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といふことで今度は史料精読編。宇都宮勤と宇都宮牧場と上野幌を軸にして「マイナーな地名スレ」から紐解く幾つかのよしなしごと。

ってことで、ネットを駆使した部分から、今度は過去史料を
紐解くモードになるのかなと。

ここはまあネット情報をベースに山田航の最近の連載を
かすめてみよう。なぜこの銅像が札幌の歴史で重要なのか、
あまり繋げて調べられてはいないこと。まあ詳しくパソコン
の過去データで調べるのは後にして。|torov|note

 銅像に関連して、主に上野幌の話してたところの続きを
今度は過去スレのレストアって形で並べてみようかと。

「マイナーな地名スレ」で上野幌の話になったのは、12スレ
こと「【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌
【その十弐】 」の頃に集中していたかと。

その中で取り出しておくべき情報としてはまず宇都宮勤に関して
としますか。宇都宮勤が宇都宮仙太郎翁の長男だったことは
ここで判明していると。

83 名前: 元東月寒人@琴似 投稿日: 2004/01/07(水) 21:38:14
ID:crVU3WcM
「白石区歴しるべ」を見ましたが、宇納牧場と宇都宮牧場は
微妙に異なってました。
(中略)
宇納牧場  大正13年、上野幌に開設(宇都宮仙太郎と出納陽一)
宇都宮牧場 明治24年、北1西15に開設(宇都宮仙太郎)
      明治35年、菊水に移転(宇都宮仙太郎)
      昭和2年、上野幌に移転(宇都宮仙太郎の長男、勤)

このページは面白かったですが、PDFなのがつらい。
うちの環境では、時間かかるし表示が悪く読むのが疲れるので、
全部見るのはやめました。
吉田用水と吉田川が異なるというのが確認できたのは収穫でしたが。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】

 で、改めて目を通した中では北1西1にあった「王子サーモン」
の建物自体が昭和24年に「北海道ホルスタイン会館」として
建設されたものだった、って記述のあるあたりでしょうか。

96 名前: 元東月寒人@琴似 投稿日: 2004/01/09(金) 23:23:51
ID:xxNee/M2
宇都宮勧についての話を見つけました。
「さっぽろ再生建物案内」によると、北1西1にある「王子サーモン」
(三角屋根でレンガと札幌軟石の建物)は、昭和24年に「北海道
ホルスタイン会館」として建設。

上棟式の日に屋根に昇り、「野幌(旧称で言うところの野津幌。
現在の上野幌)の私の牛舎が見える」と叫んだと伝えられる
とのことです。
(宇都宮勧は当時、北海道ホルスタイン種生産農業組合長)
98 名前: 牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942
投稿日: 2004/01/10(土) 00:13:50 ID:WoXTMjKM
>>96
「札幌の建築探訪」(監修 角幸博 北海道近代建築研究会編
北海道新聞社)に「王子製紙㈱所有建物」として載っています。

この建物は街中にありますのでご存知の方も多いでしょう。
1980年代まではサイロもあったとのことです。
知らなかった。
あったか、そんなもん?
ちなみに玄関は札幌軟石の「ルスティカ積み」で、本体はレンガ
造りです。
※ 「ルスティカ積み」 
石の表面を粗く仕上げた石積みの方法(だそうです)

136 名前: 元東月寒人@琴似 投稿日: 2004/01/16(金) 20:47:43
ID:3NKLtAno
「王子サーモン」を紹介している「さっぽろ再生建物案内」には、
ホルスタイン農協の昭和25年新年号と思われる会報表紙があり、
「新設成れる北海道ホルスタイン會舘」のタイトルで建物の
写真が載ってます。
ホルスタイン農協の現在の話として、「酪農の基礎になる乳牛の
登録簿を保管していました。」とあり、設立当時は北海道ホルス
タイン会館として機能してたと思われます。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】



また宇都宮牧場の変遷は、北1条西15丁目→菊水→上野幌、
と移転した変遷、となるようで。

68 名前: 18丁目@本村 投稿日: 2004/01/03(土) 08:55:41
ID:M1xZWkLA
上白石村の宇都宮牧場が、大正7年定山渓鉄道開通により土地を
分断されたのをきっかけに、土地を売却して得た新たな土地が
上野幌です。

その後、大正12年の関東大震災により練乳が外国より大量に輸入
され始めた(輸入関税撤廃)。練乳会社が仕入れを控えたために、
生産者が困り果て、製酪販売組合を結成し、バターの自主生産を
始めた。これが後の雪印乳業の母体となっていった。

