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9月19日 日本人の知性は「理解力」ではなく「暗記力」に特化させているのは、そもそもそういう気質だからじゃないだろうか?

 ネットニュースでよくある話題に、「映画や演劇の観劇中にスマートフォンを開くのが許せない」……というのがある。
 なぜダメなのか……というのは色んなニュースサイトに書いてあることだからそっちを見てもらうとして……。

 じゃあどうして映画や舞台の観劇中にスマートフォンなんか見る人がいるのか? という答えは簡単で、その人の集中力が低いから。集中力が低いから、目の前の物語に集中できない。映画の物語を理解できない。では、なんで集中力が低いのか、というと理解力が低いから。理解できないから、目の前のものに集中できない。「読解力が低い」も同じところから来てるよね。
 そういう人は世の中にはそれなりにいるもので、私の親なんかも、映画を観ていても登場人物が喋っていないシーンになると、横にいる人とお喋りを始めてしまう。ダイアローグのないシーンは意味のないシーンだと思い込んでいる。だから物語の全体像を理解しない。映画が面白いという感覚すらない。そもそも映画だけではなく、どんなものでも2時間一つのものに集中することすらできない。
 でも、そういうのが普通の人たちの感覚なんだ。普遍的なものなんだよ。思い起こせば、私の身の回りの人たちはみんなそういうタイプだったから、「世の中そういうもんだよ」と私は考えるようになった。話は逆で、私みたいなタイプの方がおかしい。そういうものなんだ、と割り切ればなんとも思わなくなる。

 ではこういった手合いにどうやって観劇中のスマートフォン操作を止めさせられるのか。ベストアンサーは「集中力を上げさせる」ということだけど、それはその人の理解力を高める……ということが先で、それはその人間の性質問題だからかなり難しくなる。ではもう一つの方法があるとしたら、「ルール」にしてしまうこと。すなわち「マナー問題」にすること。
 マナー問題にすれば、「なぜ?」を知らせる必要がない。「そういうものなんだ」、ということになる。どんな人でも「マナーであれば仕方ない」……という考える。マナーを守らないと自分の社会評価を損ねてしまうので、これこそ現代人にとって致命的なので、誰でも「マナー」ということであれば守るようになる。

 ただし、この方法は諸刃の剣であるところがあって、社会的な局面が変わったとき、ルールを変更しなければならない状況であるのに、マナーであるから絶対視せよ……ということになってしまう。
 例えば2019年中国武漢発の新型ウィルスが世界に蔓延した後から現在に至るも、外出するときはみんなマスクを付けることが当たり前……という社会になった。が、あれから3年も過ぎて、そろそろ件のウィルスも性質がわかってきて、ワクチンが浸透したし、ウィルス自体が弱毒化をはじめ、それにそもそも屋外であっても喋らなければ感染リスクゼロということもわかってきた。
 世界的に見れば新型ウィルスはすでに日常的なものになっていて、日本以外のどこの国を見てもマスクなんか付けていない。もはやそこまで怯える必要のないウィルスだとわかってきたからだ。
 しかし日本だけが1億総マスク状態から抜け出ることができない。それどころか、マスクを付けていない人を見かけると、「マスクを付けろ!」と怒鳴りつける始末だ(むしろこの行動の方が感染のリスクを高めているのだが……)。「○○警察」が陥りやすいのが日本人の気質だ。

 これは日本人が村社会的気質から抜けられない……というのもあるが、それ以前にルールの前提が変わった時、それに合わせたルール変更ができない、ルール変更がやたらと苦手……という性質があるんじゃないか……とふと気付いた。

 そういえば、電車内で携帯電話の使用は“マナー”として禁止にされている。このもともとの理由は、携帯電話の電波がペースメーカーに影響を与えるからだ……と語られていたが、しかし間もなくこれはただの都市伝説に過ぎない……ということがわかった。携帯電話の電波ごときでペースメーカーの調子が狂うわけはないし、そんなヤワな設計のものが世の中に出るわけがない(もし本当なら、メーカーが回収しているはずだ)。
 この時点で電車内での携帯電話使用禁止の根拠はなくなったわけだが……でもその後も電車内での携帯電話の使用は“マナー問題”として禁止にされた。根拠を変えて、形だけが残ってしまった。もしも緊急の電話がかかってきたとしても、受けてはならない……というくらい徹底している(電話に出てしまったら「○○警察」出動だ)。
 実際のあったことだが、大きな地震が起きたとき、電車内の携帯電話が一斉に鳴る……という事態が起きた。「地震速報」だ。ところが携帯電話が一斉に鳴る、という現象を前にしたとき、電車内に居合わせた特定の人たちが逆上した。
「電車内では通話は禁止でしょ!」
 と。
 携帯電話を禁止にする理由がなくなってしまったけれど、マナー問題にしてしまったから、もはやそれを覆すこともできなくなってしまった。あらゆる例外も絶対に許さない……それが○○警察たちだ。

