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ドラマ感想 全裸監督2

 『全裸監督2』を視聴!
 ……2021年6月配信のドラマを、10月になってやっと視聴。まあ、私はだいたい世間で話題になっている時には見ないタイプなので。こういうのは自分の気の向いた時に見るのが一番です。

 さて『全裸監督2』。時代は1990年に入っていく。
 1990いといえばバブルが崩壊し、消費増税が導入され、ここから日本は30年にわたるデフレスパイラルに突入していき、ついには「衰退途上国」と言われるようになる。この辺りから私たちは、政府、マスコミ共謀による嘘――「政府の財政が逼迫しているから消費税は必要なのだ」「国民一人あたり借金○○円」といった嘘を信じ込まされ、政府・国民一体となってデフレ状態を維持し続けることになる。
 『全裸監督2』の冒頭シーンは渋谷で土井たか子が選挙演説をやっている場面から始まる(名前を出しちゃってることにまず驚く「土丼たか子」とかじゃないんだよ?)。その選挙カーにも「消費増税導入」の文字が見られる。日本の悪い意味での転換期を示す象徴的な場面でもあり、政界にも女性進出が見られるようになった場面を冒頭に掲げている。
 第4話あたりだったと記憶しているが、銀行の偉い人達がゴルフを興じる場面がある。お爺ちゃん達はボールが砂場に入ってしまってなかなか動かせず苦労するが、しかしその中で新入りである女性幹部だけはポンとその横を切り抜けていく……というシーンがある。つまり男性中心社会が崩壊し、砂場に足を取られるように苦労していくことになるが、その横を女性がどんどん進出して通り抜けていく……そうした時代の転換が表現されている。

 まあ、それとして……ほう、これが噂の「渋谷交差点セット」か……。渋谷の交差点はしょっちゅう映画やドラマに出てくるから、今後のために渋谷交差点そのものをセットで作ってしまおう……と計画されたもの。その渋谷交差点のど真ん中で物語が展開し、その様子をクレーンショットで捉える……今までのドラマ撮影では絶対にあり得ないようなシーンが展開する。渋谷交差点はそこそこに広い空間を持っているから、あの中をエキストラ一杯動員してカメラを動かすと、なかなかダイナミックな画が撮れる。なるほど、ああいったシーンを見ると、作る意義はある。これから渋谷交差点を贅沢に使った映画やドラマが、このセットから生まれてくるだろう。

 1990年という時代は確かに「バブル景気崩壊」の年なのだが、しかしその瞬間、あらゆる業種が突然ダメになった……というわけではない。経済の話をすると1990年に入って全てがダメになった、みたいに語られがちだが、実際にはタイムラグがあった。バブル時代の空気というか、「貯金」のようなものがまだしばらく残っていて、その後、数年かけて徐々に色んなものがダメになっていった……というのが実際だ。
 例えば、バブル時代の象徴と呼ばれる「ジュリアナ東京」は1991年5月から営業。バブル景気が崩壊してから開業していた。で、1994年、短い歴史を終える。