この酪農組合結成までの過程で、初期の先進的酪農を推し進め、
明治40年札幌酪農組合を結成したのが宇都宮牧場の宇都宮仙吉で、
大正14年に結成された北海道製酪販売組合でバターの製造をして
いたのが、後の雪印乳業社長となる佐藤貢であった。

70 名前: 元東月寒人@琴似 投稿日: 2004/01/04(日) 11:16:36
ID:ZM75BPCw
>>68
宇都宮牧場は雪印の前身でしたか。

佐藤貢氏の本人の話がさっぽろ文庫「明治の話」にあります。

3才の頃(明治34年頃か)近くの札幌病院のそばで宇都宮さんが
牛を飼っており、小学生頃(明治40年頃か)白石の宇都宮牧場を
訪ね、得意先を分けてもらい配っていたとのこと。

プロフィールには、宇都宮仙太郎・黒沢酉蔵の影響を受け酪農の
道を志しアメリカに留学、大正12年に帰道し自助園牧場を経営、
大正14年北海道製酪販売組合発足と同時に技師としてバター作り
に取り組む、雪印マークも発案とあります。

宇都宮牧場の変遷は、北1条西15丁目→菊水→上野幌ということですね。

札幌地名考で菊水上町に明治35年から昭和2年まで開業となってます。
しかし、菊水1条4丁目に宇都宮牧場跡という案内板があるようで
場所が一致してません。
明治35年この地に20ヘクタールの農場を開いたとなっている様ですが。
20ヘクタールじゃ菊水1条4丁目から菊水上町までは無理では。

72 名前: 18丁目@本村 投稿日: 2004/01/04(日) 16:42:20
ID:Z.yjj0rU
>>70
上白石村(現在の菊水1~3条3~5丁目付近)で間違いない
と思います。
白石区歴しるべ(白石区HP内)でも記述されています。
札幌地名考で菊水上町と書かれていたのであれば、やはりそれは
間違いでしょう。

札幌の酪農の歴史に思いを馳せるのが好きです。
酪農のパイオニアが、前田利嗣侯であれば、酪農中興の祖が、
この宇都宮仙太郎であったと。
真駒内牧場→米ウイスコンシン州立農事試験場→同州立短期大学
帰国後、雨龍蜂須賀農場(菊亭、三条、蜂須賀三家の共同経営、
支配人は町村金吾の父町村金彌)で牛担当係長となる。
その後は宇都宮牧場の変遷と重なりますので割愛します。
そしてこの宇都宮の後、酪農を大きく発展させたのは佐藤貢
(南の沢の自助園農場で既出ですね)の雪印でありますね。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】

札幌地名考の件の記述はp68に確かにあるが、うろな部分の走り
書きな部分が強くこれは誤りと観て然るべきかと。
 南の沢の自助園農場に関する記述もちゃんと補足がスレにある。

73 名前: なまら名無し 投稿日: 2004/01/05(月) 09:57:18
ID:oNBDUxck
南の沢自助園農場って何ですか。
77 名前: 元東月寒人@琴似 投稿日: 2004/01/05(月) 21:25:52
ID:EeqyOoeU
自助園農場は過去ログによると山鼻→八垂別(南沢)に移転
ですか。
自助園農場を雪印の前身と言っていいのかわかりませんが、
札幌区(北1西15)・山鼻・南沢・上白石(菊水)・上野幌は
関連しているというわけですね。

さっぽろ文庫「札幌事始」には、大正12年佐藤貢が「自助園
アイスクリーム」を今井百貨店に出し、今の雪印のものに発展。
また、極東練乳が五番館にアイスクリームを出し、今の明治
乳業のものに発展とあります。
「明治の話」の佐藤貢によると父の善七が自助園と名付けた
果樹園を始めたのが明治40年とのこと。
80 名前: 元東月寒人@琴似 投稿日: 2004/01/06(火) 21:16:40
ID:QZKsWKEw
上野幌の雪印近代遺産は「雪印バターの記念館」だけでは
ないのでした。「旧出納邸」「恵庭荘」というのもあります。
以下「札幌・小樽散歩」から。

