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読書感想文 ホモ・ルーデンス

最高の真面目さをもって事を行うだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。
人間は神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです。
                                                                                       ――プラトン『法律』

 「ホモ・サピエンス」とは「賢い人」という意味であるが、我々が自覚しているように、我々ホモ・サピエンスはさほど賢くもないし、それが我々を定義づけするにふさわしい名前でもない。そこで「ホモ・ファベル」、すなわち「物を作る人」という呼称が代替えとして浮上したが、物を作る性質も我々固有の性質ではない。そこで浮上してきたのが「ホモ・ルーデンス」――「遊ぶ人」という言葉だ。

 人間は遊ぶために生まれてきている。遊びから社会が、法律が、宗教が生まれ、さらに文化、音楽、芸術と彩り豊かなものが生まれた。これらはすべて遊びから生まれた。文化は遊びとして始まるのではなく、遊びから始まる物でもなく、遊びの中に生まれるのだ。私たちの意識、認識の根源にあるのは「遊び」だったのである

遊びという概念は、注目すべき事に、それ以外のあらゆる思考形式とは、つねに無関係である。
                                P28

 私たちの社会、文化は歴史的意味、世代的意味を持って由来や構造を説明できるが、遊びという物はそれらとは基本的に関連を持たない。まず“関連を持たない”ことが遊びというものである、ということがいえる。
 私たちの足下に流れている文化や社会とはまったく関係もなく、その成果は何ももたらさない。無益で無為であること。本来の社会的意義から離れて、離れたところで独自の定義を持つ物――これが“遊び”である。
 また遊びは自由な物でなくてはならない。誰かに命令されてする遊びは、すでに遊びではない。それは遊びの写しでしかなく、押しつけられた物でしかなく、そういったもののなかに遊び特有の開放感が現れることはない。それに、もしかするとそういった遊びはすでに相当に「社会化されたもの」となっていて、その遊びはすでに一般の認識で「遊び」とは認識されていないものになっている場合もある。例えば休日に友人たちと集まって遊ぶ野球はボールもバットもないので自分の手でゴムボールを打ったりといい加減で愉快なものだが、一方できちんと道具の揃ってルールも厳格な学校の授業で無理矢理やらされる野球は、同じ野球だが違うものだ。後者の方は「遊び」の野球ではなく、「社会化された」野球のほうだ。

 遊びは「本当」ではないが「本当」のように振る舞うことでもある。
 例えば幼児は、椅子を一列に並べて機関車ごっこをして遊ぶ。そんな子供を抱き上げてキスなどをすると、「機関車にキスしないでよ。汽車が本当だと思わなくなるよ」と言って抗議する。
 機関車ごっこをしている間の子供は、自身が本当の機関車だと思っているし、一列に並んだ椅子は汽車なのだ。いや、椅子は椅子に過ぎないことを理解しているが、椅子を汽車であると信じようと真剣な態度で遊んでいる。そう、この子供は、その“ごっこ遊び”を“本気”で遊んでいる。本気で遊んでいるからこそ、抱き上げてキスをすると怒る。遊びは社会が本来持っているものとは無関係、無生産なものであり、当事者もその自覚を持ちながら、一方で“真面目”ですらあるのだ。“真面目”に遊ぶことを“演じている”のだ。
 不真面目と真面目、双方の曖昧な境界に意識をたゆたわせる……これが遊びだ。
 だが遊びはいつしか“不真面目”を置き去りにし、真面目の面がフレームアップしてくると、次第に遊びは「芸」と「技」のものへと駆け上がり、その先にある物が「文化」と「芸術」だ。さらにその向こうへ行くと「宗教」や「社会」が待ち受けている。遊びがそういったものを生み出す切っ掛けを作り出す。

