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『聲の形』と真剣に向き合う。

お久しぶりです、蕩です。
「2021春アニメ OP,EDアニメーション」について記事を書こうとゆっくり進めてるのですが、たまたま再放送していたのがきっかけで『聲の形』について考え直してみよう、なんてことを思ってしまったので記事にすることにしてみました。

正直言って、難しい作品ですよね。
全て"個人的な意見"と断りを入れても受け取る方にとっては気分を悪くさせてしまったり、そんな意味はなかったのに誤解を生んでしまいそうです。

だからこそ、何かを考える意味があるって思うし、ただ単に「面白い」「深い」「重い」って言葉で片付けるのは勿体ないんだと思います。
不快に思われる方が最小限になるように言葉を選んで書いたつもりですが、自分の言葉も大切だと思うのでそのバランス加減には優しくしてください。

今回に関しては「○○が△△という演出から□□という心情変化が伺える」ってアニメ映画の観点から言及するのは少しだけ違う気がしたので、思ったことを綴ってみようかなって気分、気が向いた方は最後まで付き合って頂けると嬉しいです。
というか最後まで付き合ってください。頼みます。

石田将也

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物語の主人公であり、物語の原因です。
硝子の"耳が聴こえない"面に興味を持ってしまった、退屈に勝つために最高の人間が現れたといった感情を押し出すことで、結果的に"いじめ"をした。
「この事実は許されない」と結論を叩き出すのは当然の流れかもしれませんが、この事実を許すかどうか自体は硝子の気持ち次第で、私たちは「石田将也がどう成長したか」を考えるのが大切だと思います。

察した方も多いと思いますが、彼は何か問題が発生すると「自分が悪い」で解決しようとしますよね。
確かに将也が悪かった場合は小学生時代から多々あるのは間違いないんですけど、彼が明らかに悪いとは言えない時も自分のせいにしてしまうのが辛い。
やっぱり"いじめ"をした事実が致命的だったと思うんですよ、結果的には"標的"が自分に巡り回ってくることで「自分が壊した」「自分なんて」って気持ちを肥大化させた、その理由に"いじめ"は十分すぎる。

でも将也は変わるんです、彼なりに。
道行く人間の顔には"×"が貼られて、前を向くこともできずに下を見続けて、何が起きても「自分が悪い」と思っていた彼も成長します。

小学生時代は気持ちを無視してどころか"勢い"だけでコミュニケーションを取っていたのに対して、硝子への償いを発端に"手話"を覚えたり、絶体絶命の危機ではあったものの花火大会の日に"手を繋いだ"ことも、将也なりの気持ちを「伝える」大切な手段になっていたと思います。

映画制作もそう、「自分なんて」を盾に逃げ続けたやつらに向き合った事実が大きかった。

確かに目を背けたくなる世界しか広がっていなかったし、結果論で綺麗事かもしれませんが、受け身で控えめなりにも向き合い続けたからこそ最終的には硝子に対して「生きるのを手伝ってほしい」と伝えられたり、全員に「自分から会いに行く」と決心して思いを「伝える」ことに能動的な姿勢を持つことができたんじゃないかなって、そう思います。

"周囲の目"って本当に怖いんですよ。
自分は学校生活の中で割とイベント事とか諸々を楽しく過ごすことはできたんですけど、中心に次いで騒ぐような性格で「自分が!!」的な堂々と生きていけるタイプじゃないので、「何か悪口を言われてそう」「変な目で見られてそう」なんてことは今でも考えたりする時があります。

そんな自分にとって、"×"を取り払った将也の成長っていうのには本当に胸を打たれました。
「将也はヒーロー」だなんて言葉を耳にしたことがありますが、烏滸がましいとは知りつつも、私を含めたそういう人間にとってのヒーローになっていたのかもしれませんね。

西宮硝子

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この子も、物語の主人公です。
"耳が聴こえない"という面を抱えていることに関して経験のない人間が言うのも変な話ですが、その特徴に加えて「伝えない」姿勢を取り続けてしまったために"いじめ"に遭うことになります。

「"いじめ"に遭っていい理由はない」と仰る方もいるかもしれませんが、そういう善人を極めてる発言は重要じゃないという前提で話を進めますね。

硝子は将也と本当に似ています。
名前はもちろん、「自分が悪い」で物事を済ませようとする態度や、愛想笑いで複雑な交流を避けて円滑に進めた気でいるような勘違いをしたり、共通点がとても多いキャラクターだと思います。