「旧出納邸」 
大正14年に建設された、出納陽一の旧邸宅。
義父、宇都宮仙太郎とともにこの地で宇納牧場を始めた。

「恵庭荘」(けいていそう)
明治26年に南5西2に造られた呉服商の邸宅を、その後雪印種苗
の迎賓館として移設

「雪印バターの誕生記念館」
旧宇納牧場製酪所仮工場で佐藤貢が大正14年に始めてバターを
作った場所。大正15年にバター製造工程を苗穂に移す。
昭和12年までチーズを製造。

「宇納牧場」
大正13年に宇都宮と出納が共同で開設。
昭和14年に北海道酪農義塾(現、酪農学園大学)の実習農場
となる。

雪印種苗センターに行ったことがありますが、その奥にこの
ようなものがあったとは知りませんでした。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】

看板画像ではその頃提示されてた雪印のブリックアイスクリーム
の画像があったので粗いですが、使って観ました。

 あとはGHQのいかにもな失敗と、このときにもあまり学ぶこと
のなかった関西圏の先走りがつまらなく「雪印」をバラバラにする
「繰り返す過ち」の突端的なエピソードもあったらしく。

112 名前: k 投稿日: 2004/01/12(月) 13:15:30
ID:F5vP0Ysw
「雪印」について
「雪印乳業」という会社は、戦後設立された会社です。
いわゆる「集中排除法」によって旧北海道興農公社が
分割させられた時に発足したもので、昭和25年のことです。
しかし、「雪印」の商標は大正15年から使用されていました。

この時の事業体は「北海道製酪販売組合」でした。

127 名前: 牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942
投稿日: 2004/01/14(水) 22:20:53 ID:yN2wdvbw
>>112のKさんからのレスで、
>「雪印乳業」という会社は(略)いわゆる「集中排除法」
によって旧北海道興農公社が分割させられた時に発足した
もの、とありました。

僭越ではありますが、これに補足をさせていただきたい
と思います。
今日、借りてきました「バターからの出発 雪印50年のあゆみ」
(深谷尚徳著 読売新聞社ヘビーブランドシリーズ 昭和50年)
によりますと、

「戦後の二十一年に、公社は経営組織の民主化を図ることに
なり、「北海道酪農協同株式会社」(通称「北酪社」)と
社名を改めた」とあり、この「北酪社」がGHQの占領政策
により、「集排法」(過度経済力集中排除法)の指定を受けた
そうです。

「再三の反対陳情もむなしく、二十五年一月、ついに分割指令
は強行された。こうして第一会社の北海道バター(クローバー印、
のちにクローバー乳業を社名と変更)と第二会社の雪印乳業
(雪印)の二社が誕生した」 <つづく>

128 名前: 牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942
投稿日: 2004/01/14(水) 22:50:52 ID:yN2wdvbw
>>127の続き。
「バターからの出発 雪印50年のあゆみ」より。

「分割に際しては、北海道バターは関西、その他は雪印と
地域分けをしたが、やがて全国に浸透した「雪印マーク」の
力がはっきりしてきた。もともと同じ製品なのに「雪印」を
求める声が関西にも多く、特約店の系列などを通じて自然に
商品が"越境"してしまう。このままでは「クローバー印」の
命脈がないばかりか、倒産の危機にさらされる。

悪いことに、雪印製品までが"おとり商品"にされて値が崩れて
きた。クローバーのバターは、明治、森永に押される以上に、
もとは同一会社である身内の雪印の圧迫を受けたのである」
その後、昭和33年に同社は再合併に至りますが、ちょいと
ポイントがずれるので省略します。

129 名前: 西創成 投稿日: 2004/01/14(水) 23:59:21
ID:4x3am5Sg
クローバー印の乳製品、牛乳って、昭和50年代でもありました
ね。末期は、雪印系列の北辰乳業製造でしたが。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】

如何に関西人が後日の件で学ばなかったか、エステーのCM
プランナーに転職させたり、ただでさえ冷え切っていた就職
困難なところに拍車をかけるだけかけてクレーマー化を避けなか
った結果、必然的に関西経済圏がひとりでに没落していくのは
まさしく先人に学ぶことのない自業自得というべきで、アイス事業が
結果的に返還されなかったことを古(いにしえ)の道民は
決して忘れていないからな。
(なので、地アイスを剥ぎ取られた北海道において関西発の
アイスはセンタンなどの一部を除き、大変存在感が薄いです。
その後20年ほど九州アイスの攻勢にも晒されましたしね)

 といふあたりを今回はひとまずレストアしてみました。
精読すれば、いろいろわかってくるものですねえ。
「マイナーな地名スレ」から紐解く幾つかのよしなしごと、
でした。

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