 遊びは日常生活から、特定の時間と場所に区切られる。完結性と限定性が遊びの第3の特徴を形作る。遊びは限定された空間の中で行われ(プレイ)、その中だけで終了する。この空間から出てしまうと、どんな遊びもルール違反と見なされる。
 大抵のスポーツはコートから選手かボールのどちらかが出るとルール違反となり、何かしらのペナルティがかけられる。一方で、ボールを一定領域から外に出すことを得点が入る切っ掛けとするスポーツもある(野球やテニスなど)。この場合、“相手側陣地の外にボールを出してしまう”ことが得点の根拠となり、得点とは相手側へのペナルティということになる。
 限定された空間であることに意味がある。その限定された遊びの空間というのは、日常とは峻別された“結界”のようなものなのである。この限定空間――結界の中で一定ルールに則って競い合う。競い合う過程でプレイヤーはある種の達成と恍惚を得て、それが日常への活力に結びつけられる。人がなぜ遊ぶのかというと、社会から外れたところでスプレマシーを得たいからだ。
 この性質はなにもスポーツだけに限った話ではなく、演劇、トランプ卓、法廷、神殿……などなど。あらゆるものが一定空間に区切られ、その中でルールを決めて競い合わされ、そこから出てしまうこと、あるいはルールにないものを持ち込む行為はどんなものであれルール違反と見なされ、嫌われる。そのどれもが、性質を見ると遊びと同じものなのである。

 遊びとは、日常とは別の存在になることだ。限定空間で仮装し(ユニホームも仮装とする)、日常とは切り離されたところで別の存在を演じる(プレイ)する。演じることで最終的にスプレマシー(恍惚)を獲得する。そのために人は遊ぶ。
 本書には次のように表現されている。

 その外形から観察したとき、われわれは遊びを総括して、それは「本気でそうしている」のではないもの、日常生活の外にあると感じられている物だが、それにもかかわらず遊んでいる人を心の底まですっかり捉えてしまうことも可能な一つの自由な活動である、と呼ぶことができる。この行為はどんな物質的利害関係とも結びつかず、それからは何も利得も齎されることはない。それは規定された時間と空間のなかで決められた規則に従い、秩序正しく進行する。またそれは、秘密に取り囲まれていることを好み、ややもすると日常世界とは異なるものである点を、変装の手段でことさら強調したりする社会集団を生み出すのである。
                             P42

 祭祀とは自然界に起きた出来事を人間や人間が執り行う“儀式”によって再現することである。
 例えば季節の変化、あるいは星の上昇や下降、穀物の実り、人間や動物の誕生、そして死など――祭祀が示すものは非常に多様である。これらを想像力豊かに変換され、演劇的に再現される行為や場のことを祭祀と私たちは呼んでいる。
 レーオ・フロベーニウス(1873~1938。ドイツ)によれば、遠い先史時代、人類はまず植物界、動物界の諸現象に注目し、次いで時間と空間の秩序に対する感覚、月や季節の変化の観念、それから太陽の運行に意識が向くようになった。
 次に人類は、この自然界の現象を、自らの体で演じるようになった。“神聖なる遊び”の中で演じたのだ。このように遊んで演じることによって、自然界が秩序正しく運用されることを手助けしたのだ。
 そうしているうちに社会が発達し、人が増えて原始社会を脱して国家制度の形が浮かび上がってくると、祭祀の遊びという形式の中に保たれていた秩序が、その共同体を形成するための根拠へと変わっていく。これが遊びがすべての社会秩序、慣例の出発点である、とする考え方である。
 だから王は太陽であり、王権は太陽の運行イメージの中に表される。王は生涯を通じて太陽を演じることを義務づけられる。王は人間ではなく大自然の象徴であるから、そこに何かしらの不調が生じると、自らが生け贄となり、殺されなければならない。
 余談ながら、よくある誤解として「生け贄」とは「神に捧げられるもの」ではなく、「神自身が生け贄」であるのが正しい。神が自然の移り変わりを体で表現するために、自ら生け贄となって殺され、その魂が若い神に移されることにより、自然が神に釣られて動くのだと考えられていた。だから神とは安全なところで胡座をかいている存在ではなく、生け贄として殺される存在だった。