 漫画業界を見てみよう。1990年の「週刊少年ジャンプ」の発行部数は530万部。その当時の連載作品は『ドラゴンボール』『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』『聖闘士星矢』『ジョジョの奇妙な冒険』『シティーハンター』『魁男塾』『ろくでなしブルース』『電影少女』……今の若い世代でも知っているような名作がずらりと並んでいる。
 漫画は景気云々は別としてコンテンツが強いかどうかだが、漫画業界もまだバブル景気時代の勢いと恩恵を得ていた。読者側に旺盛な需要があり、それに応える形で雑誌も単行本も売れまくっていた。
 ここから数年かけて時代に引きずられるように雑誌業界も不景気に突入していく。週刊少年ジャンプはこの後、いまいちパッとしない時期を抜けて『ワンピール』『ナルト』『ブリーチ』といったヒット作を再び生み出していくが、売れるのは単行本ばかりで雑誌のジャンプはなかなか勢いを取り戻せず。不況の影響を受けるようになる。
 ゲーム業界はどうだっただろうか。1990年はその年の終わり頃にスーパーファミコンが発売され、ゲーム業界そのものが新しい時代に移ろうとしていた時期だった。ソフトは『スーパーマリオワールド』『F-ZERO』『ドクターマリオ』『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』『アクトレイザー』『ツインビーだ』『桃太郎伝説2』『熱血硬派くにおくん番外乱闘編』『ロックマン3』……現在でも続くシリーズものIPや名作が一杯発売していた。スーパーファミコンカートリッジはやたらと高く、そのうちにも9000円や1万円超えタイトルが出るようになったが、それでも出すと数十万やミリオンの売り上げが出ていた。『ドラクエ』シリーズや『ファイナルファンタジー』はカートリッジの新品が1万円以上でも100万本以上売れていた。バブル崩壊後数年間は、まだ消費者側にそれくらいの余裕はあったのだ。
 『全裸監督2』の劇中にも色んな1990年映画のポスターが登場してくるが、どれも今でも通用する名作ばかり。1990年は今から30年前だが、「遠い昔」でもないのだ。
 1990年はバブルが崩壊したが、特に第3次産業と呼ばれる業種はいきなりダメージを被ったのではなく、じわじわと時代に引きずられて衰退していき、今の時代のように漫画もゲームも出してもたいして売れない……という時代になっていった。

 おそらくAV業界もそんな感じだったのだろう。『全裸監督2』でもAV女優のお給料として札束でポンと支払われている。ビデオ1本のギャラが50万円とか100万円とか、感覚おかしくなるような額だったようだ。AV業界もまだバブリーな時代を引きずって、みんなバブル時代の感覚でいた。
 おっと、「顔射」も1990年生まれの表現だったのか。もっと昔からあるんだと思ってた。「顔射」じゃなくて「顔面シャワー」の略で「顔シャ」だったんだな……。

 オープニングを見てみよう。
 第1期シリーズの時、オープニングは「裏通り」だったが、第2シリーズは「表通り」が描かれる。表通りで抱き合っている男女の姿が描写され、性がオープンになっていった時代を反映している。
 女性が堂々と性を語り、自己実現として表現する。黒木香が撒いた種は、確実に時代を変えていた。漫画の業界では80年代にはすでに女性がエロ漫画を描き、性を表現する時代に到達していたが、AV業界でも女性監督がセックスを描写して自己表現する……という時代に入っていた。
 だが同時に、未成年の女の子がパンツを売って小遣い稼ぎをする「ブルセラ」や、「援助交際」といった問題も生むようになった。女の子達が、自分の身体が商品になることを知り、その身体を切り売りするという問題だ。女性が自己実現として性を表現し売る一方で、安易に性を売って、性を買う人達の問題も顕在化していくことにもなる。
 自己実現としての性表現と、「性の商品化」は紙一重の問題だ。なぜなら、消費する側にその区別がないからだ。
 ドラマの後半、落ち目の西村とおるが事務所所属のAV嬢たちに「お前達はただの商品だ!」と怒鳴り散らす場面がある。しかしAV女優達は「私たちは人間だ」と反発し、対立する。これは村西とおるが落ち目であることを自覚し、自棄っぱちになって暴れるシーンだからこう言っているのだが、しかし一方で村西とおるがAVを作品ではなくただの「商品に過ぎない」という、「作り手精神」を失ってしまっていることを描いている。
 性を描写することは人間表現であり、それを表現することは自己表現であり、それを高めたものはアートだ。だが安易に陥るとただの「商品」となる。また「性処理」として必要とされる時、どうあっても性は「商品」となる。率直な欲望に答え、そこに金銭のやり取りが発生すると、やはり性は「商品」となる。商品としてしか接していないごく普通の人達にとって、「作品としての性」はなかなか認識しづらい。「商品としての性」と、「自己実現として表現された性」との区別がない。性産業は常にその問題に晒されている。

