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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.03.13-14(50/68篇)

「マドモワゼル・O」(1939年?)「フィアルタの春」(1936? 8年?)を読む。ともに1930年代後半に書かれたようだが、注釈を見ても馬鹿な僕には判断がつかない。

「マドモワゼル・O」は、ナボコフの記憶を題材とした作品の内のひとつで、改稿されたものが回想録『決定的証拠』(自伝『記憶よ、語れ』)の第五章の一部になっているらしい。記憶をテーマにするナボコフの作品は「悪い日」や「忙しい男」など、これまでにもあり、亡命と追憶と表象といった問題が俎上に載せられている。それはこの作品でも同じであって、冒頭から記憶とそれを表象することで失われるものについての言葉が綴られている。

よく経験することだが、小説の登場人物たちに私の過去の大切な思い出を与えてしまうと、突然押し込められた造りものの世界の中でその思い出はやせ細ってしまいがちだ。それは依然として頭の中に消えないでいるとはいえ、そのぬくもりや、思い返すときに感じる魅力は失われてしまい、芸術家の侵害など許すはずもなかった以前の自分よりも、私の小説と同化してしまう。かつての無声映画によく見られたように、家々は記憶の中で音もなく崩れてしまい、一度、ある作品の中で一人の少年に預けた年配のフランス人女性家庭教師の肖像は、見る見るうちにかすんでしまい、いまでは、私自身の少年時代とはまったく関係のない別の少年時代の描写に取り込まれてしまった。一人の人間である私は小説家の私に反撃を試みる。以下の物語は哀れなマドモワゼルから、まだ失われていないものを救い出そうとする、私の必死の試みである。(「マドモワゼル・O」諫早勇一 訳)

引用のようにこの作品はマドモワゼル・Oという家庭教師を描いたものである。

僕は記憶力が壊滅的なので、ナボコフのように幼年時代を筆にのせて鮮やかに映し出すこともできないし(その代償として思い出は死ぬらしいけれど)、ナボコフと同年生まれのボルヘスみたいな人間離れした記憶力が持つ瑕疵なんて想像もつかない。ただうらやましいと思うだけだ。

思い出の死を経験するほどに鮮やかな記憶などもっていない。


それはともかくとして、YouTubeにあった「みんなのつぶやき文学賞」の結果発表の最初のところだけをちらみしたのだけど、関西に住んでいることもあって、京都文学賞を受賞されたケズナジャットさんの『鴨川ランナー』が気になった。結果発表会では、外国人が母語以外と関わりを持つ際の戸惑いがひとつの特徴として挙げられていて、それが「マドモワゼル・O」にも描かれているからだ。

彼女の発音通りに綴ると「ギディエ」[…]というこの単語は、「どこ?」の意味だったが、実際にはたくさんのことを意味していた。迷子になった鳥のしわがれた叫びのように発せられるこの単語には、強く問いかける力があって、それで彼女の要求はすべて足りた。「ギディエ」、「ギディエ」と、自分の居場所を見つけるためだけでなく、とてつもなく深い悲痛を表現するためにも彼女はうめいていた。自分がよそ者であり、遭難者であり、無一文のまま、最後には受け容れてもらえるはずの約束の地を求めて苦しんでいるということを表現するために。(「マドモワゼル・O」諫早勇一 訳)

僕は『鴨川ランナー』をまだ読んだことはないし、そこには母語以外の言語に対する理解という側面もきっと書かれているのだろうと思うけれど、ナボコフが書いたようなこういった一面もあるんじゃなかろうか。

「フィアルタの春」は、「ぼく」とニーナという不倫相手の女性の多分に偶然な出会いと別れを描いた作品。

ナボコフの短篇の代表作のようだけれど、どうにも読むときに疲れてしまっていて、情けないことにあまりぴんと来ていない。フィアルタが架空の地名で、ヤルタという土地が元ネタのうちのひとつかもしれないということはわかった。



これを書いている合間にも、僕は自分への怒りがふつふつと湧いてきて、やがてふすーと空気が抜けるようになって、情けなさだけが残る。

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