 神聖な祭りを祝うとき、人々はどんな気分であるのか。「祝う」という言葉がすでに物語っているように、聖事とは祝われるものである。人々が聖堂に参集するのは、皆と一緒になって共通の喜びを分かち合うためである。
 祝祭が始まると「日常生活」は停止し、祭儀が催されている間、饗宴や酒盛りが続けられる。
 祝祭と遊びにははっきりと親しい関係を見いだすことができる。日常生活を停止させ、人々は陽気になり、あるいは厳粛になる場合もあるが、また祭儀は時間と空間がきっちり決められており、その枠の中で人々は乱痴気騒ぎを楽しむ。メキシコのコラ・インディアン族は実際にトウモロコシを煎るときの聖祭を最高神の「遊び」と呼んでいる。

※ インディアンの呼び名は、この本が出版された時期の事情によるものだろう。現在ではインディアンとは呼ばれないと思われる。

 未開人は宗教的な祭儀を執り行うとき、見物に集まった人々も含めて恍惚状態になったり、幻覚状態に陥ったりして祭特有の狂騒的空気を作り出す。だがA・E・イェンゼン(1899~1965)によれば未開人たちはその狂騒状態について「本当こことではない」と認識している、という。芝居、演技なのだ。「嘘」だと認識しているが、未開人たちは大真面目に演じるのである。
 祝祭が始まると精霊が集落一帯に集まり、儀式が最高潮に達すると、仮面をかぶった司祭が精霊を宿して村人たちを脅かしに現れる。集まった人たちは盛り上げようと煙をいぶし、音を出し、声を上げる。女たちは怯えてキャアキャア声を上げる。祝祭の場は仮面をかぶった司祭によって、大混乱に陥る。
 だがイェンゼンによれば、「彼らの立場は、クリスマスのときサンタクロースに変装することを子供に隠しておく両親のそれに、たいそうよく似ている」という。
 演じている当人も、集まっている人々も、それが芝居、演劇でしかない、ということはよくよく理解しているのである。
(日本の知的エリートたちは遊びによって、次第に現実と非現実の区別がつかなくなる、と繰り返し主張したが、残念ながら未開人たちの遊びを見てもそのような現象は起きていなかった。日本の知的エリートたちの主張が的外れであったことがこのあたりからも証明できよう)
 芝居でしかないと理解しつつも、精霊の登場によって祝祭の空気は最高潮に達し、人々は陶酔し、恍惚状態になり、最終的には集落の共同体全体が一体感を持って絶頂に達する。これは現代の演劇とそれがもたらす心的状態とほぼ同じである。

 未開人の呪術的、超自然的な儀式は、当人たちの間に決して「本当のことではない」という認識が前提として存在している。だから未開人たちが行い、信じている精霊だの呪いだの儀式だのは、彼らの理性が私たちよりも劣っているから、というわけではない。未開人たちは呪いや祈祷の結果を信じてはいないが、一方で頼りにもしている。文化のグレードが違うだけで、実は私たち文化と同じようなことをしているといえる。現代人である私たちだって、占いやおみくじの結果に運命を委ねたりするじゃないか。
 不真面目と真面目の境界で、意識をたゆたわせる……未開人たちの宗教も、本書が唱える概念に基づけば“遊び”の一形式となる。そしてその遊びの一形式である未開人たちの宗教から、やがて文明人の文化が生まれてくる。宗教や信仰は遊びから生まれ出て、やがて社会や伝統を形成するための根拠になっていく。

※ 未開人の中にも理知的な人というのは必ずいて、「呪いなどはインチキだ」とか言っていたりする。ごく最近の話をすると、“未開人”が儀式や呪いを行うのは、定期的に訪問してくる旅行者やテレビクルーを楽しませるためだ。彼らは古い時代の儀式や呪いをしている素振りをしてみせると、彼らが喜んでお金を落としてくれることを知っている。そんな彼ら“未開人”が儀式や呪いを信じているわけがない。もはやこの地球上に、本当の意味での“未開人”は存在しないのかもしれない。

