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8月12日 コミケにちゃんと参加できないまま、時ばかり過ぎてしまった……

 そういえば、本来ならそろそろコミックマーケットの時期か……。開催されなくなって、2年目だっけ? お祭りが中止になったみたいで、ずいぶん寂しくなったね。
 数年前の時点では、オリンピックでコミケが開催できないかも……という話だったのに、それとはまったく別要因でオリンピック後も開催できなくなるなんて、思いもしなかった。

 私はコミックマーケットといえば、友人に連れられて、2度ほど行ったことがある。特に目的もなくブラブラと様子を見て回って、それでも楽しかったんだよね。
 ああ、これはいいところだな。いい雰囲気だな。ちゃんと参加したいな……。
 あとコスプレやっている女の子がみんな可愛くてね……。声かけてみたかったな……(声をかける勇気もなく……写真は一杯撮ったけど)。
 そう思ったが、思っただけで参加することはなく、そのまま時が過ぎてしまった。いつものやつである。
 まったくの未経験の人が、知識なしでコミケ参加なんて危険すぎるので、断念。知っての通り、私には友人知人は一人もいないので、どうにもならなかった(あの当時の友人は、間もなく音信不通となった)。

 この間読んだ大塚英志と東浩紀の対談本には、「コミケはオタク達にとって大きな物語」と語っているのを見て、ああなるほど、という気がした。オタク達による「オタク的なもの」、という共有意識はどこで作られるのかというと、コミックマーケットだったんだ。
 私はそれは「参勤交代」だと思った。
 参勤交代は地方の人々が集まり、江戸に特産品を持ち込んで、江戸の人達は地方の特産品を受け取って芸能を発達させ、地方の人々をもてなした。江戸がどうしてあんなふうに芸能や文学を発達させられたのか、というとそれは参勤交代があったから。
 で、地方からやってきた大名とそのお付きの人は、江戸で見た楽しいものを地方に持ち帰っていき、地方でその縮小版が作られていく。『ホモ・ルーデンス』を著したホイジンガは「遊びが文化を作る」と本の中で語っていた。こうやって日本の文化観は時間をかけて作られていったのだ。
 昔の日本というのは、交通がとことん不便だったから、峠を越えると文化も言葉も違っていた。明治の言文一致運動が起きる以前は、日本は地方ごとに言語がまるっきり違っていて、ある程度の離れた出身の人との対話ができなかった。今は「方言」程度でしかない差異だが、明治以前は地方出身者との対話ができないくらい違っていて、日本語より英語の方がコミュニケーションが取れやすかったというくらいである。
 それでも漠然と日本がなんとなく日本的なものを共有してこれたのは、「参勤交代」があったからだ。もし参勤交代がなかったら、日本の文化観はもっとまとまりのないまま、現代まで来てしまっていたかも知れない。

 毎年の夏と冬にコミックマーケットに詣でる必要があるのは、オタク達にとっての参勤交代だった……というわけだ。地方のオタク達が自分たちで作った同人誌を特産物の代わりに持ち寄り、中央に集まって東京文化に接触し、帰っていく。そうすることで東京の文化観が地方へ拡散されて行き、なんとなくの文化的なまとまりを作り出す。

 それに、コミックマーケットはやはり「祝祭」として機能していた。祝祭だから、なんとなくその場所を通過することで、一体感が得られる。共同意識が作られる。
 私ですら、友人に誘われてあの場所へ行っただけなのに、一体感を獲得することができてしまった。こうした空気感を獲得することで、オタクはオタクとしてのアイデンティティを改め、共同意識を強くしていくのだ。

 まあ、どっちにしても私はちゃんと参加しなかったから、オタクとしての一体意識を獲得することはできなかったんだけどね。

 そのコミックマーケットもネットが出現して以降、「そもそも参加する必要があるのか?」という疑問にさらされるようになる。合理的に考えると、必要あるかどうか……というと特にない。自分の嗜好を発表したいのなら、別にTwitterでもブログでもpixivでもいいわけで、コミックマーケットが唯一自意識を発表する場というわけではなくなっていった。マネタイズの問題にしても、やはりコミックマーケットまでわざわざ行く必要あるか……ということになる。
 合理的に考えると、こういうことになる。コミックマーケットの「祝祭」としての機能など考えなくなると、合理的判断で「不要」ということになる。合理的意思の中に、「祝祭」なんて想定は入ってこないはずだし、普通の人々に「祝祭」とか「一体感」といったものは抽象意識にしか感じられないので、「意味がない」と判断されるのは仕方ない。こういう発想で物事を考えるのは、民俗学の勉強をしている人に限られる。
(合理的に考えがちな人は、自らの嗜好を発表するだけ……と考えがちになって、そこに行くことで受け取っているものがある……という発想に至らない)

 ネット時代に入って、「コミックマーケットってそもそも行く必要あるのか?」という問いが提示されている中、とうとう開催できないという事態に陥ってしまった。
 これは「コミケというお祭りがなくなって寂しいね」という話だけではない。オタクとしてのアイデンティティを確認する場所がなくなった……ということと同義だ。オタク達にとって、「自分たちが何者か」を確認する場所がなくなった、ということだ。
 ネットは小さく小さく分断されたコミュニティのささやかな繋がりを作るだけの場所だ。そんな場所で、コミックマーケットのような「大きな一体感」を獲得するなんてできるわけがない。
 でも、現代人の合理的思想は、そういう一体感なるものが自分の思想・思考にどんな意義があるのか……など考えない。考えなくなったところで、考える機会を作る「参勤交代」と「お祭り」が一度に喪われてしまった。
 このことがもたらす、文化観的な影響について、考える人は……。

 いないだろうな。

 そもそもコミックマーケットがそういう場だった……ということすら、誰も認識してなかっただろうし。毎年参加していた人ですら。

 こういうのは、なくなってから数年が経ち、新しい世代の様子がなんか変だぞ、自分たちと何かが違うぞ……となったときに、ようやく気がつくことじゃないかな。ああ、そうか、コミックマーケットがなくなったからだ……って。
 開催できない時期がさらに数年続いたら、きっとそうなるんでしょうな。コミックマーケットがなくなったことの影響に気付くのは、そういう時じゃないだろうか。


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