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2月2日 ロボットへのイタズラがやめられない。

 いつも行っているドラッグストアには、空気清浄機が店内を自動で巡回している。目の前に人がいるとちゃんと避けて、店の中を巡回漏れなく回り続ける、なかなか賢いロボットだ。  あるとき、小さな子供がこのロボットをわーと声を上げながら走り寄って、バンバン叩く……という光景を見かけた。
 ……あのロボット、たぶん数十万円する代物なんだから、そんなことしちゃダメなんだけどな……。弁償とかになったら、自分たちが大変なのに……。おそらくロボット設計者も、「子供がイタズラする可能性」を考えて、それなりに丈夫に作っているんだろうけども。
 最近、いろんなところでロボット化が進んでいるのだけど、一つ懸念があるとしたら「子供のイタズラ」。レストランもロボット給仕なんかすでにあるけど、子供のイタズラに対してどういう対処法を取っているのだろうか……。
 ところで、あの子供たちは人間に対して同じようなことをするか? 知らないおじさんのところにわーっと駆け寄って、バンバンと叩いて逃げる……なんてするだろうか。しないはずだ。そんなことをすれば怒られる……とわかっているからだ。「人間に対してやったらヤバい」その認識は小さな子供にもある。下手すると殴られる。ところがロボット相手だと、その意識がポロッと抜け落ちてしまう。ロボットが相手だと殴り返される、怒鳴り返される……という心配が一切ないからだ(もしもロボットが反逆して子供を泣かせたら、親が企業に対して訴訟を起こしかねない)。反撃が来ないとわかっているから、子供はロボットを見ると、「イタズラしたい」という欲求を抑えられない。
 それで壊したら数十万円の弁償になるんだけど……。そこまでの意識がポロッと抜け落ちてしまうのが怖い。

 ではどうしてこの辺りの意識がポロッと抜け落ちるのか? その理由を、ここでは「認知能力」という側面で考えていくとしよう。
 まずここで定義する「認知能力」とはなんなのか? 世界をどの程度の解像度で認識できているのか、その能力を指すことにする。
 人は一つの風景を見た場合、そこにある情報のごく数パーセント程度しか読み取ることができない。ところがほとんどの人は、画像情報があったら、100%受け取っている……という勘違いをしている。そんなわけはない。人間はそんなに頭のいい生き物ではない。人間は一つの情報を差し出されても、そこから理解できる情報量はごく数パーセント、しかも相当に簡略化とカリカチュアをしなければ読み取ることができない。“社会常識”があまりにも強烈に染みついている人は、“社会常識”に捕らわれすぎていて、対象を思いっきりカリカチュアして見てしまう。それはすでに元の情報から相当に変質した物なので「理解した」とは言わない。社会常識ががっちり身につきすぎた人は、事件が起きても事件内容を理解できない――そういう大人って一杯いるよね。
(カリカチュア 人物の性格や特徴を際立たせるために、誇張や歪曲を施すこと)
 認知能力の考え方をするときに便利なのがイギリスのロビン・ダンバー先生が提唱した「ダンバー数」だ。ダンバー数とは人間が一度に認知可能な人間の数は100~250人まで。だいたい150くらいが標準。それを越えた人間と一度に交流することはできない……と言われている。これを越えてしまうと、ところてん方式で頭から抜け落ちてしまい、顔を合わせて話しても相手の顔を記憶することはできない。
 ダンバー数は頭の良い悪いに関係なく、人間の限界がそこまでだ……という話だ。ここからわかるように、人間の認知能力の限界値なんて、意外と大したことがない。わりと簡単に認知能力の容量限界に達してしまうことがわかる。

 ところでネットの世界へ行くと、罵倒、暴言、セクハラ……なんでもありだ。オンラインゲームによくありがちな話だが、あちらの世界へ行くと、みんな糸の切れた凧のように口が悪くなる。相手の都合や事情を無視して、自分のエゴ全開に接するようになる。
 ネットの世界には、その向こうにも自分と同じように人間がいるはずだ……。いや、そんなことはみんな知っている。常識だ。
 しかし「理解する」と「認識する」との間には大きな隔たりがある。これが認知能力の限界。
 オンラインゲームのなかにいるキャラクター達はコンピューターが作り出したBOTではない。人間だ。しかしこれは理解はしているが認識はできない。「現実感がない」と言い換えたほうがいいかな。認識ができないから、どこか現実の人間とは違うように接してしまう。女の子キャラクターがいたら遠慮なくセクハラ発言をしてしまう人も多い。これもその向こうに人間がいることをどこか現実として感じることができていないから。
 はじめに子供がロボットにイタズラする話を紹介したが、同じようなことを大人でもオンラインゲーム上でやってしまう。
 大人であれば子供よりも優れた認知能力を持っていて、優れた社会性を発揮できるか……というとそんなことはない。実際には大人はいかにも社会性を発揮しているかのような「フリ」ができるようになっただけで、認知能力そのものは鍛えられていない。

