

「人生を肯定したい。人生は生きるに値する。それを信じ切ってみたい」

それがつまり、武者小路実篤という作家の主義だと思っています。
学生の頃くり返し読みました。最近また手に取ってその世界に浸っています。

生きていくためには専門性や技術が必要だと言われ、僕のそれは何だろうと考えます。
「人生の美しさや味わいを知っている」
僕はそれで良いと思っているのです。

学生時代も思っていたことです。
同じことを今も思う。それは僕が成長していないのかもしれないし、
あるいはあの頃からすでに、長く追うに値する真実を見ていたのかもしれません。


専門性や技術や武器と呼ばれるもの

この時代を生きるにはそれらが必要だと言われます。個々人の力。
その中身は、マーケティングや教育や営業や動画制作など。

変化の時代に耐え、生き延びられる自分であるために、収入を得る手段を築いておく。
一朝一夕とはいかないから、長い時間をかたむけて自分の中に培って「そういう自分」になっていく。
マーケティングや教育の観点で世界を眺める自分になっていく。

じゃあ僕は何に時間を注ごうか?
その先にどんな自分が待っているだろうか?

人生は美しく、尽きぬ妙味や味わいや、その時々の楽しみがある。
人生には色々と起こるけれど、やっぱり生きるに値する。

そう知っていて、感じている。それを続けていけたら良い。そんな自分が良いと思ったのです。
「専門性」と言うのなら、僕はそれで良い。それが良い。


その先に空しさではなく精神の成長があるように。

生きるには多少のお金が必要で、それは働くことが必要で、「これができます」が必要になる。
それが専門性や技術ですが、ただ「技術」で終わるなら空しさも感じます。

自分のこの人生の、長い時間を注ぐのだから。

くり返し読んだ別の文筆家、池田晶子が「精神の成長がないなら何のためか」と言っています。
世の中はどんどん便利になるけれど、そこに精神の成長がないなら仕方がない。

自分の、そして人類の精神の成長。

買いたいものは買い、食べたいものを食べ、届けてもらうことすらできて、個人が自由でいられる世の中です。
幸せとは「やりたいことをやる」ので良いのでしょうか。個々人の欲望を実現し解放する方向は、人間を欲望のままに生かす道かもしれない。

欲望のままに生きるので良いのだろうか。それを幸せとして良いのだろうか。
ヒマつぶしは増えたけれど人生がそれで過ぎ去っては仕方ない気がします。

ただ自分を満たす以上のことがあるのではないか。欲望を満たすばかりでは空しくはないか。そんなことの中毒になってはいないか。

スキルをのばすのも、投資でお金をふやすのも、SNSの収益化を目指すのも、
なんだかそういう方向へばかり誘われている気がしています。

でも自分のこの人生の、長い時間を注ぐのだから。
「精神の成長」があって「生きるに値する」と言い切れる人生をおくることに、僕は時間をかたむけたいと思います。


「自分の形を」の罠

仕事のスキルをのばし、投資でお金をふやし、SNSを収益化して「自分の形」を作る。
その良さもきっとありますが、苦しさをふやす気もします。

有名スポーツ選手やインフルエンサー、たとえば彼らを見て「良いな」と思い「でも自分には才能も努力もないから」と思い「自分も形を作りたい」と焦る。
自分の形を作らないと幸せになれない。自分の形を作ることが幸せの条件である。
そうやって勝手にハードルを上げている気がします。

僕はそういう罠に陥りがち。揺れて不安になりやすい。
でも武者小路実篤を読んで、やっぱりこうだよなって感じる。同じことを言う自分に気づく。

その「同じ発想ができる」で十分じゃないか、とも思います。
同じ発想の回路が僕にもある。武者小路実篤も、池田晶子も、クルミドコーヒー影山さんも。

自分オリジナルでなくて良いと、そう思ってみたら。
武者小路実篤が言ったようなことを、彼のように語ってみて、しっくりくるかどうかを見る。それで良いのかもしれません。
その先に「僕としてはこうしたい」が出てくるのかもしれません。

「自分の形を」と思うと「今すぐ」ほしくなって焦るけれど、それが50歳くらいでも良い。稲垣えみ子さんはそのくらいで今の形ができ始めた。
50歳の時点で武者小路実篤のように語れる僕であれば良い。

もっと言えばきっと、
「完成したい」と思っていつも未完成でいるので良い。
未完成なことで人と対等であり、完成をめざして生きてきた深みがそこにあるでしょうから。

提案めいたことを言えば、本当に必要なのは欲を叶えることよりも、気軽に相談できることだと思います。
自分の中の確かなところに立ち戻り、確信を深め、試したいことが生まれ、その感想を話し、また立ち戻るくり返し。その気軽な相談の中でこそ人生観を鍛えられる。
だから僕は「生き方ブレスト」をやっています。


開き直って自分の世界を濃くするので良い。

僕は結局この僕でしかなくて、こう生きる以上、この嬉しいも悲しいも当然この僕に起こる。

開き直って自分の世界を濃くしていくのです。
日々や世界の中の美しさに目を向ける。それを日記にしたためる。美しさを見る自分の目を好きだと思う。

「人生を肯定したい。人生は生きるに値する。それを信じ切ってみたい」
信じ切りたい自分だから、それを揺らがして鍛える出来事も起こるでしょう。
信じ切りたい自分だから、その揺れすら望んだことと言えるのでしょう。

日々の中で時間を注いで「人生の美しさや味わいを知っている」僕になっていく。
日々を通してそうなるのだから僕にとってそれは現実。夢物語でなく現実的な理想なのです。あるいは理想的な現実か。

その僕が願う「こうしたい」は、僕が作りたい世界へのお誘い。

僕が知るかぎり良い人ばかり。みんな善意で動いている。
なのに世界が完璧じゃないのはその善意ゆえかもしれません。
みんな善意だからどの思いにも一理ある。みんな善意だからぶつかるのはもったいない。

同じ日本語だからこそ「届きやすい伝え方への翻訳」が必要で、善意と真意が届くようにしたい。
コミュニケーションを柔らかくすることは僕が嘘なく思う「こうしたい」です。

何とでも言える世界で、何が本当か分からない。なら明るい方を想像して、世界を好きでいつづけたい。

僕はこの僕を生きるしかなくて、僕の世界を濃くしていくので良いのです。
分かられないなら仕方がない。人が分かるか分からないか・人気やお金に繋がるかは僕の道を変えない。関係がない。

そのことに惑わず迷わずいたい。神社でお参りするなら「揺れない自分でいられて、揺れても戻ってこられるように」と、そう誓って祈るだけ。

僕はこうですと静かに立つことに説得も証明もいらなくて、僕の世界の真実味と一貫性があれば良い。

「人生は美しくて、やっぱり生きるに値する」と
今日も明日も最期の時も、言える自分であれたら良いのです。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?