 そろそろドラマのストーリーを見てみよう。
 村西とおる率いるサファイア映像はバブル期において成功を掴み、そこそこの資産家になっていた。
 お金ができると銀行家が訪ねてきて融資を勧められる。「土地を買いませんか? 今だったらどんどん値段が上がりますよ~」なんて勧めてくるが、後の時代の人がこれを見ると「ゲェ」となる。間もなくバブルが崩壊するわけだから、その土地の値段が上がることはない。そうした時代の見通しができず、儲かるために土地を買って転がそう、別荘を買おう、絵画を買おう……またバブル感覚が続いていた。
 さらに銀行家は、村西とおるに「衛生放送事業」の存在を知らせる。ビデオはビデオ屋まで行かなくてはならないが、衛生事業を手にすれば家に居ながらにして24時間いつでもAVを見られる……! つまりAV業界が念願の「プラットフォーム」を手にすることになる。この衛生放送事業に、村西とおるは夢を抱くようになる。

 しかし衛生放送事業はたかだか年商100億円程度の成金に過ぎない村西とおるなんて相手にしない。そこは最低でも年商は3000億円……スーパーセレブの世界だった。村西とおるは門前払いを喰らってしまう。
 これに奮起した村西とおるは、「よし、土地を買うぞ! 別荘を買うぞ! クルーザーを買うぞ!」と息巻くわけだが(こういう資産を買って転がして儲けよう……という狙い)……バブル崩壊を知っている後の人がこれを見ると、すべてカタストロフの予兆に見えてしまう。ヤバいヤバい……。
 ついでに衛生放送事業も実はババ。なぜなら衛生放送は、最初から最後までイマイチパッとしないままフェードアウトして姿を消していくからだ(まだ残ってはいるけども)。そこに夢なんぞありゃしない。村西とおるは、その時代の「地雷」を丁寧に一つ一つしっかり踏みながら、バブル崩壊の時代を進もうとしていた。
 オープニング映像を見ると、ミケランジェロの『アダムの創造』のようなイメージで天と地から差し伸べられた指がビデオカセットに触れているが、よくよく見ると、「指が離れていく瞬間」が描かれている。やがて「見放されていく」ことが予兆として示されている。
 ありとあらゆるカタストロフの予兆が張り巡らされ、危険信号が眩しいほどにギラギラ輝き出す――それが第1話だった。

 とにかく儲けよう……と考えた村西とおる率いるサファイアは、エロビデオの粗製濫造を始める。とにかく数を増やそう、突飛なことをして目立とう……結果バラエティ豊かな「企画もの」が大量に作られていくわけだが、しかしAVとしての本質である「勃つか?」「抜けるか?」というと疑問符が付くような珍作を乱発していくことになる。
 しまいには当時人気アイドルの性癖を暴露するゴシップ的なビデオシリーズまで作り出され、社会問題化するが、村西とおるはその騒動を利用してビデオ販売に勢いを付けようとする。
 「もっとちゃんとしたAVを作ろう。あの頃みたいなAVに戻ろう」――滅茶苦茶な作品ばかり作っていく村西とおるに、社長川田は次第に不満を募らせるようになっていく。
 やがて社長川田と村西とおるの対立は表面化していき、「お前らは俺と社長どっちにつくんだ」とみんなに呼びかけると、社員達は全員村西とおるに付いていき、川田はたった一人取り残されてしまうのだった……。

 どうして村西とおるがここで転換できなかったのか、というと村西とおる自身がバブル時代の申し子だったから。とにかく時代の勢いだけに乗って、派手にやって波を作って儲ければなんでもいい! ……という時代の考えで生きていた。
 そうした考えに、社員全員がついていってしまうのは、そういうバブル的な「イケイケドンドン」的な人間の方がそりゃ面白いに決まってるから。バブル的な情熱を持った人間にみんなついて行きたがる。今の時代に村西とおる的な情念で突き進む人間がいたら、みんな面白がって付いていくはず。いかにも真面目で堅実なことしかしない川田みたいな人を魅力的だと思う人はそうそういない。
 でもこれもバブル期崩壊を目前にしたカタストロフの前章となっていく。