 これ、私はネット世界に起きがちな「罠」だと考えている。みんなネットの向こうには数万数千の人間がいると理解しているはず。そんなの子供でも「知ってるよ!」と言うだろう。でも「認識」できていない。認識ができていないから、その場で問題になるような発言をポロッとやってしまう。
 炎上してやっと「認識」するに至る。いや、炎上でもしない限り、永久に認識することができない。人間の認知能力って、その程度のものでしかない……ということに、教えても理解させることはほとんど不可能。自ら大失敗でもやらかしてもらわない限り、これをなにかの事例を持ち出して理解を促すことは不可能だろう。

 実はネット世界だけではなく、現実世界でもこういったセクハラをやられがちな人がいる。それは「とても可愛い女の子」だ。パッと見で小柄で力がなさそうで可愛い女の子は、なにかと人々のエゴの対象にされやすい。例えばいきなり罵倒される……ということも可愛い女の子ほどやられがちだという。普段は怒らないような温和な人であっても、相手が小さな女の子になると容赦なく怒鳴ったりもする。「この子なら反逆してこないだろう」……みたいに思われるのだ。セクハラ、痴漢は言うまでもなく。
 世の中的には「可愛く生まれたら人生イージーモードだろうな」とか言われるのだが、実はそうではない。めちゃくちゃに可愛かったりすると、逆に人々にエゴを向けられる対象にされてしまう。可愛すぎる、美しすぎる女の子は世の中のエゴを暴き出す存在になってしまうのだ。

 こんなふうに認知能力の問題について話をしているが、きっとここまで読んでもピンと来ていない人は半分くらいいるだろう。なぜなら認知能力なんてものは学歴や収入の高い・低いで推し量ることができない。数値で示すことができないし、数値で示したところでそれになにか有用性があるのか……というとほぼ何もない。認知能力を高めたところで学校の成績が上がるか、給料が上がるか……といわれたら1つも上がることはないはず。現代人は「役に立たないものは認識する必要なし」という考え方だから、いくらそんな存在を提唱したところで理解できる人とできない人とが出てくるのは仕方ないだろう。

 こんなお話しをしたのは、これを執筆しているこの時というのは、スシロー店内でのイタズラ動画で炎上した少年の話題が出ているからだ。このイタズラによってスシローの株価は一時的に170億円も低下。さらに全店舗で対応するために投資もしたし、客足が遠退いたせいで新たに広告を打ったりもしたから、被害総額がどれだけ出たのか見当も付かない。たった1つの動画で全国展開しているチェーン店にここまで打撃を与えることができるのだ。実に恐ろしい。
(これを商売敵に意図的に仕掛けたり……とか考えるとより怖い。最近は一見して区別のできないフェイク動画を作ることができる時代だ。もしもライバル会社がこの手のフェイク動画を仕掛けてきたら……)
 どうしてああいったバカな問題が絶えず起き続けるのか……というとそれは認知能力の低さから。イタズラ動画を出した少年は、間違いなく認知能力が非常に低い人間だ。一つのイタズラでどれくらいの問題が起きるのか想像ができなかった。いや、「理解」はしていただろう。しかし「認識」はできていなかった。

