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用意はいいですか? 今から二元世界を壊します。【東洋的考え方・生き方③】

あなたの「問題」「テーマ」は
すべて二元性ゆえのものです。

あなたに限らず、この世の問題の全ては二元性の問題です。

よって、この世の最大の問題は、二元性
ということに帰結します。
このことは何人も否定しない事実でしょう。

最大の問題は、最も遠い問題のように見え、
普段ほとんど話題にも上らないし、それを取り上げることもありません。

しかし、それはいつも眼前にへばりついています。
ちょうど眼鏡のかけ忘れのように。

問題はいくら探しても外界にない

この世イコール二元世界ですから、問題はこの世と言い換えることも出来ます。

それが無くなれば、あなたにとっても、どなたにとっても、問題もテーマもなくなります。

この世が無くなる?
大丈夫です。
だってあなたも言ってたじゃないですか?

この世は仮想現実ですね?
それは、言葉の遊びじゃないですね?
サムネのタイトルじゃないですよね?

仮想が外されれば、現実が見えてきます。
仮にそれを現実というのなら、ホントの現実が見えて来るでしょう。

それが無くならない限り、一つの「問題」が解決してもまたさらなる「問題」が出てきます。

二元性だからです。

ということは、その「問題」の発生源そのものに解答を与えなくてはならない。
終止符を打たねばならない。

二元性というとき、ほとんどが
それが外界にあると考えます。

違いますよ。
外界はただ「そうあるもの」です。

あなたのものの見方が二元性なのです。
そうさせられてきたのです。

だから、問題はあなたご自身です。


情報や説ではなく、理解や共感を超えたもの

いま、あなたはこれをご覧になった。

ほとんどの方が、初耳のことでしょう。
私が知る限り、それを語る人物はほとんどいません。
まして現代社会においておや。

だから、なんだかよくわからない、
おかしなことを言うなあ
とお思いかもしれません。
学校でも一般社会でも教えないことだからです。

様々な情報があります。
全て噓です。

いや、もっと正確に言えば
嘘でも真実でも一緒です。

あなたがそれをキャッチしない限り
それは幽霊のようなもので、
ただ外界を揺蕩たゆたう想念です。

私があなたに伝えたいことは
情報intelligence」ではないですよ。
theory」でもないですよ。

あなたに求めるものは
理解understanding」でも
共感sympathy」でもありません。

そういうものは、ここでなくてもゴロゴロ転がっています。
それは、私がわたしになるように、あなたがあなたになることです。

それは「認識」「原理」「世界観」です。
だから、信じるに及ばないし、納得するまでもない話です。
実はあなたご自身がよくわかっていることなんです。

大概の場合、まるで挑発するように、「問題」は眼前に迫って来ます。
それに対応しているウチにまたさらなる問題がどこかで生まれる。
イタチごっこです。

もういい加減飽きました。
そうではないですか?
こんなお芝居に。

それ(仮想)を今この瞬間から消し去ります。


あなたは、あなた以外のすべてだ

何もないところから私たちは来ました。
いや、「来た」という表現もおかしなものです。
なぜなら、あなたはこの宇宙そのものだからです。

あなたが手荷物をいっぱい持ってないときではないと、そこにあるバッグや財布を持てないように、
何もないものがすべてを持っているのです。

そこかしこに「偏在」しているものは、時間も空間もありません。
遠いも近いもない。

そこを地上の言葉で言えば、「平和」とか「永遠」とか「彼岸」とか「涅槃ねはん」とか「絶対」とか「空」とか「無」とか言います。

てのひらを結ぼう(握力)とします。
あなたは、掌をすぼめたと思いますね?
それは、しかし広げる力(伸展力)が無くてはできません。
だから、実際は広げてもいるのです。
広げるには縮める力がなくてはできません。
だから、実際は、縮めてもいるのです。

あなたは、そこの灰皿を灰皿と認識しています。
しかし、そのとき、あなたは、灰皿以外の全てを認識しています。
テーブルや、グラスや、コーヒーカップや、その他もろもろの(灰皿以外の)存在を認めない限り、あなたはそれを灰皿だと気がつきません。
全てが灰皿だらけであれば、灰皿は存在しませんよね?(喩えが煙くてすみません💦)。

灰皿は、イコール、それ以外全ての存在なんです。

あなたが仮に「男性」とします。
違いますよ。
あなたは女性です。

この世がすべて男性のみで占められていれば「男性」という性は存在しません。
「女性」のおかげではじめて「男性」が存在します。
無論女性の場合も同様。

だから「男女同権」は間違いです。
それ以前に男女は一つです。

優れたものは劣ったもののおかげではじめて「優れて」いるのであって、
劣ったものを絶滅させれば、そこには優れたものは一個も存在しません。
自他は一つのものだから、他人を劣っているというとき、それは自分に向けて言っています。他人に悪口を言うことは、自分に向けて言っているのと同じです。

真っ白な紙は、白いゆえに汚れやすいのであって、
黒い紙に黒い点を書いても見えません。

一本のネックレスの両端を「陰」と「陽」と呼んではいるが、
両端を結んだときにはじめて両者は「一」になる。
「一」であり、完全であった一本のネックレスを二つに分断した際に、
初めて「陰」と「陽」の両極が登場する。
(両者はそれぞれ最も遠方にあるが、結び=牽引=たがっている)

あなたという存在は、あなた以外全ての宇宙がなければ有り得ません。

あなたは宇宙とイコールなんです。
もっとわかりやすく言いましょうか?

