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4月14日 ジョジョアニメを見て熱が上がり、ジョジョ実写映画を見て冷めるの巻

 今さらだが『ジョジョの奇妙な冒険』アニメシリーズ第1期を視聴した。「ファントムブラッド」編と「戦闘潮流」編の26話。
 テレビ放送時観なかったのは、第1期の頃は表現に試行錯誤しているな……という感じがあったから。

ジョジョ 戦闘潮流 jojo-0

 『ジョジョの奇妙な冒険』はかなり特殊な漫画で、そのままの方法でアニメにすることはできない。どこが「特殊」なのかというと、「時間」と「空間」の捉え方。この辺りの話を追求すると長くなるので省略するが、あの漫画をそのままアニメの映像にしようとすると、かなり奇妙な画になる。というか、実際なっていた。アニメにするということは静止している漫画に「時間」と「空間」を与えることだが、そうすると漫画にあったあの空気感が壊れてしまう。『ジョジョの奇妙な冒険』を映像化する場合、普通の映像化とは少し違ったアプローチが必要になってくる。
 でもこれが相当に難しい。第1部、第2部での試行錯誤が結実してくるのが第3部で、第2部までは観ていても苦戦の後がありありと見えすぎいた。これが観ていてあまり楽しくなった理由。

 でもなんとなく時間も空いたし、一回『ジョジョ』の第1部第2部観るか……と観てみたのだけど、これが面白かった。面白く感じた理由は、イヤホンで声優の演技をでかい音で聞いていたから。名演技だらけだったんだよね。第1部は映像というか、芝居を聴く作品だ、と気付いた。
 第2部は今回初視聴だけど、第2部に入って座組がちょっと変わってたんだね。気付かなかった。杉田智和によるジョセフ・ジョースターの声を初めて聞いたが、かっこよかった! ジョセフってあんな格好いいキャラだったか……と感心するくらいカッコよかった。
 ストーリーは純然たるバトルもの。第2部は『ジョジョ』シリーズにおいて、おそらく最強である「柱の男」たちと戦う物語。第2部は第1部と違って、スピードワゴンという“実況”がないのだけど、そのぶん絵や展開できっちり表現していく。緊迫感あるバトルの連続で、最後の最後には勝利の解放感がやってくる。とんでもないカタルシスのあるストーリーだった。
 その後、年老いたジョセフ・ジョースターが登場してくる。老け声のジョセフがすでに石塚運昇の声に似ている。もともと声物真似をやっていたから、老け声をやると、自然に似てしまう。次なる第3部では本当に石塚運昇がジョセフを演じることになり、なにやら運命めいたものがある。

 と、『ジョジョ』第1部第2部を続けて観て、めちゃくちゃに面白くて、私は『ジョジョ』熱で燃えあがっていたわけだ。でもこのまま第3部……はちとつらい。だって第3部「スターダストクルセイダース」は全48話! それを観たら絶対第4部、第5部も観たくなるに決まっているし、さすがにそんな時間はない!!

 というわけで私は妥協点として実写映画版『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』を観ることにしたわけさ!
 その結果……熱は冷めたね。いやぁ完全に冷めた。ただの駄作映画だった。

 で、つまらなかった理由を挙げていくわけだが、これが難しい。私はつまらない映画を観たら、どうやったら良くなるか、考えて提唱すべきと考えている。でも、こと『ジョジョ』の話になると、あの独特すぎる世界観をいかにして実写の世界に展開できるか……という話に行き着いてしまう。この提唱はできない。
 なので、できるところから話を進めていくこととしよう。『ジョジョ』実写映画版は、『ジョジョ』をいかに映像化するか、という前に、そもそも普通のエンタメ映画として出来が悪い、というのが前提としての問題だ。

 まず脚本の話。

 映画は尺が2時間しかなく、この間に原作の前編となるエピソードを詰め込まなければならない。原作では、連載ものだから一つのエピソード、一つの事件を描き、それが完結してからその次……というふうに描くことができる。しかし映画にするには、個々のエピソードが一貫した一つの物語と感じるように変換しなければならない。だから山岸由花子といったもう少し後に登場するキャラクターも最初から登場してくる。
 というわけで全体的にお話が急ぎ足に進むのは仕方のない話のはずなのに、虹村形兆とアンジェロの会食シーンなんかが出てくる。全体のプロットから見ても「それ必要?」という場面。
 でもそれをいうと、冒頭のアンジェロのシーンも必要かどうか……。アンジェロの存在感を際立たせ、まず観客に作品のトーンを知ってもらうためのシーンなのはわかるが、かといって「猟奇殺人もの」というわけでもないんだ。最初は東方仗助や広瀬康一の日常的なシーンのほうが良かったんじゃないか。『ジョジョ』の映画を制作する上でテーマの置き所を誤ったような感じがある。