 川田と決別した村西とおるは「ダイヤモンド映像」を旗揚げして、新たな作品を作り始める。AV女優達もたくさん抱える事務所へと成長していくが、その陰で存在感を弱めていくのが黒木香。すでに事務所の中でも「大御所」の扱いになっていて、特別視されるがゆえに女の子達と馴染めないし、AVにも出演できない。どうやら『SMっぽいのが好き』1本出演して、以降はほとんどAVに出演できていなかったらしい。それでも「有名人」になってしまったから、事務所の「宣伝看板」というマスコットになっていた。
 黒木香はセックスを通して、ようやく自分自身の存在を語ることができた……黒木香にとってセックスは自己表現として必要なものだが、特別な立場となったがゆえにその場から遠ざけられてしまう。テレビ出演が多くなり、時代の代表者として祭り上げられていくが、次第にそういった場で演じる自分と(つまり、黒木香がキャラクター化し、そのキャラクターを演じ続けなくてはならなくなった)、自身が持っている「本当の自分」との間に乖離が生じ、精神が不安定になっていく。AVの現場から大切にされすぎるがゆえに遠ざけられ、愛すべき村西とおるは衛生放送事業のことばかりで黒木香を見向きもしなくなっていく。黒木香は不安定になった上に孤独になっていく。
 ダイヤモンド映像の事務所には、黒木香の巨大なパネルが飾られているが、この写真がいい。まず表情が困惑顔。手元は中途半端で組み合わされておらず、衣装は肌を隠すような保守的で退屈なもの。どこにも「黒木香」が表現されていない。現在の黒木香の情緒を完璧に表現している。そんな情緒不安定な黒木香の巨大なパネルを掲げている辺りに、ダイヤモンド映像の地盤の危うさが見て取れる。

 村西とおるはその後もバブル感覚で作品作りを進めていくわけだが、粗製濫造は続き、AVの本質である、そもそもの「抜けるエロ」ですらない珍作の数々は、次第に売れ行きに陰りが出始めてしまう。おまけに(川田がいなくなったから)金管理もいい加減になっていく。それでもいまだバブル感覚の村西とおるは、「ビデオを出せば売れるんだ」「他がやらない変なことをやればいいんだ」と勢いだけで進めようとする。売れないし面白いかどうかもわからない作品を作り続けることに、社員達も消耗し、村西とおるのやり方に疑問を持ち始める。
 なんやかんやがあって、村西とおるは念願の衛生事業を(かなり無理矢理に)獲得し、その第1回作品の制作に入るのだが、問題が生じる。主演にAV界の大御所黒木香に決めて撮影に入ろうとするのだが、あまりにもいい加減な撮影プラン、いい加減なシナリオに黒木香は反発する。
 そのシナリオの内容はわからないのだが、乱雑に書かれた文字、しかも大量に紙を切ったり貼ったりしている。内容はわからないが、真っ当な人が見ると「なんですか、これ?」というものだったのだろう。スタッフの一人、三田村も「撮り方次第では、いい感じに……」と戸惑いを浮かべている。みんな引っ掛かりを感じつつも、村西とおるの信者になっているから、何も言い出せない。
 黒木香は、こんないい加減なものじゃない。ちゃんとしたAVに出演したい。ちゃんとした撮影の中で、性を表現したい……。と訴えるが、村西とおるはぜんぜんその気がなく、「あんなもん撮れるか! あんなもんはたまたま撮れただけだ!」と怒鳴り散らす。黒木香はそんな村西とおるに失望し、ダイヤモンド映像を去って行く。