 ポトラッチといえばカナダのブリティッシュ・コロンビア州に住むインディアンの奇習として知られている。
 ある一方が贈り物をしたら、もう一方はそれよりも豪華な贈り物を返さなければならない、という習慣である。近代に入って以降はインディアンたちも物質文明化が進み、贈り物がどんどん高額化していき、やがて歯止めが効かなくなり、ついには一族破滅へと転落していった。ここから、現代は「ポトラッチ」といえば破滅的な投資をして、その投資を止められないような状態のことを言うようになった。制作費がひたすら高額化して歯止めが効かなくなる映画産業も時に「ポトラッチ」的と呼ぶこともある。(最近はゲーム業界もポトラッチ的と呼ぶにふさわしい状況に陥りつつある……言っているのは今のところ私一人だけだが)
 実はこうしたポトラッチ的な浪費競争は世界中のあらゆる文化の中に見られる現象だった。ギリシア、ローマ、古代ゲルマン、メラネシア、あるいは古代中国の伝承の中に、またイスラム以前の異教アラビアにもこうしたポトラッチがあったことが伝えられている。
 我々の主題との関連からすると、ポトラッチは次のことが重要である。

 それはポトラッチとよばれているもの、およびそれに類似した総ての行事は、相手に勝つため、優越するために催される、名声や声望を得るために行われる、ということである。
                          P137 

 2つのグループが対立し、しかしそれが敵愾心と協力の精神で結びつけられているというアンビバレントな状態の時、相手を威嚇するために、相手を圧倒するために、人は様々な行動を通じてマウント合戦を始める。それによっていかに自分たちのグループが高い地位を持っているか、いかに誇り高い存在であるかがポトラッチによって示される。
 また名声だけではなく、復讐の場合にもポトラッチ的なものが行われる。この場合のポトラッチはただひたすらに凄惨で血なまぐさい状況を作り出す。マフィア映画やヤクザ映画でよく表現されるような状態のことだ。不思議なことにこういう血なまぐさい復讐合戦でも、彼らは暗黙のうちに決めたお互いのルールを守るのである。だがこういった時のポトラッチに歯止めがかからなくなると、最終的に対立する組織双方にカタストロフをもたらす。

 ポトラッチ的な遊びは古代アラビアの「悪口比べ(ムアーカラ)」にも通じるところがある。「悪口比べ」はいかに相手をうまく罵るか、応じる方は相手が言った言葉よりもより汚く、かつユーモアを交えて悪口を言い返さなくてはならない。返す言葉がなくなれば負けである。現代のラップディスりバトルはまさにこの「悪口比べ」だ。
 ギリシアでは古来、デーメーテール祭やディオニソス祭の時、公衆の前で風刺詩、悪口詩を朗誦するということがあった。これを「短長格(イアムポス)」と呼ぶ。この悪口合戦もやがて対立を作り、グループに分かれてやり合うようになっていった。
 これに近しい風習は、古代ゲルマン伝承によればアルボイン王の物語の中に、古ノルド語の文献においては「男比べ」、エッダの歌の一つ『ハールバルドの歌』や『ロキの口論』、古代アイルランド『マク・デーソの豚の物語』、『ベーオウルフ』など様々な物語の中に残されている。悪口合戦は古い時代から、様々な文化の中にあったと考えられる。

 どうして人はこうもポトラッチ的なものにのめり込む性質があるのか。
 子供の生活から最高級の文化活動に至るまで、全て一つの願望が働いている。それは自分の優秀さが認められて、人から褒められたい、名誉を授けられたいとう欲求である。これが個人や個人の属する集団が自己を完成しようとするときに働く、もっとも強い動機の一つになっている。だからポトラッチ的な贈与合戦、浪費合戦、名誉合戦、悪口合戦にのめり込んでいく。それがその人間の名誉を形作り、またさらに社会的な立場を人々に認識させるのに役に立つからだ。
 そしてそれらはルールに則って競い合われるから、本書の定義の中によれば“遊び”である。ポトラッチをしている間、当事者たちは遊んでいるのである。社会的生産とはまったく無関係という不真面目な行動でありながら、一方で大真面目にポトラッチの勝者になろうとする。だからこそポトラッチは遊びの一形式であると言える。