 なんの脈絡のないシーンにいきなり虹村奥泰が出てきて、広瀬康一が転ばされるシーンが出てくる。もしかすると伏線のつもりかも知れないが、意味もなければ脈絡のないシーンに出てきても、伏線として機能していない。目的不明なのに、とりあえず入れる……という素人みたいな作り方をしているのも良くない。

 次に引っ掛かりは、各登場人物の感情の経緯と動機付けがよくわからないこと。
 オープニング開けは杜王町に引っ越ししてきた広瀬康一が、さっそく東方仗助と出会うところから始まる。しかしそれ以降、あまり関係が深まるようなシーンが特になく、後半、東方仗助が廃墟のお屋敷を見付けた時に、広瀬康一がついていく流れが出てくる。「君たち、そんな仲だったっけ?」と疑問に感じる。
 次にアンジェロがコンビニ強盗をやろうとして東方仗助に阻止されてしまう。これで逆恨みされて、狙われてしまうわけだが、この経緯からしてわかりづらい。アンジェロが東方仗助を睨み付ける場面があり、あれで観客に伝えたことになっているが、それだとインパクトに欠ける。「東方仗助VSアンジェロ」という構図があの瞬間できあがった……と納得できる画が出てきていない。

 後に出てくる登場人物も先だって出てくるのも実写版『ジョジョ』の特徴で、すでに書いたように山岸由花子も最初から登場している。杜王町に引っ越ししてきたばかりの広瀬康一に、設定上、先生から面倒を見るように、と言われたという経緯らしいが、明らかにそれ以上の好意を持っている。で、早くもサイコパスな一面を見せている。
(山岸由花子が広瀬康一のために問題集を作ってくるのだが、全ページ手書きの、サイコパスな内容。あれはスタッフ、よくぞ頑張った、な小道具)
 山岸由花子がなんであの段階で広瀬康一にそこまで入れ込むのか、がわからない。納得のできる説明がない。山岸由花子が好意を持ち始めるのは、確か広瀬康一がスタンド使いになって以降じゃなかったかな……?

 東方仗助の祖父である良平がアンジェロに攻撃された時、仗助はただちにスタンドで傷を回復する。しかし実写劇場版では、その後の結果を見届けずに、バトルに戻る……という展開になる。
 この展開だから――東方良平が倒れて、助ける、しかしすでに死んだ命は戻らない……という現実を突きつけられ仗助が焦り、やがて死を受け入れ、「この町とおふくろは俺が守る!」という決意を固める……というのが原作だったが、実写版ではこの間にバトルシーンが差し挟まるので、感情の流れが一度ブツ切りになってしまう。バトルに戻り、ゴム手袋にアンジェロ封じ込めた後、改めて祖父の死を見届ける……という展開になる。さらに祖父の死を見届けた後、アンジェロとの最後の対決シーンに進む。この展開だと、観ている側の感情が一回ずつブツ切り状態になり、しかもさっき終了したはずのシーンに戻るような画が出てきてしまうから、頭が混乱してしまう。どうにも展開がスッキリ進まない。モタモタした感じが出てしまっている。

 伏線の扱い方も雑で、祖父の死後、腕時計の説明が出てくる。これがラストシーンに繋がる伏線になるのだが、描き方が「後で伏線で使いますよ」という説明に過ぎないものなってしまっている。その伏線が物語の中で描かれている感覚がなく、物語から分離したところで「台詞説明」してしまっている。これだと情緒が感じづらいし、画としても「映画の画」になっていない。
 映画のラストに、再び祖父の腕時計が登場してくるのだが、それを装着した東方仗助の腕がこれみよがしに登場する。あれは「テレビの画」。「映画の画」じゃない。ただの説明画面でしかない。あれでどうやって感動しろというのか……。