 その代理として出てきたのが、千葉ミユキだった。
 千葉ミユキが登場したのは第2話だが、その最初の登場シーン、まだメイクがバブル期を引きずって派手なアイシャドウを塗っている。まだバブリーな時代をみんな引きずっていたのだ。
 でも物語が進むと、次第に風景やファッションが今とそう変わらないものへとなっていく。1990年代はじめ頃から現在に至る30年ほど、ファッションも停滞していたのだということがわかる。
 そういえば三田村のファッションも、今の若者とそう変わらない見た目になっている。第1期シリーズの時は、「いかにもなオタク」というアイコン的な格好をしていたのだが、第2期シリーズではもうそういう格好もしない。
 なぜなら、オタクのファッションも、90年代にもなるとどこの街にいる若者達とそう変わらなくなっていくからだ。テレビなどのメディアでは、今でも「いかにもオタクファッション」というアイコン的格好で登場する芸人達がいるのだが、(もしかすると、ああいった格好のオタクが秋葉原に本当にいると思っている人もいるのかも知れないが)90年代には完全に駆逐されていた。どこの街に行っても、どんな階級の社会に踏み込んでも、だいたいみんな似たような格好をしている。みんな似たような、無難な格好をし始める。そういう時代に入っていった。

 ドラマのストーリーに戻すと、千葉ミユキこと芸名・乃木真利子を第2の黒木香に据えてAV撮影を再開させるが、これは再起の切っ掛けにはならなかった。
 不動産融資の総量規制が始まり、「バブル崩壊」がいよいよはっきりした形で現れるようになった。村西とおるが買った土地や別荘やクルーザーといったものはその時点で負債となってしまう。頼みの綱である衛生放送事業はスタートしたものの、事業を維持するのにも莫大なお金が必要だし、ユーザー側にとっても開設のハードルが高すぎて(初期費用に数十万円もする)、契約数がまるで伸びず、大した利益にもならない。
 それでも未だに感覚がバブル時代だった村西とおるは「夢」のほうに賭けてしまう。そしてここまで稲光のごとく輝いていた危険信号が一気に顕在化する。バブルは終わったのだ。村西とおるはここを切っ掛けに一気呵成に転落していく。

 ダイヤモンド所属女優達もみんな去って行き、スタッフ達も去って行く。
 三田村とラグビーは公園で泣きながら「会社辞める」と告げるのだが、このシーン、公園の周囲を不自然なくらい学生やサラリーマンが通り過ぎて行く。公園の中をあんなふうにサラリーマンが通り過ぎるなんてあり得ない。では何を表現したかったのかというと、三田村やラグビーは、村西とおるが見せる「バブルの夢」を見続け、時代に取り残されてしまった……ということを表現している。
 時代はとっくに「バブル崩壊後」に向けて、堅実に、ファッションも地味なものに変えて、どうにかこうにか生きる道を模索しはじめている(AV女優だった奈緒子も現実に戻ってしまう)。三田村やラグビー達は、そうした時代感にも取り残され、置いて行かれてしまって、やっとその現状に気付いて愕然としているのだ。

 黒木香はアルコール依存に陥って、ベランダでうっとり目を閉じて手を宙にのばし、そのまま転落してしまう。
 どうして黒木香がうっとり目を閉じながら転落したのか、というと黒木香もバブル時代の夢を見ていたから。とっくに終わった夢を見て追い続けて、文字通りな直喩表現で転落を体現してしまう。だから自殺未遂ですらない。時代の代表者に祭り上げられたからゆえの顛末であった。
 黒木香は昏睡状態に陥るが、その後目を醒ました時、元の佐原恵美に戻ってしまう。黒木香の人格は転落した時に死んで、佐原恵美の精神から消えてしまっていた。
 村西とおるの成功は「黒木香」という霊力の加護によるものが大きかったから、その黒木香を失った村西とおるにはもう何も残さてていないのだった。