申し訳ないですが、あなたは神なんです。
神無くしてあなたはいないし、
あなたなしに神は存在しえません。

びっくりでしょ?


被害者意識こそが最大の病

「病」はないですよ。
あるのは「陰」か「陽」かです。
どちらかに偏った状態を「病」といいます。

これが極まると、私は私、あなたはあなたという考え方に発展します。
そこからいきおい発生する「被害者意識・妄想」。

「私がいまのような(ひどい)状態になったのはすべて○○のせい、あなたのせい、産んだ親のせい、タイミング悪い状況のせい、社会のせい、宇宙のせい」

という考え方そのものをすなわちホントーの「病気」といいます。
難しい言い方をすれば二元論と言います。

あなたも経験あるでしょう?
この手の人に、何を言っても無駄です。
自分の胸(心)に手を当てることが出来ないからです。

この病は治りませんよ。
不治の病です。

大きなショックがない限り治りません。

陰と陽が分断されてしまってるんです。
(ソースとのつながりを切られてしまっています)



病は自分の中にありと見つけたり

医者でなんたらかんたらと長い病名をあなたはもらってきました。
そんなのないですよ。

蟻に脊椎カリエスがありますか?
統合失調症のカエルがいますか?

すべて二元論です。

そのとき、あたなはネットでなんでだろ?
なんで私だけこうなんだろ?
何でこうなったのだろう?

と探しますね。

違いますよ。

病はあなたの中にあります。
あなたがそれを作ったのです。

外を探す段階で、どこか、何かのせいにしています。
誰かに治してもらうのではないですよ。
あなたが治すんです。

病になることができるのであれば、
それを治すこともできます。

これは、東洋医学の極意です。
それ以外ないですよ。


学校的なあまりに学校的な

「私の言うことが正解だ」
ということは、
「私以外の言うことは不正解だ」
「私と違う意見は不正解だ」
と暗に言っています。

もう、くどくど言わなくてもお分かりかと思います。
それは傲慢であり、二元論です。

「頭のいい人なら私の言うことがお分かりでしょう」
という発言は、あまりにも、「学校的」です。
それが、どんなに立派な内容をもったものであっても、
それは高慢であり、二元論です。

残念ながらそういうご本人の「知性」を疑わざるを得ません。
知識をいくら集めたところで、それは外界の情報にすぎません。
自分のものではないのです。
それが「自分のもの」と思う錯覚は、あまりにも「偏差値的」です。

俗にいう”陰謀論”界隈でも、

「世の中の真相はこうである」

という”自説”こそが真実で、それを認められないのは「偏差値が低い」的なニュアンスが蔓延まんえんしています。

だから喧嘩したり仲たがいしたりします。
(別な見方をすれば、社会人になっても「学校教育」の弊害を引きずっているんです)

(どんなに好意的に見積もっても)「学校」という機関は、「教わる」場所であったとしても、「考える」場所ではない。
「考える」ことを否定する場所である。

そこでは、「いや、そうではない」という勇気(自分軸=判断力)のあるものは、排斥されます。
教える側も教わる側もです。

そこで従順に教わるに任せるものは、
やがて「知識=自分」という存在になっていきます。

いうまでもなく、そうしないかぎりは「落第」、すなわち「社会人」としての落伍を意味しますからね。
それが怖い。

まもなく、教える側の「先生」「教師」「教授」らはAIが取って代わるでしょう。
そして、「AI=自分」になっていくでしょう。

その「自分」は、あなたでも、別なだれかでもいい。
上から与えられた都合のいい「知識」がそこらじゅうを跋扈ばっこする。
「有能な人材」は、うっかりすると「便利屋」になってしまう。

このまま行けば(行きませんが)そんな時代が到来します。

後記

東洋哲学は、実はこのことへの「警告」そのものでした。

老子が
「大道すたれて仁義あり」
と言ったのは、実に2600年ほど前のことです。

言い替えれば、そもそも老子の時代に、すでに「教条主義的な仁義」が社会を席巻せっけんしていたことがほの見えます。

それの危険性を訴えるのでなければ、
老子がわざわざそんな発言をしないではないですか?

いや、それどころか

「これ」というのと
「あれ」というののどこに違いがあろうか?

といった「二元性」への否定「一元論」がどうしてそこにあるのか?

「老子」とお付き合いさせてもらってこのかた40年余、最近になって初めてそれが、抵抗的レジスタント革新的ラディカルな主張であることに気づきました。

なぜなら、それは、この地球周辺を「二元性」というヴェールでおおったものへの挑戦であり、その二元性にかったものに対する「気づき」の書であるからです。

私は当初、その危険思想(二元論)は、特に西洋近代・現代の「物質至上主義」的唯物論に起因するものと思っていました。

しかし、それはもはや「原因」ではなく、すでに「結果」だったのです。

二元性は、数万年も前に、恣意的にこの地球に仕掛けられた最大の罠であり、魔法なんですから。

であれば、その罠を外し、魔法を解きましょう!

古代東洋の英知は、今日では地球解放の強力な武器なのです。
それは、一切の流血のないきわめて平和そのものの「武器」です。

お一人でもご理解いただけることを祈りまして。
ありがとうございました。



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今こんな気分

東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。