 文化は遊びの中から生まれる。
 話は最初に戻るが、文化は遊びとして始まるものでもなければ、遊びから始まるものではない。遊びの中に文化が始まるのだ。社会から峻別された空間の中でルールが形作られ、発達し高度化し、やがて人々が認識するような“文化”を形成させる根拠となる。遊びが「芸」と「技」を生み出し、「美」を見いだす切っ掛けを作り、その成果は確実に私たちの文明のグレードを一歩上げることに役に立つ。
 全くの無意味、無駄、役立たずと長らく言われてきたデジタルゲームが現代は、新しい文化として認められるようになったし、デジタルゲームを作り出す文法・方法論がいま様々な教育の分野に役立てられるときが来ている(それを偉い人たちが気づいて活かせるかどうかだが)。
 遊びは役に立たない、無駄なものではなく、遊びを育み極めることが社会全体をアップデートさせる切っ掛けを作るのだ。

 と、ここまでが本書前半150ページくらいの内容。ここまで出しちゃったらもう本編を読む必要はないのでは? ご安心を。本書は400ページ越えで、ここまでの紹介でもごく一部でしかない。まだイントロダクション、さらにその先を読むための入り口、案内なので、ここから本編を読んでいくといいだろう。

 とはいったものの。
 相変わらず通勤の最中に本を読んでいるのだが、通勤中の20分程度ではなかなか頭に入りづらい。「遊び」の話をしていたと思ったら宗教の話になり、戦争の話になり、古代民族の話になり……とどんどん遊びを巡る迷宮に迷い込んでいくような感覚があった。今回の感想文を読むに当たり、もう一度最初から読み返し、要点をピックアップしてなんとか書き上げてみた、という感じだった。
 カイヨワの『遊びと人間』を先に読んでいたのだが、順序が逆だった。『遊びと人間』は『ホモ・ルーデンス』をリスペクトしつつ批評を入れて、さらに整理した本だった。先に『ホモ・ルーデンス』を読む方が順序として正しいが、しかし『遊びと人間』をすでに読んでいた直後だから迷宮に迷いすぎることなく読み進められたとも言える。
 とにかくも、本書を読むときには充分な時間を作って、ノートにメモを取りながら読むことをお勧めする。ちょっと一息で飲み込むのはつらい本だった。

 だがそのぶん得るべきものは非常に多い。“遊び”がいかなるものなのか、いかなるものと考えられているのか。その知識がついてくると現代をどのように捉えるべきなのか、これを考える切っ掛けになる。
 私が得意とする分野は主にアニメとゲームだが、これがまさにホイジンガの言うところの“遊び”の新しい形であり、これが今、“文化”として形を作ろうという最中だ。私たちは新しい遊びが生まれ、花開く瞬間を目撃する、というわけだ。このことに気付く切っ掛けを作ってくれるし、“遊び”であったものがことごとく上級なもの、固定的なものとなってしまった現代でも、またさらに新しい遊びがどこかから生まれ出るチャンスがあることも気付かせてくれる。
 新しい遊びが花開く最中に、社会がどれだけ新しい遊びを警戒し、警戒しすぎてパニックに陥るか、そのありとあらゆる事例を観察する機会も同時に得られた。いわゆる知的エリートと呼ばれる人々の自慢の教養が新しい文化に対していかに役に立たなかったか、知性が剥離して無様を晒すのか、ありとあらゆる場面を目撃する機会も得た――本人たちにその自覚はないようだが。

 実を言うと、これを書いている現在でも、まだ『ホモ・ルーデンス』を全て読み終えられていない。読み終える前に感想文を書くという、ちょっと不思議な挑戦をしてしまった(実はこれが初めてではない。割とあることだ)。『ホモ・ルーデンス』もまだまだ半ば。遊びを巡る迷宮もまだまだずっと奥があるようである。それに分け入っていられるのが、楽しみである。


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