 それからのエピソードはひたすら転落に次ぐ転落に次ぐ転落。どん底のさらにどん底へとアクロバティックに落ちていく様が描写されていく。
 そこからの物語は、はっきりいって面白いものじゃない。観ている方も胃がキリキリするような、煉獄そのもののような描写が延々続く。そんな中でも、村西とおるは奇跡的に生きのびてしまう。もはや、ゴキブリの方がいっそ潔い良いよ……というくらいの異常な生命力で、信じがたい幸運と奇跡をいくつも重ねて生存する。村西とおる自身すべてを失うし、村西とおるの周囲も死屍累々……長年連れ添った仲間達が次々のこの世を去って行く。第1話から予告されていたカタストロフが具体化されていってしまう。
 最後に行き着いた先は路上生活者。ただのホームレス・村西とおるだった。
 このホームレス描写だが、ちょっと疑問だった。綺麗すぎる。ディテールにこだわったドラマなのに、ここだけ「おや?」と引っ掛かった。

 ある時代を作り、社会そのものを変えた村西とおるだったが、90年代に入って一気に転落していく。嘘みたいな話が続くが、多くは実話というのが恐ろしい。ちょっとそこらの映画でも観ないような奇想天外すぎる人生の数々は、物語として面白すぎだし、刺激的すぎる。なるほど、これは映像化たりうる生き様だ(作品が面白いというか、村西とおるの生き様が面白い)。しかし「AV業界」という難しい問題がテーマになっていて、なかなか映像化しづらいところを、Netflixがタブーを打ち破って見事に映像化してくれた。これは大きな成果だ。

 村西とおるが投げかけた時代や表現に対する疑問は、現代でもどこかしら引っ掛かりを残す。
 例えば、AVのモザイク問題。日本では性器にモザイクをかけることが当たり前になっていて、そこで「なぜ?」と疑問を表明することは少ない。多くの人は思考停止に陥って、「モザイクをかけるのが当たり前」と考え、モザイクがかかっていないエロ映像を見ると「正義感」から怒り出す人もいるくらいだ。
 でも、よくよく考えるとかなり奇妙だ。ネットを通して色んな国のエロサイトを見ることができるが、性器にモザイクなんぞかかっているのは日本だけ。モザイクがかかっているエロ画像を見ると「ああ、日本のものか」とわかってしまう。頭のいい人はことあるごとに「国際化が~」とか「欧米では~」とか「日本は遅れてる~」とか言うが、だったら性器のモザイクも「おかしいだろ」と言ってもいいはずだ。なぜそこを指摘しないのか――というところに「エロの壁」がある。エロにまつわる問題になると急に思考停止に陥って、「それが常識だから」と言い出し始める。
 私も正直なところ、性器への規制がどこからやってきたものなのかよくわからない。なにしろ、これについて言及している文献が極端に少ない。どうやら明治時代に始まった表現規制らしいのだが……その切っ掛けも理由もぜんぜんわからない。そんなよくわからないものを後生大事に守って維持し続ける……こんなおかしい話はない。
 村西とおるは第1期シリーズの時は盛んに「本当のエロ」を訴えてきた。セックスも見せかけではなく「本番」にこだわったし、「モザイク規制」にも逆らってきた。隠されているものを、明らかにするんだ。隠されているのは本当のエロじゃない……と。それで実際に大きく時代を動かしてきた。
 ヘアヌード解禁も、村西とおるが語ってきたできごとの延長だ(作中、現在では存在しないことになっている宮沢りえ写真集『サンタフェ』の表紙が出てくる)。
  AV表現が変わっただけではなく、現在の女性進出も、多くは村西とおるの功績によるものだ。第2シリーズ第1話の冒頭で、政界への女性進出を描いたのは、「俺の成果だ」と主張するためだろう。女性が公の舞台で語り、活躍する場、という土壌を村西とおるがAVの世界で築き上げてきた。
 ただ、その村西とおるも90年代にはいる頃にはフロンティア精神を失って、時代に取り込まれるただの1人になってしまったのが残念だ。