 しかし、実は「仕方ない」といえる理由が一つだけある。というのも、人間は「社会」という大きな構造をそもそも認知することができない。最初にダンバー数というものを紹介したが、人間が一度に認知可能な他人の数は150人くらい。だいたい「村」くらいの人間しか認知することができない。人間の認知能力は、本来は「村」社会くらいが限界だったのだ。その想定で、私たちの脳は設計されている。
 ところが人間は、巨大な社会を築き上げてしまった。一つの街に数千数万人という人がいて、その中に恐ろしく複雑な社会を作り上げてしまっている。これを全て認識できるか……というと人間の脳では不可能だ。
 だからどこかでヘンな抜け落ち方をする。
 その一つの例として、ゴミのポイ捨て。コンビニの近くの通りを歩くと、必ず溝にからあげクンの箱がポンと捨ててあったりする。それでそこに住んでいる人にゴミを拾わせる……という手間を押しつけているわけだが、そういう手間が発生するかも知れない……という認識がポンと抜け落ちている。自分とは関係ない。そこに人が住んでいることは理解しているが、認識はできない……という状況だからゴミのポイ捨てができてしまう。
 この問題にどう対処するのか、というと「マナー問題」にするしかない。「そこに人が住んでいて、迷惑でしょ」と諭したところで理解できても認識させることはできない。認知能力の限界を超えた外で起きている話だから、どうしてもピンと来ない。だから「それはマナーだから」という話にするしかなくなってしまう。それで、そのマナーを破ったら本人の社会評価が落ちてしまうから……という問題に変えてやらないとゴミのポイ捨てをなくすことはできない。
 人の認識を超えた問題になると、「なぜ」が理解できなくなる。「それはルールですから」という説明の仕方をしないと人間は理解することができない。これが認知能力を超えちゃった都市で生活するための方法となっている。

 これに対する究極の解消法は、都市での暮らしをやめて、100人以下を定員とする村を作ってそこに住むこと。そうすればゴミのポイ捨ては誰もやらなくなる。なぜなら全員が知り合いという世界なので、即座に自分に返ってくることがわかるからだ。街のゴミが「他人事問題」ではなく「自分事問題」になる。自分の生活の場を、自らゴミを捨てて汚すやつなんていない。
 ただし、この社会では「プライバシー」なるものはほとんどない。100人以下の村になると、全員が顔見知りの世界となる。ちょっとしたことでも噂になり、ほっといてくれない世界となる。人は「他人の秘密を暴き、誰かと共有したい」……という欲求に抗うことができない。現代人にこのプライバシーのない生活が耐えられるか……だ。ほとんどの人はこれを天秤に掛けて、「都市での生活」を選ぶだろう。それくらいに人はプライバシーがない状態、というストレスに耐えることができない。人はある程度無責任でいたい……そういう気持ちが都市での生活を選ばせてしまうのだ。
(私だってFANZAでどんな動画を見ているか、なんて人に知られたくない)

 すでに書いたように、認知能力の高い・低いは学歴とはなんら関係ない。世の中的に頭がいい人、社会的地位が高いと思われている人でも、常識感のない発言や行動をしてしまうことはよくある。高学歴・高収入という人であっても認知能力が致命的に低い人……という人はいくらでもいる。学歴の高さと認知能力の高さには相関性がない。
 例えば世界的に優れたアーティストが、若い女優に対して枕営業を要求する……なんて話は昔からよくある。逆襲される恐れのない可愛い女の子が相手だと、心の遠慮がポロッと抜け落ちて、自分のエゴを押しつけしまう。これも認知能力の低い人によくある話。
 なぜ認知能力が問題視されないのかというと、それを数値で示すことができず、特に価値はないと世の中的に思われているからだ。何度でも書くが、認知能力がいくら高くても給料は1円も増えない。
 ではどうやったら認知能力を高めることができるのか……というとその手法はほぼ存在しない。あるとしたら……炎上でも起こすくらいかな。大失敗をやらかさないと人は学ばない。できるなら他人の失敗を見て、「自分はああなるまい」と思うこと。

 怖いのは、これから逆に下がる恐れがある……ということ。
 産業革命を切っ掛けに制度化された公共教育は人類全体のIQを押し上げることに効果を上げた。さらに近代のIQは上がり続けて、1947年から2002年までの間にIQは18ポイントも上昇しているという。
(IQテストはイギリス発のもので、イギリス人が100になるように設定されている。イギリスが100になるように是正しているけども、全体的に上がっている……ということ。もしも1950年代のテストを現代人がやるとトンデモないスコアを出すことになる。でも100になるように是正されている)
 「フリン効果」というものがあって、人類は数年おきにIQスコアが数ポイントずつ上昇し続けていた。フリン効果が正しければ、この先も人類のIQは上がり続けて、最終的に「神」になるのではないか……。
 ところが1990年あたりがピークで、それ以降のIQは低下をし始めた。「逆フリン現象」が起き始めている。
 デンマークの調査では1998年から2003年まで1.5ポイント減少。イギリスでは1980年から2008年を比較して2ポイント減少。上位組だけを絞り込むと、IQは6ポイント減少。日本でも若い層で読解力が下がっている……という報告が出ている。
 原因は解明されていない。
(フリン効果 ニュージーランドの研究者、ジェームズ・R・フリンによって提唱された)