 と、こんなふうに、一度「それがルールだ」「それがマナーだ」ということにしてしまうと、それを変更できないのが日本人。一度定着や習慣化してしまうと、それが意味のないものでも、状況的に変えなければならない局面に来ても変えられない。いつまでも古い習慣をズルズルと引きずってしまう。もしかすると、それが日本人の「気質」じゃないか……とすら思えてしまう。

 というところで、こんな動画をどうぞ。

「安倍政権の消費税増税を高く評価する」大丈夫か土居教授!?安倍政権は放漫財政という嘘。(池戸万作)

 まあ作業中、横でいろんな動画を流していて、この動画も気付けばふらっと流れていたってやつだけど……。
 内容は10分くらい見れば充分です。要するに土居丈朗という経済学者の著書に対する批判動画なので、だいたいの流れがわかれば充分です。

 この土居丈朗という人のプロフィールを見てみよう。1970年生まれで慶應義塾大学経済学部教授、専門は財政学、公共経済学、政治経済学、経済政策論……ということらしいが。
 しかし著書を見ると、言っていることが滅茶苦茶。安倍政権について、消費税増税したことは評価できる。日本の公共事業は明らかに過剰である。賃上げしなかった企業が残ったのが遺憾。……と、要するに緊縮財政派、新自由主義経済派の学者。著書は読んでないけれども、どうも「経済理論的な本」というより、相当のイデオロギー的な本らしい。
 確かに、概要を聞いただけでもやばそうな本というのがよくわかる。

 経済の問題に対する解法は「時と場合」による。全ての問題が一つの対策で解決されるわけではない。今は緊縮財政がデフレを招いているという問題が起きているが、緊縮財政自体が悪というわけではなく、インフレが起きているときなどは緊縮財政は有効な施策だ。ただデフレ下で緊縮をし続けている我が国が異常なわけで……。このおかげで日本は30年近い不況から抜け出すことができない。
 どうして慶應義塾大学の教授をやっているような人が問題認識を誤るのか、正しい解決法を提唱できないのか。
 それはおそらく、こういうことだ。そのように学校で教えられたから。きっと彼は優等生だったのでしょう。学校でそのように教えられて、その時は正しい理論と信じられていた。たぶん土居丈朗先生が生徒して教えを請うたときは、新自由主義なんかも世の中をよくする画期的な理論だったんでしょう。
 しかし世相は変わったし、経済学の考え方は変わった。考え方を変えなければならない節目はとっくに過ぎている。でも変えられない。

 新自由主義の危なさは、もう世界中で共通認識になっている。
 これはチリで実際に起きたお話……。1970年頃、チリの若い経済学者はアメリカに渡り、当時“最新の経済学”であったミルトン・フリードマンの「自由主義経済」を学んで帰国した。経済学者達は学んだことを政府に働きかけ、1981年、水道が民営化されることになった。
 その結果、どうなったか? 権利上は誰でも水を購入することができる。しかし実体は資本力のある企業が水を買い占め、工業用水にジャブジャブと使用することになった。一般の人には水が供給されなくなって、仕方なく庭にタンクを置いて、雨水を濾過して使用する……ということになってしまった。
 企業というのは「ボランティア団体」ではなく、「利益追求団体」であるので、お金を出してくれる人に対してはいくらでも水を供給する。その結果、チリ国内で水源が枯渇するようになってしまった。環境問題を引き起こしても、お金を出してくれる人がいるなら水を供給する。民営化したために、国が一切管理しない世界になってしまったから、企業間の無法地帯が出現することとなってしまった。
 利益追求団体に倫理の概念は通用しない。儲かるなら環境をいくらでも破壊してよい……というのが企業の考え方だ。利益追求団体はそれ自体が動物的な存在なので、搾取を始めると無限に搾取を始める。こうした団体に「倫理」についていくら説いても無駄なので、どうすればいいかというと、「ルール」にする。ルールであって、それを守らないことが企業イメージを損ねる、つまり社会価値を損ねる、というリスクが生じるようになれば、ようやく手を引くようになる。理解力のない手合いには、このやり方が結構効くんだ。

