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私信 何もなかったかのように

あなたは
突然「お昼をしよう」と訪ねてきた
既に午後二時をまわっていて
私は片付けを終えていた
あなたは
車を少し走らせたカフェで昼食を取り
私はゆっくりと
あなたが選んだお茶を飲んだ
 
あなたは
張り付けた笑顔で
とても調子がよさそうに
ブレーキのないオートバイクのように加速しつづけ
声は大きく揚々と
上体は軟体動物のようにくねくねと
内容までも相関し合って
もう、誰でもいいのだろう
問い詰めたくて
批判したくて
同意されたくて
あなたは恫喝さえ厭わず
声を発し続けた
 
あなたの後ろの席から
見知らぬ男女がこちらを見ていて
あれから
あのカフェに行くのをためらう私に
あなたは
「また行こう」と声をかける
何もなかったかのように
 
あなたは
「器が割れた」と連絡をくれた
「八月に富士山が噴火する」と語りだし
「とても大切にしている器だから、
誰かが死ぬんじゃないか」と
「瑠璃色の器だから、
地球に何かが起こるんじゃないか」と
ひどく殊勝に
少し悲しげに携帯が伝えた
割れた器を「継ごうか」と尋ねると
「粉々だから無理だ」という
「どうしているの」と尋ねると
「神様の近くに置いた」という
「もし悪いことが起こるのなら、
器が代わりに引き受けてくれたから大丈夫」と
根拠もなく慰めると
あなたは底を打ったようにはじけた様子で
どれほどの思いが器にあったのかを語りだし
器は「上手に3つほどに割れた」という
「それほど大切なら、継いでみようか」と
再び申し出ると
「器の大切さを分かっていない」と憤慨し
あなたからの電話は
あなたから切られた
 
富士山の噴火の根拠は『予言』の本で
著者はあなたを選んでささやいてくる救世主で
あなたは
「噴火の後の本当の終りに備えるように」と
繰り返しながら
すでに「救世主の御子を宿している」と告げた
 
八月が過ぎ
富士山は噴火せず
あなたの出産の頃はとうに過ぎ
あなたの様子は何処からも届かない

何もなかったかのように

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