 そうはいっても、IQ問題と認知能力の問題は別問題。だがIQとともに認知能力も同時に下がり始める……なんてことは想定できる話だ。というか、すでに認知能力が低下しちゃったから、ネット上にバカなイタズラ動画をあげるバカが出てきてしまったのではないか。
 ものすごく当たり前の話として、今の若者達にとって現代の社会は、そこにあるのが当たり前。自分が生まれる前からあるのが当たり前。その仕組みがあまりにも当たり前としてそこにあるものだと、それは「便利なシステム」でしかなく、そこに「人間」の手触りを感じることができない。
 例えば、一つのシステムが構築される過程を見ていると、そこでどんな人間がいて、どんな奮闘があったか……そういう生々しさを持って見ることができる。しかしそのシステムが生まれたときから当たり前としてそこにあると、それは無機質な「システム」としてしか認識することができない。
 例えば水道にしても、明治時代まで遡ると、水道の水を飲んでお腹を壊し、死亡した……という人がものすごく多かった。井戸水よりも水道水が危険な時代があったのだ。特に新生児の死亡は非常に多かった。母親が井戸水よりも水道水のほうが安全ではないか……と与えた結果、死亡してしまった、というケースが多かった。
 その後、塩素殺菌法が導入され、「水道水による死亡」は劇的に低下した。
 しかし私たち世代になると、蛇口を捻ると「綺麗な水」が当たり前のように出てくる。その水を手に入れるまで先人が苦労した……なんて歴史に思いを馳せる……なんてことは絶対にしない。そんなことをやっていたら、若い人たちに「なにやってんの?」と白い目で見られるだろう。その後に生まれた世代はそんな歴史、知らないからだ。綺麗な水が出てくるのは当たり前の「仕組み」でしかないからだ。
 若い世代はそんな感じに、ありとあらゆるものが完成された時代に生まれてきてしまう。すべてのものが「当たり前」のものとしてそこにある状態で生まれてしまう。身の回りにある便利なものの背後に、人間がいる……という認識はどうしても生まれない。“考える必要がない”状態だ。そうした集積の中で暮らしていくと、もしかすると認知能力につられて知能も低下していくものなのかも知れない。

 と、ここまで話をしてきて全部ひっくり返す話をするが、私はイタズラが好きだ。イタズラがしたい!
 私だけではなく、誰だって潜在的には何かちょっとはみ出したことをやってみたい……そういう欲求を持っているはずだ。「そんな欲求は毛ほども持っていません」……という人がいたら、この嘘つき野郎! と言ってやるところだ。
 私はいろんな局面でちょっと悪いことをしたくなる……という欲求を持っている。それを抑えながら毎日過ごしてる。これは誰だって本音で語ると同じだろう。
 確かにここには大きな社会というものがあって、その社会が作っているルールに従わなければならない。そうしなければ大混乱を引き起こす。そんなのはわかっている。でも、ちょっと悪さをしたい……というどうにもならない欲求は間違いなくある。それで時々、本当にやらかしちゃう人が出てきてしまう。これはある意味仕方ないともいえる。だから社会にはほんのちょっとの“遊び(余裕のこと)”があったほうが良い。

 そういうときの対処法はエンタメの世界でイタズラをすること。ゲームの世界がいい。ゲームの世界ならヘンな遊びは受容される。場所を選んでぞんぶんにイタズラ欲求を満たすのがいいだろう。

『イタズラガチョウがやってきた!』というゲームの一場面。タイトルでわかるように、ガチョウになって人間にイタズラする……というテーマのゲームだ。これが楽しい!

 と、こんなふうに話をひっくり返したのは、ここまでの話をそのまま押し通して、「世にあるありとあらゆるイタズラはダメ!」とか言い始めると、息苦しい社会ができてしまう。エンタメの世界でもイタズラはダメ。ものを壊しちゃダメ。女の子をエッチな目で見ちゃ駄目……そんなの、やってられるか!
 「でもイタズラがしたい」――というのが人間の「裏の本質」でもある。だったらせめてエンタメの世界であればそれを受容するくらいの余裕があってもいいはずだ。


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