触れ合う中で完全な味方として映ってるのは結弦と婆ちゃんの2人だけで、家庭の中では一番の力を持ってる母親も接し方は突き放すようで、学校に行っても"聴こえないから"という理由で散々な目に遭ってしまうどころか、手を差し伸べてくれた唯一の佐原を不登校に追い込んでしまった現実が襲いかかる。

こんな状況で卑下する性格に育たない方が無理だと思うんですよ、自分だったら全て放り投げたくなるかもしれないなって考えたり。

幼少期に結弦へ「死にたい」って打ち明けた時の表情は言葉にできないほどの絶望が漂っていて、そんな心情のまま学生時代を過ごし続けていたって考えるとゾッとします。この子に関しては自分がどんな言葉を使って書いたところで"軽いもの"になってしまうほどに壮絶な日々を背負っていると思います。

でも彼女も成長するんですよね、飛び降りて命を失おうとする決意だったり、結果的に身代わりになった将也を想い続けて映画制作を再開させようとする"行動力"は彼女が得た"自分を表現する"ってことだったんじゃないかなって。

命を失おうとすることが"良い"なんて思ったことはありませんけど、今までどんな事でも身を引いて愛想笑いしてた子がどこか「気づいてほしい」って気持ちを表現したとも考えられる気がします。
極端な行動で興味を引くことも印象自体は悪いんですけど、壮絶な日々を背負い続けた彼女の表現って考えると抱き締めたくなりました。

「気持ちを伝える」「自分を表現する」って想像以上に気合いが必要で、勇気が必要で、特に硝子みたいな性格の子にとっては"賭け"みたいなもので。
その"賭け"に勝ったって言い方は語弊があるので難しいですが、「伝えよう」「表現しよう」って気持ちを伝えようとする相手に託してみようと踏み切ることができたことに、きっと意味があったんじゃないかなって思います。

西宮結弦

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硝子の妹、みんな大好き結弦ですね。
"聴こえない"側面を持ったお姉ちゃんがいることで不便な学校生活を送ることになってしまった。

結弦から行動に移したものの、そんな環境の中で芽生えた「姉ちゃんを助ける」って気持ちから"男勝り"かつ"どこか大人っぽい"ような生き方を強いられることの過酷さは想像の遥か上だと思います。

やっぱり印象的なのは"生物が死んでいる写真"を撮り続けることで、逆に「死にたくない」と硝子に思わせようという考え方が発覚するシーンですね。感動的な展開として語られることも多いですが、そういう触れたら壊れてしまいそうなやり方しか見つけられなかった状況だったんだろうと辛くなる気持ちの方が大きかったです。

硝子が短髪を強制される状況に対して抗うように長い髪をバッサリ切ったり、前述の通り"生物が死んでいる写真"を撮り続けたり、将也から広がっていく交友関係も全て硝子の同級生だったり、自分の土俵が一度も登場しないんですよ、この子って。

それを踏まえると、大好きだった婆ちゃんが「お姉ちゃんのことばっかり考えて、自分のことを考えていない」といった言葉を送ったのは大きいですよね。

結弦にとって婆ちゃんだけが味方だった。その婆ちゃんは自分が逝くことを悟っていたから最後にそんな言葉を残して一緒に眠り、そのまま永い眠りについたのかなって思います。

そして婆ちゃんを失くした結弦は自分が持つ"感情"を溢れ出すように涙を流し、最初は事情を隠して躊躇いつつも将也に対して素直な気持ちを話すようになったのは最大の味方である婆ちゃんが残した言葉が胸に焼き付けていたからかなって。

ここから結弦は変わりましたよね。
確かに姉ちゃんの存在が複雑な人生を歩む理由になっていたかもしれませんが、いつの日か"姉を優先する"のではなく"姉だけを考える"ことになってしまった関係性の日々に依存が積み重なっていた。

そんな結弦が、東京で夢を叶えてみたいという自分の気持ちを曝け出した姉を応援する姿勢を見せたのは、姉のことを信じて見守ることができる人間性の成長が伺えますし、自分が好きな"写真"を撮り続けようとする姿勢は"自分のこと"を少しでも優先する考え方を手に入れたと受け取れます。

現実でも「誰かのため」という考え方は素敵です。
ただ、「誰かのため"だけ"」になって自分を失うことは寂しいじゃないですか。その"誰か"だって支えてくれるあなたに「自分のことも大切にしてほしい」と考えたりすると思うんですよ、願望ですけどね。

