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映画感想 スパイダーマン ファー・フロム・ホーム

 あっ、Netflixに『スパイダーマン』が配信されている!
 ……と、気付いたものの見るべきかどうかは葛藤があった。というのも、私は映画『アベンジャーズ』を観ていない。『アベンジャーズ』周辺映画も観ていない。そのうちに観よう、機会があったら観よう、収入が出たら観よう……とやっているうちにもう追いかけられないんじゃないか、というくらい溜まってしまって……。
 でも、『スパイダーマン ファーフロムホーム』を観たい! よし、観てやろう!

 ……という感じに見始めたのだけど、あー話がめちゃくちゃに進んでる。主要キャラあらかた死んでるやーん!
 いったい何があってそうなったか、わからないままの視聴だった。

 前半30分のあらすじを見ていきましょう。

 「指パッチン」将軍との戦いを経て、学校はとりあえずの平穏を取り戻していた。ただ、指パッチンやられた人々は変わりないが、逃れた人々は5年時が進んでいた。

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 そんな話はさておき、ピーター・パーカーはMJに夢中になっていて、学校が企画するヨーロッパ旅行の最中に告白しようと計画していた。

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 夜、スパイダーマンは叔母のメイ・パーカーとともにホームレス支援パーティに出席していた。そこで色んな人にこう聞かれる。
「アベンジャーズのリーダーになるんですか?」「もしつぎ地球が襲われたら?」「トニーの後を継ぐ気分はどうですか?」
 スパイダーマンは何も答えられなかった。

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 間もなくピーター・パーカーは学校の仲間達とともにヨーロッパ旅行へ行く。ただし、スパイダーマンスーツは置いて。
 ピーター・パーカーはイタリアのヴェネチアで楽しい一時を過ごし、MJにプレゼントするつもりのブラックダリアを買う。その後、ちょうどよくMJと二人きりになれたが……。

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 水路の水が怪しく波打ちはじめる……。突如、水の中から巨大な怪物が姿を現した。怪物は実態を持たず、水が意思を持ったように逆立って、人の形を取り、ヴェネチアの街を破壊しはじめた。
 その怪物の前に、謎のヒーローが現れる。クエンティン・ベック――通称ミステリオと呼ばれるヒーローだった。
 ミステリオの鮮やかな戦いで水の怪物は退けられる。ヴェネチアの平穏は保たれた。

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 戦いが終わって、ピーター・パーカーはニック・フューリーの呼び出しを受ける。スタークの遺品という眼鏡を受け取り、ヴェネチアの地下に作られたニック・フューリーのアジトへ行く。そこで待ち受けていたのは、ミステリオ――クエンティン・ベックだった。
 ミステリオはこことは別世界の地球(マルチユニバース)からやってきた、と語る。ミステリオがいた世界は、エレメンタルズと呼ばれる怪物達によって滅ぼされてしまった。そのエレメンタルズが次元を越えて、こちらの世界にもやってきたため、ミステリオもその後を追ってやって来たのだった。
 ニック・フューリーはピーター・パーカーに、次なるエレメンタルズの戦いに参加するように言うが、ピーター・パーカーはみんなとの旅行があるから……と断ってしまう。

 以上が前半30分。
 前作『ホームカミング』の話をすると、父親も伯父を失って、父性の支柱がなくなってしまったピーター・パーカーの前に、アイアンマンことトニー・スタークが登場する。ピーター・パーカーとトニー・スタークは次第に父子のような関係性を築いていくわけだが、トニーは誰もが知っているように自分勝手でいい加減で、トニー自身も父親との関係に解消しきれなかったコンプレクスを抱えている。それでも、ピーター・パーカーをちゃんと気にかけている。
 一方のピーター・パーカーはアイアンマンに対して雇い主であると同時に父親のような眼差しを向けていく。尊敬はするが、その愛情を確かめるための反抗もしたいし、自分の実力も認めてもらいたい……父に対して感じる葛藤を、トニー・スタークに感じていた。
 ピーター・パーカーもトニー・スタークも、子供を演じるにしても、親を演じるにしても不器用な二人だった。

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 ところが『インフィニティ・ウォー/エンドゲーム』の二つの戦いの後……観てないので何があったのかわからないが……、アイアンマンはこの世を去ってしまう。ピーター・パーカーにとって父性という精神的支柱を失っただけではなく、「世界の救世主」という途方もない存在になってしまった。一生かかっても乗り越えられない、遠い存在になってしまった。
 アイアンマンをはじめとする「アベンジャーズ」を失って、トラウマを抱えたのは“世の中”も同じだった。指パッチン将軍(名前知らないんだ)という脅威は去ったのだけど、しかしだからといって人々の不安が消えてなくなるわけではない。人々は「もしもまた世界が脅威に晒されたら」と不安に感じ、圧倒的な力を持ったスーパーヒーローを求めている。その期待を、少年のスパイダーマンに一方的に押しつけてしまっている。ピーター・パーカーにとって、それは耐えられない。あのアベンジャーズと同じものは、少年には大きすぎで背負えない。