次に役者の問題。

 ジョースター家といえば長身でがっしりした体格が特徴だ。第4部は日本が舞台とはいえ、その血を受け継ぐ東方仗助もやっぱり巨漢(180センチ)である。シャツを着ているとはいえ、改造学ランで胸板をしっかり見せつけている。これがジョジョシリーズらしいセクシーさになっている。
 しかし実写劇場版は……ひょろっとした青年が出てくる。誰だオメェ?
 山崎賢人……実写の俳優はよくわからない。ので、この人の俳優としての評価は全く知らない。
 まあ漫画に出てくるような長身マッチョは難しいだろうから、それは諦めるとして、問題は演技力。「変な頭」と突っ込まれた後、キレるいつもの展開があるのだが……その時の迫力のなさ。思わず失笑してしまう。声も目線も表情も、なにもかも迫力不足。ギャグなのか本気なのか、本気だとしたらかなり問題の演技力だ。
 実写俳優にありがちなことだが、発声も滑舌もできていない。立ち姿も悪い。『ジョジョの奇妙な冒険』というかなり特殊な世界観を演技で表現しなければならないのだが、その空気感がぜんぜん出ていない。ただカツラ被って、衣装着て、棒読みの台詞を言っているだけ。コスプレ演劇会でしかない。どのシーンを見ても、立ち姿に気迫というべきものが全く感じない。ちょっと小洒落た風景を背に、コスプレしたひょろひょろとした若者が立っているだけ……という珍妙な絵面になってしまっている。

ジョジョ 実写版 9a0503244af

 虹村形兆も笑えてしまうコスプレ俳優になっている。あのツルツルのお肌に逆立てた髪を見て、これ本気か……と。役者の風貌にぜんぜん合ってないんだ。合ってないのに、無理してあの髪型にしているから、存在自体がジョークにしか見えない。登場するたびに、変な笑いがこみ上げてくる。

 それで、どの俳優も発声も滑舌もできていない上に、一語ずつ、何かしらの“演技”をしようとするんだ。間を作ったり、視線を変えたりして。でももともと発声すらできていないうえに、演技らしいものをしようとするから、とても見れたものではなく、下手くそな演技でただただ尺が伸びていってしまっている。その間、カメラは特に移動することもなくボヤーっと撮っているだけ。間を埋めるような音楽もない。こんな下手くそな芝居が延々続くものだから、普通に立って喋るだけのシーンが退屈も退屈で……。5分の対話シーンが30分くらいに感じてしまう。
 演出する側が、下手な俳優の演技をフォローするための仕掛けを作ってない。余計な間を切ったり、音楽を載せたり……そういうことを何一つやっていない。
 映画には時々、俳優経験のまったくない人が登場したりするのだが、うまく成立するように工夫されている。影を深くして、風貌の良さを強調したり、ただ台詞を読んでいるだけでもいいように脚本を工夫したり……。そういう工夫が何一つない演出だから、笑えるならそれでいいのだけど、笑えもしないシーンになると見ていてしんどくなってくる。

 あとスタンド登場シーンの問題。スタンド登場シーンなのだが、どのシーンも変な切れ方をしている。構図に収まっていない。
 これは後に入ってくるスタンドがどれくらいのサイズか、想定できずに撮影したからじゃないかな。というわけで、スタンドがどのシーンも頭が切れていたり、足が切れていたり、ちょうどいいフレームサイズで出てこない。

バトルシーンの問題。

 脚本の問題のところで、感情の経緯がわかりづらいと書いたが、バトルシーンも同じ問題を抱えている。『ジョジョの奇妙な冒険』の醍醐味は、敵の攻撃でピンチに陥り、その後鮮やかな切り返しで逆転していく。逆転→逆転→逆転の鮮やかさが見事で楽しい作品だ。実写映画版『ジョジョ』はバトルシーンだけは原作をなぞっているはずなのに、この逆転劇のカタルシスが全くない。
 気付くのは、余白のなさ。『ジョジョ』は何かを仕掛ける時、必ず「ちょっと待ちな」と台詞が入る。これは読者に対して「さて皆さん」と間を置いている場面だ。ここで、意図と仕掛けを断片的に見せる。その舞台に何があるか見せる場面になっている。これが実写劇場版にはない。
 例えば虹村奥泰との対戦シーン、原作では「お前、バカだろ!」「なんだと!」みたいなやり取りがあって、その後虹村奥泰は自分で空間を削って飛んできたものにぶつかって失神する流れがある。実写映画版にはこの流れがなく、ぶつかって失神するシーンだけがあって「バカな奴で良かったぜ」という台詞のみがある。しかも飛んでいくものがあまりにも素早く、何が飛んでいってぶつかったのか、パッと見でわからない。
 これは要するに「フリ」「落ち」のフリがない状態。どのシーンもフリがなく、落ちだけが出てくる。だから東方仗助が鮮やかな切り返しで逆転しても「おおー!」という感動がない。どことなく予定調和的に見えて、ハラハラ感がない。
 原作『ジョジョの奇妙な冒険』のパターンとは、ピンチに陥る、意外な逆転劇の繰り返しで、これがあまりにも楽しくて、読者がずっと追いかけ続けているポイントだ。実写映画版にはこのカタルシスがなく、どのシーンも引っ掛かりなくするっとすり抜けていく。原作にあったカタルシスがなく、でも原作をなぞったシーンだけが登場してくる。見ているとモヤモヤ感しか残らない。