その絶妙なバランスを保った関係性に一歩でも前進することができた結弦は、この先も上手く進むことができるんじゃないかなって思います。

永束友宏

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お馴染みの"いいやつ"です。
個人的にはあまりこのキャラクターは得意じゃありません、一緒にいたら息苦しそうなので。

友達の"定義"は無視しても、友達という"関係"に対する執着をストレートに共有してくる性格には抵抗があるんですよね、私の性格が曲がってるだけなので勘弁してください。

ただ本当に"いいやつ"だとは思います。
将也が身代わりになってパクられたチャリを必死に探したり、将也の発言に対して否定的な言葉で潰すことをしなかったり、斜め上のお調子者な性格が将也の過去に関係した人間たちを引き寄せてくれのも彼の存在が大きかったので。

何事にも「自分のせい」で自己肯定感がどん底だった将也にとっては、執着は激しくても前向きに"肯定"をしてくれる永束は重要ですよね。

実際にここまでの人間が傍にいると気疲れしてしまいそうですが、器を広く持って相手を想う気持ちっていうのは大切だと思います、難しいけど。

植野直花

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私が一番好きなキャラクターです。
実際に攻撃的な性格を"暴力"として表現する面に関しては全く肯定できないんですけど、それ以外の面は人間臭くて大好きなんですよね。

好きな人である将也を奪われると思って硝子への攻撃を続ける色恋沙汰が最初の原因でしたが、彼女は単純に硝子のことが"嫌い"で仕方ない。

でもそうやって物理的にも言葉的にも暴力的な面が出てしまう自分のことも"嫌い"で、その葛藤と戦っていたのが植野だと思います。

前提として"聴こえない"から優しくして合わせようって考え方は大切だと思いますし、現実において手話を覚えて円滑にコミュニケーションを取ろうとする姿勢は大正解だとも思います。

でも、会話をするなら手話じゃなくて筆談だって問題ないんですよ、そもそも手話を覚えた方が良いってお願いをしたのは硝子じゃなくて周りの人間たちっていうのも癇に障ったのかもしれません。

「聴こえないから仕方ないね」で周りに流されるまま合わせるのは平和な解決策ですけど、この大人たちの中で一体誰が硝子の気持ちを知ろうとしたか。

当の本人である硝子だって自分のことを全く表現しようとせずに「ごめんなさい」で全てを片付けようとする始末で、ここまで全て上辺なんですよね。

でも植野は、硝子の"聲"を聴こうとした。
ただただ「ごめんなさい」って言うだけの中身のない謝罪なんて全くの意味がないですよね。

相手に対して悪いことをした場合に「ごめんなさい」を言えない人間もどうかと思いますが、そもそも定型文の謝罪で本意なんて全然わかりません。

その空っぽな謝罪に植野は気づいていた、だから周りに流されて手話を覚えるではなく、素直な気持ちが全面に出る暴力を振るったとしても"理解"を深めたかったのかなって。

ただ暴力はダメですよね、植野だって成長します。
筆談だってコミュニケーションを取ることは可能と言いましたが、一方で手話を覚えずに自分の土俵を強制する植野もブーメランなんですよ。

だから最後に、硝子への理解を深めようと手話を少しだけでも覚えてお互いが平等な土俵で接しようとする気持ちを得た瞬間、"聲"を聴こうとする姿勢が大人になった瞬間に、彼女の成長が伺えます。

ハンデを持つ方に寄り添うのは本当に本当に大事だと思っていますが、植野の件はそういう当たり前に対して"本質"を叩き付けてくる印象でした。

語弊がありそうで心配ですが、何となく「可哀想だから」「優しくするべきだから」って理由で相手の"聲"を聴こうとせずに行動することってありませんか?

これは一般的に健康な身体である相手にとっても通じることで、何となく「○○そう」って理由で適当にやり過ごすことってありますよね。私はあります。

それが無難な振る舞いですけど、距離を縮めたいと思っている人間に対してくらい聲を聴こうとしてみてもいいんじゃないかなって。

この件に関しては色々思うことがあったので、最後の総括でまた少し触れますね。

佐原みよこ

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雑に扱われる硝子に最初から手を差し伸べた唯一の女の子、ただその態度をポイント稼ぎ呼ばわりされて不登校になってしまった。

硝子が"聴こえない"から手話を覚えましょうって話に真っ直ぐに向き合おうとした、でもクラスの視線の冷たさに塞ぎ込んでしまうのが"優しくて弱い"