 日本でも2001年の小泉政権の頃から「なんでも民営化すると良くなるはずだ!」といわれるようになった。自由主義経済の考え方が上から下まで国民全体に一気に広まった時代だ。
「国が管理するからいつまで経ってもサービスが良くならないのだ。民営化すれば競争が生まれ、サービスの品質がよくなるはずだ」
 と誰もが語るようになった。確かに競争をすれば品質はよくなる分野というのは確実に存在する。エンタメ関連の分野は確実に競争したほうが良い(例外ありだが、これは別のところで話をしよう)。しかしインフラに関わるものを民営化すると、いろいろな面で危ない事態を引き起こすことになる。企業論理で水や電気の値段が上がっていくし、企業は「ボランティア団体」ではなく「利益追求団体」なので、儲けが出ないとなると撤退する。国営であればどんな田舎でも水と電気は供給されるが、企業になると「儲けが少ないから」と撤退もあり得る。
 それでサービスを得られない人に対して「自己責任だ」と言いがちになってしまう。同じ国民なのに、その生活を守ろうという意識も失われていく。自由主義経済は人間の思考も変更させ、貧富の差で人間を分断させてしまうのだ。これは日本のみならず、どこの国でも起きている思想の変化だ。現代人は多くの人がすでに「自己責任だ」を口癖にしちゃっている。その思想がどこから来たのか、少しは考えた方がいいだろう。
 自由主義経済はそういう危うさを孕む思想だということを理解しなければならない。サービスの質は良くなることはあっても、儲からないと思ったらサービス自体提供されなくなっていくのが民営化の怖さだ。

 という経済学の話は私も門外漢なのでこれくらいにして……。私もよくわかってないし。
 日本の一流大学の先生は困ったことに、いまだにミルトン・フリードマンの自由主義経済の信奉者だ。「あらゆるものは民営化させて競争させればいい」と主張する。
 しかし自由主義経済はすでに色んな国で実験的に導入されて、「あれはもうダメだ」という結果が出ている。それどころか、競争にすべてを任せるのは危険。ごく少数の「稼げる人」だけが恩恵を得て、それ以外の多くの人が不利益を被りだけ。どうしようもない格差社会を生み出してしまう。その結果がわかってきたので、世界中で「自由主義経済はもうやめよう」という動きが出ているところだ。
 ところが日本の大学の先生だけは「自由主義経済」を信じ続けている。なぜならルールの変更ができないからだ。すでに社会的にルールを変えるべき局面に来ているのにかかわらず、ルールを変えられない。なぜなのか?

 この理由について私の考えは――実はさほど頭が良くないからじゃないか。
 というのも、ルールの変更ができないのは、そのルールができたそもそもの理由を理解できていないからだ。
 一つの問いに対して、それがルールだ、あるいはマナーだから守れ……という教え方をするのは、理解力の低い人に対する対処法だ。理解力の低い人は、そもそもの「なぜ?」を説明してもなかなか理解できない。だから「それはそういうものなんだ」と教え込む。「暗記させる」やりかただ。
 理解力の低さと読解力の低さはセットになっている産物で、こういう人たちに向けた教育は常に「詰め込み型」になっていく。なぜそうなるのか、という理由や理屈はさておき、「それがルールなんだ」と教える。その方が明らかに手っ取り早く確実だからだ。
 副産物として出てきがちなものが「○○警察」だ。ルールやマナーを守ることに「正義」の感情が結びつきやすい人だね。実際にあった事件だけど、マスクを付けていない人を街で見かけたある男は、家に引き返し、スコップを持って「マスクを付けろ!」と殴りかかったとか……。ルールを守ることに盲信して、そこに正義を見出してしまうと、こうなる。日本人はどうもこういう性格に陥りやすい。なぜなのか?

 しかしちょっと待て。
 例えば土居丈朗先生は高学歴の超エリートだ。子供の頃から秀才エリートで、そのまま一流大学に入って博士号も取って、現在に至っている。私たちよりもはるかに優秀な頭脳の持ち主であるはずだ。
 それが引っ掛かる問題で、もしかするとそれが知力の有り様が違うからじゃないか……と私はいま考えている。おそらく土居丈朗のような人は、教えられたことであれば、頭に入れることができる。頭に入れたことをいつでも取り出すことができる。しかし――それが理解力の高さとは別なのではないか。すなわち考える力は特にない。
 これは一部の大学エリートだけの話ではなく、もしかすると日本人全体に当てはまるある“気質”かも知れない。
 というのも、日本人はルールを守るということに関しては非常に優秀な成績を発揮する。ルールとして決めたことならば、それこそ日本全体で守ろうとする。ただしこれには問題があって、ルールを変える局面が来たときに、変えることができない。いつまでも過去に決めたルールに引きずられてしまう。