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 ピーター・パーカーはそんな現実から逃避するように、学校の友人達とヨーロッパ旅行へと行ってしまう。
 ところが旅行に出ると、世界中のどこへ行ってもアイアンマンの肖像画と出くわすことになる。あんなふうに肖像画になって掲げられる存在……というのは西洋ではイエス・キリストくらいなもので、アイアンマンは単に「尊敬される」存在にとどまらず、崇められる存在、宗教的存在にすらなっていた。
 ピーター・パーカーはむしろ世界に出ることで、ありとあらゆる場所でアイアンマンの存在を認識させられるのだった。
 で、その旅行先であの赤と青のスパイダーマンスーツは着ない。旅行鞄にも入れない(叔母が気を利かせて鞄の中に入っていたわけだけど……それは着ない)。「学校の仲間達にバレるから」(多分バレないんじゃないかな)という理由があってのことだけど、いつものスパイダーマンスーツを着ないのは、「スパイダーマンとしてのアイデンティティ」に揺らぎが生じているから。「人々を救うヒーロー」という立場から逃げたい。「学校の仲間と旅行」という体を取っているが、これはある種の「スパイダーマン武者修行の旅」として機能している。

 ピーター・パーカーは人々を守るスーパーヒーローであるアベンジャーズになるか、「親しき隣人」であり続けるかで葛藤している。アベンジャーズになると、ニューヨークでの暮らしを失い、日常も失う。今まで通りに友達と一緒にスター・ウォーズのレゴを作ったりなんかはできなくなる。
 スパイダーマンはヒーローでありながらニューヨークの一般市民であるという半端な存在だ。しかしヒーローというものは孤独であり続けるものだ。一人で何千人もの命を救うために戦う、責任を背負う、失敗したら非難される……そういう立場を引き受けるということになる。多くのヒーローは最初から孤独だったから、孤独になっていくヒーローという立場を引き受けることができた。
 しかしスパイダーマンには日常の暮らしがある。MJという好きな女の子もいる。ピーター・パーカーはそれを捨てられない。

 今回の『ファーフロムホーム』は世界旅行という形を取っていて、「自分はスーパーヒーローではなく半分一般市民だから」という立場のピーター・パーカーがうまく表現されている。「エレメンタルズ」は次にプラハに姿を現すぞ、と言っても、半分一般市民のピーター・パーカーがホイホイと行けるわけがない。
 それもご都合主義で話を主題に持っていく方法が鮮やか。こういうところの脚本が上手い。

 こうしたテーマ性だから、今回ネッド・リーズは「椅子の人」としての活躍はない。というのもネッド・リーズはなんだかんだで「普通の少年」。ピーター・パーカーと住んでいる世界が違う。ネッド・リーズは「普通の人々」の代表的な存在になっている。ネッドと次第に距離が離れていくことで、日常としての自分/ヒーローとしての自分が次第に離れて行っている状況を表現している。

 さて、続いての30分を見ていきましょう。

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 ピーター・パーカーは学校の友人達と合流するが、次の行き先が「プラハ」になったことを知る。「ホテルがひどい」と抗議をしたところ、旅行会社が行き先をアップグレードしてくれたのだ。
 ピーター・パーカーはまんまと次なるエレメンタルズが出現する予定地へ行くことになった。
 その道中のバスの中で、スタークの遺品である眼鏡をかけてみる。イーディスという名前のサングラスは超高性能デバイスで、命令すればドローンを稼働させて人を殺すことも可能だった。
 ピーター・パーカーはちょっとした手違いで、クラスの友人に殺害命令を出してしまう。それをどうにかこうにか回避するのだった。

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 プラハに到着すると、ピーター・パーカーは代わりとなるダークスーツを身につける。学校の友人達には、安全のために事態が終了するまでオペラハウスへ入っていてもらう。
 間もなく、予想された地点にエレメンタルズが姿を現した。ピーター・パーカーとミステリオコンビの戦いで、エレメンタルズを撃破する。

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 その戦いを終えて、ピーター・パーカーとミステリオはバーに入って語り合いをする。ピーター・パーカーは自身の日常を捨てられないという思いをクエンティン・ベックに打ち明ける。
 さらにイーディスは自分ではなくクエンティン・ベックにこそ相応しいと考える。スタークの後を継ぐのは自分じゃない。もっと経験豊富でしっかりした大人が後を継ぐべきだ……と、そう考えて……。