これは人間らしいですよね、"善意"は本物だけれども自分の地位を壊してまで接してあげようなんて思うことは相当な関係値を築かないと到底無理です。

最近は"優しい"って言葉で片付けるのは安易でどうなのかなって思う時もあるので個人的に難しいところなのですが、佐原の本当の"優しさ"って手話を覚えようとしたことじゃなくて、手を差し伸べたのに周りの視線を気にして硝子を一人にしてしまったことへの後悔を持っていること、それでも手話の勉強を続けていたことだと思っています。

彼女はその"罪悪感"を持った対象の硝子と関わることで成長することができた気がします。

佐原は小学生時代も逃げて、高校生になっても終盤で結局は逃げてしまうんですよね。

最終的には映画制作と自分のテーマを共有した衣装を捨てようとして本当に全てから"逃げる"ことになりそうなところを、硝子が「必要」と伝えてくれたから向き合うことができたんじゃないかなって。

今の時代、それなりに大人になってしまえば一人で生活することだって可能だと思うんですよ。

でも誰かに「必要」とされるっていうのは嬉しいですよね、特に"周りの目"に敏感な方っていうのは疑いつつも内心はとても喜んでいる気がします。

私もあまり表情が豊かではなく、テンションも静かなタイプで伝わりづらいと言われがちなのですが、「喜んでるよ!」ってパターンが多いので。

話を戻しますね。
佐原は不登校だった自分から着実に成長はしつつも大事なところで逃げていた。その原因である罪悪感に対して、当の本人である硝子と関わり向き合うことで、まだ不完全でも自分の弱い部分に蓋をすることができた事実が彼女の成長だったと思います。

真柴智

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この男は語られる部分が少ないというか、語弊覚悟で書きますが本当に途中参戦の人間です。

「眉毛が太いから」という理由でいじめに遭った過去を持っているため、何も悪いことをしていない誰かが故意に傷つくことを極端に嫌っている面がある。

一見は善人っぽいですが、先生になりたいという夢が"いじめてきた人間の子供を見守りたい"って最高に歪んでいるのが「聲の形」に登場するキャラクターの所以かもしれませんね。

将也の過去が発覚して、自分とは無関係なのに遠慮なく暴力を振るったことも考慮すると、彼の人間性は本当に掴めなくて考えるのが難しい。

ただ、先生になりたい夢の理由が間違っていることに自覚を持てたのは成長ですよね。
自分は"普通"だと信じたくて、"異常"だと思っていた将也たちへ遠回しに距離を縮めようとする愚かさに気づくことができたのは大きな一歩です。

例えば発表などで自分より緊張してる人がいたら気楽になったりしますよね、あれと同じ感覚で友達も築こうとした感じに近いのかなって。

でも何となく話せる程度の仲ではなく、友達という存在を自分の精神安定のために作るというのは本当に臆病で愚かなことだったんだと思います。

そして本当の成長っていうのは遠回しに川井経由で将也たちに絡もうとしていた姿勢から、恐らく成人式では"いじめ"をしてきた同級生に自分から一言でも話をしようと進んだことかなって。

当事者にならない立ち位置から歪んだ望みを叶えようとするのではなく、当事者として愚かでも気持ちを伝えようとするのが真柴の変化だと思います。

川井みき

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ほぼ満場一致で嫌われてる女の子。
正直言うと、私はこの子が憎めないというか本当に良い性格してるよなって思っています。

将也と硝子とは対照的で、「自分が悪い」って結論を全くと言っていいほど持ち合わせていない前向きな自己中心で形成されてる厄介な女の子ですよね。

これも語弊覚悟で書きますが、川井って硝子に似てる部分があると思いませんか?
似てるというのは若干違いますね。心の底から「全て自分が悪い」と信じて疑わない硝子に対して、心の底から「自分が悪い」とは全く思わない川井は両極端な位置に存在してるんじゃないかなって。

一概には言えませんが、硝子のように全てが後ろ向きな人間に対しては鼓舞したり、共感したり、どこか寄り添いたくなる余地が全然あります。

ただ川井のように全てを前向きに捉える人間に対しては、その余地がほぼありませんよね。途中からただただ疲れるだけでイライラするだけで、でも本人は優等生で顔も可愛いから社会で上手く渡っていけるというのが反感を買っていると思います。