 日本人は基本的に頭が良い。IQテストなんかをやると、欧米のスコアが97~100辺りであるのに対し、日本人の平均IQは105。日本のみならず、中国、韓国、台湾、シンガポールといった北東アジアの国々はみんな平均的に頭が良い。日本人のあまり知らないことだが、欧米の人より平均的な頭脳は日本の方が上。
 ただ、その知性がどういった方向に振り分けられているか……という話をすると、私がいま推測していることは、日本人は物事の元になっている理由・理屈を考えるのが非常に苦手。そこをなかなか理解しない。その一方で、ルールとなっているものならばものすごい早さで順応し、それに対応した行動を取ることができる。日本人は確かに頭がいいが、スキルポイントの振り分け方を、「理解力」の部分ではなく、「暗記力」のほうに特化させている。
 だから一流大学の先生であっても、理解力はさほど高くない。理解力は高くないから、ルールを変える局面が来ても、その以前のルールをいつまでも引きずり続ける。
 一流大学の先生だけではなく、ごく一般人であっても、性質は意外と同じ。理解力が低いから、ルールをなかなか変えられず、その以前のルールに引きずられる。そのルールは社会的にもう必要ないぞ……という局面が来ても、習慣化してしまってなんとなく守り続けてしまう。

 おそらくは学歴エリート達というのはそういう理解力に特化した人たちではなく、暗記力のみを特化させた人たちなのではないだろうか。そういう暗記力のみを重視させてきたから、学歴エリート達がどこかおかしくなっていく。
 ちょっと変な例として、実は学歴エリート達も、意外とUFOや幽霊の話をする。実は都市伝説にハマってしまう人も多いとか。あるとき、「東大生がUFOの話ばかりしている」と先生が呆れた……みたいな話もあった。
 私もUFOや幽霊の話はしょっちゅうするけども……そういうものが好きだからだけど、思考実験として「それはどういうものか」を考えるのが楽しいからだが。ある意味、「本当は信じてないから」こういう話をしている、という感じでもある。これを考え続けることが、次に作る物語のネタになるから……というのもあるし。
 どうも東大生がしているUFOの話はそうじゃなく、もっとオカルト寄りのほうらしい。どうしてそうなるかというと、そもそも幽霊がどういうものなのか……そこを考える力がない。都市伝説にしてもまともな理解力があれば、そうそう信じるようなものではない。理解力があればすぐに都市伝説の薄っぺらさに気付くし、どうしてそういうものが広まるようになったのか、ということを推測することもできる。東大生の語るUFOや幽霊話は、どうやらテレビで見たワイドショー的な理解力でしかないらしい。
 そういう理解力ではなく、暗記力のほうを学歴社会の中で優位に置いたから、エリートほど変な感じになっていく。「なぜ?」を理解しないし、考えない。ルールを変更すべき局面が来ても、ルールを変えることができない。そもそもそんなルールがなぜ作られたか考えることができず、それをイデオロギーとして守ろうとしてしまう。

 自由主義経済はあれはヤベーぞ……と世界ではそうなっているのに、日本人だけはいまだに自由主義経済の信奉者だらけ。特に高学歴インテリ層に多い。この件に限らず、日本の高学歴権威達は、海外で実験的に導入され、「あれはダメだったよ」という制度を取り上げて、「欧米は今こうなっている! 日本は遅れている! 日本も取り入れるべきだ!」とか言い始める。こういうのも、本当はそれがどういったものなのか、意味を理解していないからかもしれない。
 結果はどうであれ、「制度を変えた」という勲章が欲しいがために言っている……場合も結構あるそうだけど。

 こんなふうに考えていくと、実は日本人は理解力が低い民族なんじゃないか……という考えになっていく。一般人もエリートも。日本人はIQは欧米より間違いなく上。優秀な頭脳を持っている。ただしその優秀さは「理解力」のほうにあるのではなく、いつの時代も「暗記力」のほうに特化させていた。
(中国や韓国も同じ性質なのかわからないから、今は「日本人のみの特質」としておく)
 そういう特質であることを、多くの人は気付いていない。「頭が良い」といったとき、「理解力」と「暗記力」のどちらかを指しているかと言えば、たぶん暗記力のほう。だから大学のエリートですら、実はさほど理解力の高くない人が平気でいる。そこを問題にされないのは、そこを審査されたことがないからだ。

 ここで話は最初に戻ってくるが、なぜ映画や演劇の観劇中にスマートフォンを見てしまうのか、それは理解力が低いから。それは実は一部の人ではなく、日本人に多く見られる特質だから。
 それでなぜ観劇中にスマートフォンを見てしまう人がいるのか、というとそれは未だにルール、あるいはマナーとして徹底できていないから。「それがルール・マナーですよ」ということにすれば、観劇中にスマートフォンを見てしまう人は確実に減るだろう(ゼロまではいかないにしても)。
 本当なら、それが「なぜなのか?」ということを理解できればいいのだけど……。理解する能力に欠けているという国民性であることを考えると、「ルールですから」という教え方をするしかない。ただ、この教え方をしてしまうと、ルールを変えるべき局面が来たとき、前のルールに引きずられて変えられなくなる……というのがあるけど。


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