 前半30分、後半30分とバランス良くバトルシーンを挟みながらお話が進んで行く。この後、映画のちょうど1時間というところで、大きなツイストが登場する。ここから、映画のトーンが一気に変わる、面白いポイントになっている。

 今作は徹頭徹尾、少年スパイダーマンの成長物語となっている。この後、幻覚だらけのバトルシーンが入り、ピーター・パーカーは翻弄されてしまう。その幻覚の内容は、全部ピーター・パーカーの内的なイメージ、ピーター少年がいま現在葛藤を抱えているものばかり。バトルシーンの体を取りながら、ピーター・パーカーが自身の内面と向き合うようなシーンとなっている。
 ここでピーター・パーカーが幻覚に翻弄され続けるのは、まだ「自分がどうあるべきか」の指針が見えていないから。「迷っているから幻覚を見破れない」という展開を取っている。「敵とのバトルシーン」を描きながら、ピーター・パーカーの内面を掘り起こしている、うまいシーン作りだ。

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 敵と向かい合うことが、自分自身と向かい合うことと繋がってしまっている……というのが今回のお話。ではピーター・パーカーはいかにして戦うことと向き合うのかというと、ハッピーとの対話シーン。

「その通りだ。なれっこない。誰もアイアンマンにはなれない。トニー自身も。トニーは親友だった。常に悩んでいた。あれこれ迷ってキレたりもした。だが君のことは迷わなかった。君の能力を信じてたから、後のことを託したんだ。いま、友達の危機に頼れるのは自分一人。君はどうする?」

 トニーはスパイダーマンを信じていたから自分を犠牲にすることができた。ピーター・パーカーはトニー・スタークが自分を信じて託してくれていたことを知り、まごついていたら友達が危ない……この二つのことを示されてハッと行動をする。
 友達のことは一番に助けに行かなくちゃいけない。この行動を起こすことは、スタークが預けたものを引き受ける……ということだった。そのためには、「後継者の証」であるイーディスを取り戻さなくてはならない。

 ようやく「世界の救世主」という立場を引き受け、ここで今作初めての赤と青のスパイダーマンスーツを身にまとって戦う。赤と青のカラーリングはご存じの通り、イエス・キリストを示すカラー。「救世主」を示すカラーだ。こういうところで盛り上がる展開を持っていく手際の良さは流石。よくできている。

 しかし実はピーター・パーカーは「世界の救世主」になれないのだ。それはなぜかというと、映画の最後の最後である事件が起きてしまう。最後の最後がなかなか面白いフックで、なるほど3作目が楽しみになる仕掛けだ。何が起きるのかは、観てのお楽しみとしよう。

 『アベンジャーズ』を観ていないのでわからないところが多かったけれども、『スパイダーマン』はやっぱり楽しかった。『スパイダーマン』シリーズもアベンジャースシリーズに加わることができて、今までシリーズとは違う局面に入っていったことがわかる。今後の展開もまだまだ楽しみなトム・ホランド=スパイダーマンだった。

 ただ、一カ所だけ引っ掛かったシーンがあって、それがイーディアスを使ったシーン。ピーター・パーカーの過失で、クラスの友人を殺しかけてしまう。
 あのシーンにはどんな意味があるのかというと、イーディアスがどんな力を持っているか紹介すること、クラスの友人ブラッドを紹介すること、それでいて本編から外れたサイドストーリー的なシーンを展開させたい……。
 という要件全てを満たしているのだが、引っ掛かるのはピーター・パーカーの過失で起こしてしまった騒動だということ。もう少し他のアイデアはなかったのだろうか……。

 ところで、最近の私は個人的に日本映画ばかり立て続けに観ていて久しぶりのハリウッド映画だったのだけど、観ていると「あっ」と気付くものがあった。というのも、ほとんどの台詞を読まなくてもいいようにできていた。カメラの動きや俳優の表情だけで内容の7割が伝わる。台詞を1つ2つ読み飛ばしたり聞き逃したりしても大丈夫なように作っていた。  例えば次のようなシーン。

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 映像はホログラムに映し出された地球が真っ赤になって崩れていく。内省的なベックの横顔。その次に指輪をいじる手元をクローズアップする。
 この場面を、台詞も字幕を見せず、画像だけ見せて「どういったシーンなのか想像してみろ」と出題すると、ほとんどの人が正解に行き着くだろう。言葉が伝わってなくても、映像だけで伝わるよう、工夫されている。それで安っぽくならないよう、奥行き感も感じさせる作りになっている。なるほど、世界で売れる作品を作る、とはこういうことなのか……。
 日本人が日本向けに映画を作る場合、なまじ言葉が伝わるから、言葉に頼ってしまう傾向があるんだ。「言葉が通じない国の人に向けて」作ることが大切なんだ……ということを、久しぶりに観たハリウッド映画でハッと気付かされた。こういうところからは学びたい。


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