さらに、川井は最後まで成長した様子がない。
これが"嫌い"と思われる最大の理由な気がします。

他のキャラクターは罪悪感と葛藤し、"自分"に疑問を投げ続けることで騙し騙しでも生きていく姿勢が感じられるのですが、川井は終盤でもSNSで悪口を言われたことに対して自分に言い聞かせるように「自分を愛して」と硝子に強要したり、他の登場人物の過去と比べて"いじめ"と呼ぶには曖昧な状態で真柴に「いじめに遭ってる」と弱々しく打ち明けています。

もしかしたら、川井は一歩も引けないのかなって。
優等生と言われるべき"努力"はしているし、顔だって可愛いし、パッと挙げられるステータスに関しては合格点を叩き出してしまっているのに「自分が悪い」って反省をする方が困難だったのかもしれません。

「自分を肯定」しないと耐えられない、作り上げてしまった"理想像"を崩すことができない、そんな状況に彼女は今もいるのかなって考えると憎めないっていうのが私の正直な気持ちです。

『聲の形』と向き合って。

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個人的には将也の「生きるのを手伝ってほしい」って言葉が全てだったんじゃないかなって思います。

人間関係を浮き彫りにする大事な場面は多々ありましたが、「死にたい」と思って飛び降りまで決意した硝子に対して、「死のう」と思ってお金を貯め続けていた将也が「生きたい」「生きよう」の2つの意味が含まれる言葉を送れたことが物語っています。

お涙頂戴とかそういう話ではないってことを前提に書きますが、ハッキリ言って私も自己肯定感が低いので「自分が悪い」「良いところがない」とは今でも思ってしまうことが多々あります。

恐らく皆さんもそういう面を持ち合わせてると思うんですよ、だから「私なんて」のバリアで相手の"聲"に応えようとせずに後悔した瞬間だって何度か経験してるのではないでしょうか。

そんな人間に向けて「"聲"を聴いてみよう」といったメッセージを、"いじめ"かつ"聴こえない"というデリケートな題材を取り入れながらも伝えてくれた作品だったのかもしれないなって、私は思います。

少し話を脱線しますが、"いじめ"を肯定していい理由なんてありませんよね。だからと言って腫れモノにして取り扱わないのも変な話です。

人間関係において抵抗を覚えやすいのは苦い経験であり、その極論とも呼べる"いじめ"という題材が必要だったのかなって。

この作品は最後までそれを肯定するかつ許すということはしていなかったと思いますし、加害者側が許される物語というのは現実で被害者だった方の気持ちを逆撫ですることになる可能性がある中で、とても際どい線引きをした着地で淀ませつつも鮮やかに、そして"何か"を考えさせてくれたと思います。

さてさて、話を戻します。聲の話ですね。
植野の欄で「聲を聴こうとせずに接している」といったことを書きましたが、私も身に覚えがあります。

相手は自分自身のことを色々話して距離を縮めようとしてしてくれているのに、私は自分のことを話すのが怖いというか「つまらないだろ」「聞いてどうするんだろ」とか思いがちで、どこか卑怯な聞く専に徹し続けていたのかなあって考えさせられました。

これも一概にどっちが良い悪いの話ではないことは重々承知ですけど、もう少し「自分を伝える」ことに甘くなってもいいんじゃないかなって。

そう考えると受け身側の話だけではなく、「"聲"を出そう」ってメッセージも含まれている気がします。
単純に"声"を出すのもそう、表情,手話,ジェスチャー,筆談など相手に気持ちを「伝える」手段は考えれば相当な数があるんですよね。

このブログだって私の"聲"になっているかも。
今までのように「アニメ演出」の観点から考察するという記事も誰かと一緒にいる時に話してたら嫌がられると思うし、今回のような記事も直接誰かに伝えたら鬱陶しくて仕方ないに決まってるんですよ。

でも伝えてみたい気持ちはある、だからこうやって書いてるブログは聲なのかなって思います。

終わりの挨拶

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
画像は登場人物1枚ずつだけで、「お前はアニメ演出語ってろ」と言われても仕方ないほどに長々と文章だけの記事にしてしまって本当にすみません。

自己満足の塊で綴った文章ですけど、読んで頂いた誰かの考える"きっかけ"になったら幸いです。

難しいテーマですが、だからこそリプ等で皆さんのを聴けたら本当に嬉しいのでお願いします。
拡散の方もして頂けると泣いて喜びます!
抱き締めます!力強く抱き締めます!

ではでは、原作を読んだ方はもう一度、アニメ映画を観た方はもう一回、まだ触れたことがない方は手に取ることを願って。

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