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“いじめっ子”について本気で考察する試み①

「いじめ」ってなんなんでしょう。
深い考察のために一度は辞書を引いて調べた方もいるのではないでしょうか。とりあえず手近にある辞書を引いてみたら「弱者を苦しめる」とありました。
では「弱い」とはなんでしょう。
力が弱く、積極性に乏しく、もろく崩れやすいということ。

世間ではこうした力の弱い者に対し、抗うことの必要さや乗り越えることの重要さを求めます。
これは生物学上あることで、ようするに人間といえど生物の一種ですから、より強く、より賢い者を残そうとする本能が働いている為に起こると考えられます。
だとしてもその者の弱さとは、一重に精神的に脆いと片付けるには難しいですよね。
例えば物理的に身体が弱い場合、身体は丈夫でも能力的にどうしても弱い場合、どちらも申し分ないが経済面や権力的・社会的に弱い場合、それらのどうしようも無い弱点を背負って人生に参戦しているのですから、遺伝子的にも教育環境も比較的整った状態で育ってきた者と共生しつつ、人生を強いられているのでたまったものではありません。

そこへ更に嫌がらせを行う者がいるとしたら、もう、どうしようも無く面倒くさい。「俺は反骨精神を鍛えてやってるんだ!」と嫌がらせを正当化されるのも論外です。

冒頭へ戻るのですが、何故「嫌がらせ」は起こるのでしょうか。
今日は、虐める加害者に焦点を当てて語り尽くそうと思います。

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【いじめっ子は思考回路が3歳児】

「あの人、変よね」
何がどう変なのでしょうか?
「あの人キモい」
例えばどんなところが?
「うるさいな~変なものは変なんだし、キモいのはキモいの!考えなくたって見たら伝わるじゃん。わかるじゃん。どうしてキモいと思ったとか今関係なくない?生理的に無理だから無理なの!」
じゃあ近寄らなければ良いし、関わらなければいいのでは。
「でも気になるじゃん。それに変だから面白い。皆と一緒に笑えるネタになるもん」
どうして笑うの?
「変だから。理由なんて特にない」

この会話のやりとりは事実をもとに書いております。
加えて言うと、当時30歳の時に同年代の主任と話した会話の内容そのものです。
これはまるで幼子も同然ですよね。
なにがどうしてそうなったか、どうして自分はそう思ったのか。
何故自分は相手を笑いの対象にしているのか、それはどうして自分のなかで起こったのか。
そのきっかけは、それをすることで自分に何の得があるのか。これを続けることで、自分にどういったデメリットの可能性があるか。

このように、大体のいじめっ子気質の人は聞いても具体的な説明ができません。

いやいや、一般的な人は常日頃からそんなこと考えて生きてないよ~。そんな感想が聞こえてきそうですが、これって結構恐ろしいことなのではないかと少々危惧しております。

言霊の話で、思考という精神活動と感情や気持ちの合わさりから言葉の発生に至ると説明しました。


しかしここで例にあげている人がしているのは単純な感情の吐露です。
それはつまり熟考をして練られたものでなく、非常に本能的原始的行為なんですよね。

他者に対して嫌がらせを行う人は基本的に、本人が「不快だな」と感じればすぐさま外側に放出することで自らの不快感を払拭し、欲求を満たしている訳です。
嫌がらせを行う人の行動心理として、「劣等感」「嫉妬」「唯我独尊的な自己愛」という代表的なものがありますよね。全てにおいて外側に評価を置くもので、承認要求が満たされていない状態です。
これはあくまで「不快に感じて目をつける時の基準」であって、自分を正当化して勝手に不快にしたものを敵とみなし排除する行動基準なのです。
勝手な思い込みで劣等感を感じ、勝手な思い込みであらゆるものへ嫉妬し、そんなかわいそうな自分を守るために攻撃に転じる。

その思い込みの暴走が始まる前の、なぜそう思ったかを追求しないのが問題なのです。

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【考えることを放棄する人】

昔、とある記事を読んで印象に残っている話があるのですが、「猿やチンパンジーに知能に関する実験をしたとき、人間で言うと幼稚園児くらいの能力があると明らかになっています」というこの話。
裏を返せば人間の幼稚園児とは猿と同意義ということになり、比較的に野生動物に近い存在で、野放しにすることは危うく、極めて原始的な行動を取るため、将来的に躾を行わなければならない対象だということですよね。

ということは・・・皮肉めいた表現になりますが、子供だろうと大人だろうと本能的かつ原始的行動を取る人というのは、未だに幼稚園児とそう変わらないということになってしまいます。

昨今あらゆる局面で「考える力」というものが乏しくなっているように思えます。
子供に限らずいい年した大人でさえも言葉使いが荒く、粗雑で幼稚だと感じるものが多いです。
それと平行して、「長いメールはだるい」「長文は考えるのも読むのも疲れる」という若者の意見も多いのも事実。

実際に過去の職場であった事ですが、新卒の男の子に「今どき敬語なんて古いっしょ!タメ語で話しません?」と言われたこともありました。

長文のメールを書くことが良いとか、言葉遣いは丁寧にするべきだ、という絶対にこうした方が良いというものはありませんが、こういう行動の端々から「深く考察する」ということをしないのが目に見えてわかるなぁと感じている次第です。

物事に絶対的な善悪というものはありません。
規則やルールや集団意識などは、人間がそうした方が都合が良いという名目で作り上げてきたものです。
それを踏まえて、自分にとっての物事の善悪の基準にしろ、自分が抱くあらゆる感情のきっかけなどを誰かに丸投げするのでは無く、自分で自分のことを判断できる「考える力」が、人生において学びの「原点」なのです。


人は楽をしたい生き物ですし、変化にとても弱く、できることなら誰だってぬるま湯に浸かり続けていたい。それ故に答えだけを求める者も多く、せっかちが多いこの状況で、自己を見つめ内側への自問自答を繰り返し、「自分の意見」「自分の考え」があるということは今後非常に強みになると思います。
陰口や悪口が多く欠点ばかりに目が行く人、日頃の会話の内容も他人のことばかりで生産性の無い話ばかりな人の共通点で、他人に流されやすく自分が無い人と感じます。

※因みに、ろくに仕事の引き継ぎもせず丸投げしておいて「自分で考えなさい」という人もいますが、こういったのは「考える力」を誤解していると思います。


少し長くなりそうなので、後半は次回に回しますね。
次は「いじめっ子が勘違いしていること」から語っていこうと思います。

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