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ぶちギレる猫とアラサーテレビディレクター
実家で猫を飼っている。
エメラルドグリーンの瞳を持つ、雌のロシアンブルーだ。
かつてはロシアの王朝で愛された高貴な猫種らしい。
その美しさに魅了された母が、ブリーダーに頼み込んで子猫を譲ってもらうことになった。
始めて会ったのは、生後20日のとき。
子猫たちが母猫の周囲に集い、か細い声でミーミー鳴く中、
一匹だけ群れから離れ「に"ゃああ! に"ゃぁぁああ!!」と叫びながら歩き回っていたのが彼女だった。
抱き上げようとすると全身を捩って抵抗する。
短い足で毛布の上を闊歩し、母猫やきょうだいに見向きもしない。
しゃがれた鳴き声は、「オカンにも兄貴にも未練はねぇ!アタシはアタシの道をいくでぃ!」と主張するようだった。
彼女は我が家に迎えられ、「ジェリコ」と名付けられた。
その名は、WWEのイケメンプロレスラー「クリス・ジェリコ」に由来する。
プロレス好きのミーハー主婦に飼われたが運の尽き。
「名は体を表す」という言葉の通り、ジェリコはその後、めちゃくちゃ気性の荒い猫に育った。
機嫌がいいと、暴走族のように家中の物を薙ぎ倒しながら走る。
機嫌が悪いと、「ジェリコ〜あそぼ〜」とねこじゃらしを振っても、翠の瞳でぎろりと睨まれる。さらにしつこくすると、噛まれひっかかれ流血沙汰になる。
もっと機嫌が悪い時は、人が昼寝する腹の上を目がけて キャットタワーの頂上からダイブしてくるのだった。スマブラで石化落下してくるカービィーかよ。
それでも可愛いところもあるもので、
構ってほしい時は仏頂面で膝に飛び乗ってきたし
餌をあげた後は 頭を擦り付けてきて雑に感謝の意を表したし、
「ジェリちゃ〜ん」と呼ぶと、一応こっちを向いて「…に"ぁ」と答えてくれるのだった。
****
ジェリコは今年、18歳になった。
すっかりおばあちゃん、もとい、「おばあにゃん」だ。
相変わらずよく食べるし、よく睨む。
たまに私が実家に帰ると「…んな"ぁ」と無愛想な「おかえり」をくれる。
先日、両親が2泊3日の旅行に出かけるとのことで、ジェリコの餌やりを頼まれた。
仕事が終わった21時頃、一瞬実家に寄って餌をやるだけの簡単なお仕事。
のはずが、トラブルですっかり遅くなり、帰宅したのは24時過ぎだった。
「遅くなってごめんね!!」と姿を探すと、猫はソファで丸くなっていた。
「ジェリコ?」と声をかけたが無反応。ぴくりとも動かない。
まさか・・・と思ったが、背中が上下しているので、息はしている。
そっと触ると、ジェリコはめちゃくちゃびっくりして跳ね起きた。
私を認識するとものすごい形相で「な"ぁーーお!な"ぁーーお!!」と鳴き始めた。「遅いやんけ!何しとったんじゃ!」だ。
謝りながら餌を入れたが、なぜか食べず、真っ直ぐこちらを見て怒り続けている。
「ご飯だよ」と餌入れを見せても「それじゃない!」と「な"ぁーー!」とキレている。
ああ、空腹じゃなくて、さみしかったのか。
膝をついてしゃがむと、頭突きのように頭を擦り付けてきた。
撫でると、黙った。ちょっと手を離すとまた「な"ぁーー!」と怒る。
寂しい思いさせてごめんなぁ、と腹や頭や耳の付け根を撫で続けた。
次第に「な"ぁーー!」が「んな"ぁぅ…」になり、喉がぐるぐる鳴り始めた。
15分ほどすると満足したのか、ふいっと離れ、やっと餌を食べた。
その夜は、実家に泊まることにした。
またこの猫をひとりぼっちになんてできなかった。
電気を消し ベッドに入ると、猫がこちらに近づいてきた。
足音に混じって、フローリングを擦る変な音がする。
ジェリコは後ろ足を少し引きずっていた。
枕元に前足をかけ、ぼんやり私の顔を見つめる。
自力でベッドに飛び乗る脚力が もうないのだ。
抱き上げると、よろよろと布団にもぐりこんできた。つめたい。
ジェリコは、老いたんだ。
涙がじゅわっと出た。
耳が遠くなり まっすぐ歩けなくなり 跳べなくなった
吸い込まれるようだったエメラルドの瞳は、曇り始めてしまった。
ジェリコは老いてしまった。
あたりまえだ。猫の平均寿命はとうに過ぎている。
だからこの猫は、このまま老いて、もうすぐ死ぬ。
「たぶん」でも「きっと」でもなく、ぜったいに。
そういえば、祖父も聞こえなくなり、歩けなくなり、老いて、死んだ。
残された祖母も、みるみる身体の機能が低下してきた。
老いは順番に・平等に、そして容赦なく訪れる。
いま元気に旅行に行っている両親も、数年後には出歩けなくなるかもしれない。
親しい友達も、同居人も、大切な人も、みんな老いていってしまう。
自分が死なない限り、この先 何度も何度も、愛しい人たちの老いを目の当たりにしていかなければならない。
初めて平和学習の授業を受けた小学生のように震えた。もう30歳なのに。
暗闇でひんひん泣く私をよそに、
老いた猫は腕の中で、いびきをかいていた。
***
翌朝、
まだ眠るジェリコを起こさぬようそっと実家を後にした。
腫れた目で朝帰りした私を見て、
同居人は「どうしたん!?」と温かい紅茶を淹れてくれた。
老いていく猫を目の当たりにしてショックだった、と話していると、また視界が滲んでくる。
同居人は頷きながら話を聞いてくれ、ハグし、優しく頭を撫でたあと、
びしりと言った。
「ってゆーか、あなた今、たしか生理中でしょ。だから情緒不安定なんじゃない?」
・・・それだ。
これ、PMSだ。
「あと、猫アレルギーの薬持って行き忘れたでしょ。だから目腫れんだよ」
ほんまや。
涙は秒で引っ込んだ。
****
昨日、母親から連絡が来た。
ジェリコを動物病院の定期検診に連れて行ったところ、
獣医さんの腕を血が出るまで噛み、ひっかき、大暴れしたそうだ。
怒りんぼ おばあにゃん、まだまだ現役かよ。
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