 エロに関してはまだ語り足りていないところもあるはずだ。なぜエロで語るのかというと、タブー視し「常識だ」という思い込みを捨てるためには、エロから語ったほうがいいからだ。エロにこそ、ありとあらゆるタブーが集積されている一方で、そのタブーを突き破る切っ掛けがある。タブーを顕在化するためには、エロから語ったほうがいい。
 現代は性差別の問題が大きな社会で語られる時代だ。例えば女子制服はスカートが基本だが、これは価値観の押しつけだ、ズボンを履いて通ってもいいはずだ……という意見が今はある。だったら男子生徒だってスカートを履いたっていいじゃないか、と思うのだが、「それはダメだ」と多くの人が反対する。女子に対しては「もっと自由を!」と言うのに、男子に対しては「慣習に従え」と言う。これだって差別だが、これが差別だとはほとんどの人は認識しない。女性は解放されたが、男性は解放されたと言えず、むしろ男性こそ社会圧を受けている。その男性の社会圧について、ほとんどの人が自覚していないし、自覚していても発言してはいけない空気がある。
 結局のところ、フェミニストがやりたいのは「男性の模倣」でしかない。女性には文化的に築きあげた「美意識」というものがあるのだが、フェミニストはただこれをイタズラに破壊して回っているだけに過ぎない。欧米式短絡的フェミニストの追従という安っぽさを見透かされているから、日本では軽視される。

 性同一性障害の人は、自分が思う性別の服を着たがる。この時、自分が思い描く性を、誇張気味に表現する。女性脳の男性は、世の女性がしないような、女性性を前面に出した格好をしたがる。反対の場合も同じだ。
 どうしてそうするのかというと、女性の姿をしている自分……を社会に受け入れて欲しいから、どうしてもその姿を誇張して表現してしまう。誰だって性で自己表現をしたいし、それで社会的に認められたい、受け入れてもらいたいという欲求がある。その欲求の正体を、社会そのものはあまり理解できていないし、フェミニスト達はこの「女性的なるものの美」を破壊し、機会を失わせようとしている。
 性同一性障害の人の性は、「社会的な性」にまつわる問題だが、「生殖の性」にまつわる問題を抱えている人だって一杯いる。黒木香のように、セックスを通して自己表現をして、その自分を認めてもらいたい……そういう欲求を抱え、作品作りに邁進する人達もいる。そういう人達に対して、冷淡な目を向けるべきではなく、むしろ議論の切っ掛けにすべきだ。だがそこで「エロの壁」が邪魔をして、何も考えないどころか、引退した元AV女優を差別しよう……という発想が生まれてしまう。みんな「エロの壁」の前にいるから、自分たちがどうしてそう行動するのか、考えない。
 私もエロ小説なんかこっそり書いているが、書いてみてわかるのは、エロは表現者にとって「告白」だということ。あの作品もあの作品も……みんな「告白」。エロ漫画もエロ小説もエロビデオも作り手の切実な想いが一杯に込められたキメラだ。それは自分で書いてみないと気付かないことだが。
 どんなものであれ、セックスを通して表現されたものは、市場に出ると「作品」ではなく、ただの「商品」になる。一発抜くための道具になる。ほとんどの人は消費者だから、「商品」という側面しか見えない。本当ならそこで考える切っ掛けがあるはずなのだが、ほとんどの人が「商品」という目くらましに騙されて、そこまで考えようとはしない。「考えない自分」を肯定してしまう。なぜなら「エロの壁」があるからだ。
 その「エロの壁」について考えるために、エロから物事を考えていく……ということは突飛なことでもなんでもない。むしろ真っ当な思考方法でもあるだろう。

 エロについては考えることは多い。村西とおるはタブーを打ち壊すことで(意図せずとも)その提起はしたし、その結果として女性の社会進出は進んだ。女性の地位を押し上げたのは、他ならぬエロの力だ。「性の商品化」として認識されるアダルト作品は結果的に時代を変えている。そうした時代の過程を込みで、『全裸監督』という作品と向き合うのもいいだろう。


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