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『家の馬鹿息子』を読む日記2022.04.01

『家の馬鹿息子』を読もうと思う。『家の馬鹿息子』は分厚い。

どうして『家の馬鹿息子』を読みたくなったかというと、とある料理本を読んだからだ。『海老坂武のかんたんフランス料理』という本。京都の恵文社一乗寺店で買った。この本には仏文学者の海老坂さんがふるまった料理の「◇レシピ」と、食卓での「◆おはなし」とで構成されている。サルトルの翻訳者である海老坂さんのお話に、『家の馬鹿息子』が出てくるのである。

僕に本を読ませる、あるいは買わせるキラーワードみたいなものがあって、たとえば、高山宏さんが、巽孝之さんとの対談で〈これを読まないで死ぬ人を僕は許さない〉というようなことを言っていて、その日にグスタフ・ルネ・ホッケの『ヨーロッパの日記』を購入した(勝手にもうないだろうと思っていたアリス狩りのⅦが出るらしい。めでたい)。

海老坂さんはなんと言ったか。彼は『家の馬鹿息子』について、「一人の人間が、一人の作家について書いた、おそらく世界最大、最高のものじゃないかと思うよ」と言った。僕は基本的に、他人や対象を(ほとんど)無条件に賛美することを好まないし、ネットにあふれている「天才」とか「最高」とかいう言葉を疑っているけれども、長年付き合っていて、その人物やテクストを知り尽くしている人の言葉は信用できる、と思う。そういうわけで、「一人の人間が、一人の作家について書いた」、五巻にもなる長大な評論を読んでみたいと思ったのだ。

『家の馬鹿息子』は、サルトルのフローベール論であって、「はじめに」を読むと次のようにある。

『家の馬鹿息子』は『方法の問題』の続編である。

サルトル素人の僕は、サルトルのテクストの体系なんてものを知らなかったので、そんなことも知らなかった。というわけで、まず『方法の問題』を読むことにする。と思っていると、『嘔吐』すら読んでないなと思い出し、これも先に読むことにする。今は前田愛の『樋口一葉の世界』を読んでいるし、ナボコフの『賜物』も開いた(『賜物』の作中時間はエイプリルフールからはじまるらしく、軽く開いてみてシンクロニシティを感じたので多分読む)。

こうなると、『家の馬鹿息子』を読むのはどうやら先になりそうだ。と思いながら、『家の馬鹿息子』の読書はもうはじまっている、とも思う。

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