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10月13日 人間の想像力は無限大ではなく、限りがある。しかも個人差もある……という話。

1800年代後半、「想像力」という言葉の定義についての議論がありました。人は頭の中で実際に鮮明に見えるイメージを作り出せるのか、それとも単に比喩として「頭の中で見た」と言うのか、こうした点について盛んに意見のぶつかり合いが起こっていました。

もちろん人間には心象風景というものがあり、頭の中でイメージを作り出せる人は数多く存在します。しかし、当時はこうした考えが広く認められていませんでした。

 ですって。

 この話とちょっと違うけど、学生時代、友人と話をしていて、「私は好きな音楽を頭に入れて、好きな時に再生している」と話したら、友人は「うわ、なにそれ」とドン引きだった。
 当時の私は「あれ?」という感じだったけど、「好きな音楽を頭の中で再生する」とか「意味もなく頭の中で同じメロディが繰り返される」みたいなやつは、できる人とできない人がいる……ということに気付いた。あの時の友人は、脳内で音楽イメージを作るってことがまったくできない人で、それが「全人類の共通事項」だと思ってたんだよね。
 でもそれは言われてみればそうで、ある人によってはイメージが容易なものも、ある人にとっては困難……という個人差はいくらでもあるはずだ。あらゆる能力に個人差があるように、「脳内でイメージできるもの」にも個人差がある……というのはよくよく考えればあり得る話。「誰でも想像力は無限大!」というわけではないのだ。

 私は以前から、「人によって脳内イメージの解像度が違う」という考えを持っていた。

 例えば宮崎駿は、『魔女の宅急便』の制作時、あまりにも多忙なのでロケハンに行くことができなかった。「あの国は昔一度行ったことがある。風景は全部俺の頭の中にある」といってスタッフにロケハンに行かせて、自分は国内に留まって記憶だけで絵を描いていた。
 やがてスタッフが帰国し、宮崎駿の描いた絵と写真を合わせてみると完全一致だったそうだ。宮崎駿は見てきた風景を、写真のように記憶し、いくらでも再現する能力があったわけだ。

 私がそうだけど、大多数の凡庸の絵描きは、自分が今から描こうとしている絵を100%頭の中でイメージができているわけではない。イメージの中では格好よかったけれども、描いてみるとそうでもなくて、途中でプランを変更したり、描いている最中で自分が描こうとしているものの正体がわかったり……そんな感じだろう。私がそうだから。
 ところが人によっては、自分が描こうとしている絵を100%脳内でイメージできる……という人がいる。そういう人たちが一流の絵描きになれる。
 例えば『AKIRA』を描いた大友克洋。大友克洋の凄さは、写真が1枚あれば、その写真を脳内で自由な方向に変えて、どの角度から一切の破綻なく描き起こせる……という。大友克洋は絵描き修行の末にこの能力を獲得したわけではなく、漫画家になる前から持っていた能力で、誰でも当たり前のようにできると思っていた。ところがアニメの現場に来て、誰もこういう絵の描き方ができないことを知って驚いたという。

漫画『AKIRA』は驚嘆すべき空間表現力の漫画だった。私が驚いたのは、「壁の落書き」。構図が変わっても、壁の落書きが一切の狂いなく、同じところにキチッと描かれている。まるで3Dソフトで構築してレンダリングしたみたいだ。これを「勘」だけで描いていた……というのが恐るべき話。

 私は以前のブログの中で、人間の脳には「脳内RAM」あるいは「脳内メインメモリ」に相当するものがある……と書いた。おそらく普通の人々が脳内で考えることができる領域というのは、データ量にして180メガバイトくらいじゃないか。なので「頭の中だけで考える」は深まることはない。しかもそのメモリにも「指向性」というものがあって、人によっては映像イメージがまったくダメ、音楽イメージの方が克明……という人もいる。私の場合は音楽イメージがさっぱりダメ。
(「悩む」ことの原因もここにある……と私は解釈している。人間には考えられる領域の限界値というものがある。それを越えた何かを考えようとすると、思考力の限界に達する。そういう限界に達したものをいつまでも脳内に保持する。それを「悩み」と呼ぶではないか?)
 私の知人はある時、椅子の絵を描こうとしたのだが、しかし立体的なイメージがわからないらしく、奥にあるはずの脚が手前になっていたり、脚を支えるつなぎ貫が奇妙に張り出しかたをしたり……となかなか混乱した絵だった。描いた当人としてはそれが全力で、自分の絵のどこが問題なのかわからない(それ以前に絵画を見ても「良い・悪い」の違いもわからない)。絵に対する指向性が極端に低いと、椅子や机といったものの立体構造を図にすることすらできないわけだ。

 任天堂の社長であった岩田聡は現役プログラマーだった頃、仕事がはじまってもすぐには椅子には座らず、しばらく立って考えごとをしていたそうな。長い時は1時間も立って考え、やがて「結論に達した」という顔をすると椅子に座り、猛烈なスピードでプログラムを打ち始める、という。この時の打ち込みがとんでもなく早く、しかもタイプミスがまったくなく、長~いプログラムも10分から20分程度で打ち終えていたそうだ。岩田聡の書いたプログラムからはバグが出なかった……という伝説が今も残っている。
 後に岩田聡社長は自分が表舞台に立つことが増え、その時も自分で原稿を書いていたのだけど、やはり10~20分程度で書き終えてしまい、文法上のミスなども一切なかったという。
 つまり、脳内で一度完璧な文章ないしプログラムといったものを組み上げることができて、それをそのままの形でアウトプットができたというわけだ。机についてから「ああしよう、こうしよう」なんて試行錯誤はしない。それは脳内で全部解決させてから椅子に座る。おそらく岩田聡社長の脳内RAMは何ギガもあったのだろう。我々のような凡人では真似することはできない。

 こうした脳内メモリは訓練によって拡張できるのか? たぶん無理。ほとんどの人は、生まれ持った脳内メモリしか持ちようがないのだろう。という以前に、私たちはこういう脳内メモリがあるのかどうか……という議論も一般的になされていない。認識すらされてないので、「訓練によって拡張可能か」というのは、いろいろ端折りすぎな議論だ。まあどっちにしろ無理なんでしょうけど。

 あ、ちなみに脳内メモリの大きい・小さいは社会的な地位・優秀さには結びつきません。だって、社会地位が高く、一般的に頭がいいと思われる人たちでも、話してみると底の浅い話しかできない……そんな人、いくらでもいるわけだから。そういう人はたまたま出世のチャンスを持っていただけ。世の中、そういう運がいいだけのバカっていくらでもいるよ。

 でも将来的に脳内メモリの拡張も可能になるかも知れない。知識を溜めた帽子をかぶって、脳に直接知識を注入……といったことも可能になるみたいだから。それができるんだったら、外部メモリみたいな感じで、脳内RAMを増やすことだってできるんじゃないか。
 この場合の初歩的な問題は、まず「脳内RAM」という考え方を一般的にすることだけど。そもそもそれが脳のどの部位の話をしているかすらわからんし。

 たぶん、脳の専門家に「脳内メモリ」の話をしたら、まず失笑されるだろうな。「そんなもんねーよ!」って。まず「人間の想像力には限界値があるかも」……ってな話から了解しないと。


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