まとめ

 と、実写版『ジョジョ』は、『ジョジョの奇妙な冒険』の画を再現できていないだけではなく、普通にエンタメ映画として出来が悪い。登場人物の感情の経緯がわからないし、物語の展開も把握しづらい。なんでアンジェロが東方仗助を狙う流れになった? なんで東方仗助は廃墟のお屋敷に行くことになった? 東方仗助と広瀬康一はいつ友人関係になった? それぞれのポイントとなるシーンや台詞がない。でも原作のシーンはきっちりなぞっているから、「知っていること前提」みたいな作り方になっている。きちんと物語を届けようという意思を感じない。「そういう話です。わかってますよね?」という感じ。それでいて、ドラマの作りがただの説明台詞と説明画面でしかないから、感動がない。
 これは『ジョジョの奇妙な冒険』をいかに実写映像に転換するか、という問題以前に、普通に映画として出来が悪い。画作りもよくないし、脚本の作りも良くないし、俳優は全員下手クソ。なにひとつ良いものがない。あるとしたら、コスプレ姿が笑えるっていうくらい。

 でも、映画としての初歩的な問題をクリアできているとして、いかにすれば『ジョジョの奇妙な冒険』を実写映像化ができるか……。
 いや、無理なんじゃないかな。
 と言いたいのだけど、やはり考えるとしたら……。1カット1カットを絵コンテを作り、1枚画としての完成度を高めていく、みたいな方法しかないように思える。1カットがキッチュな劇画に感じられるように。アニメですら再現が難しい原作なのに、抽象度が低くなりがちな実写であの画を再現しようとしたら、むしろ抽象度を上げて、個性を強調していかねばならない。『ジョジョの奇妙な冒険』という世界観を作っていこうと思ったら、それくらいの手間暇かけないとどうにもならないだろう。なにしろ、出てくる登場人物がみんなヘンテコな格好をしている。あの風貌を納得できるような異空間を表現しようと思えば、そのぶんの作り込みが必要になってくるだろう。

 ただロケーションだけは非常に良かった。スペインのシッチェスというところらしいが、見ていると、確かに「ああ、漫画やアニメで見た杜王町の風景だ」という気がする。杜王町は日本で東北だが、よくある日本の風景とは違っていて、まず一般住宅には塀がなく、通りと住宅が芝生で区切られている。日本の街はどこに行ってもずーっと塀があるから閉塞的な空気がある。しかし杜王町はあの塀を取り払っているから、ものすごく開放的な空気がある。しかも家の中に入ればどの家庭もアンティーク家具。荒木飛呂彦的な美意識が一杯に込められた街だ。
 実写映画版の映像は、確かにその風景を再現できている。仗助の家にしても、「ああ、コレコレ」という風格が出ている。
 どう見ても日本的な空気のないところに、日本語の看板や張り紙を一杯置き、日本から連れてきたエキストラを一杯配置して、舞台を日本ということにしている。張り紙や、エキストラは過剰すぎるように思えたが、でも意外に雰囲気が出ている。ということはロケーションは合っていたわけだ。

 第4部なら登場人物が日本人だから、日本でも映像化できるんじゃないか……そういう目論見がきっとあったんだと思うが、しかしうまくいっていない感じのある残念な作品。『ジョジョ』映画以前に、そもそも出来が悪い。
 でも『ジョジョ』を再現しようという意欲は感じられた。ロケーションの良さや、衣装はしっかり作り込んでいる。決して原作無視ではないし、むしろ愛情は感じる。でも脚本や俳優にいい人材がない……という日本の映画界の問題に引っ掛かって倒れてしまったような作品。問題は作り手の理解力ではなく、日本映画界の実力のほう。日本映画界が今のような状況じゃなかったら、もう少しいい映画になったんじゃないかな……という気はしている。


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