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『家の馬鹿息子』を読む日記2022.04.02-7

春は忙しいし、サボりだすと歯止めがかからない。

新生活の準備と前田愛の『樋口一葉の世界』(平凡社・1993)を読むだけで一週間が消えてしまった。収録論文の並べ方がすばらしいことに気づく。

Ⅰ「閨秀の時代」「下田歌子」「一葉日記覚え書」
Ⅱ「一葉の転機――『暗夜』の意味するもの」「『大つごもり』の構造』「『にごりえ』の世界」「『にごりえ』断想」「十三夜の月」「子どもたちの時間――『たけくらべ』試論」

という構成なのだけれど、Ⅰでは、樋口一葉と同時代、あるいは少し先輩の女性の作家であったり、演説家であったりの説明がまずあり、「一葉日記覚え書」という、日記を踏まえて一葉を取り巻く環境や方法と作品との関係を論じる作家論が続く。Ⅱでは、一葉が源氏などの「物語の生活者から「塵の中」の生活者」へ展開したことを踏まえて『暗夜』を読みとく作品論的なものから、「『大つごもり』の構造」といういわゆるテクスト論的な読みの嚆矢へと続く。あとがきには、

作品を手がかりに、一葉の内面に迫るという行き方ではなく、作品の言葉を同時代の習俗や言葉の世界に解き放ち、そこから作品のなかに隠されているコンテクストを掘りおこして行くという方法が、はっきりと見えてきたのは、「『大つごもり』の構造」からである。

と述べられている。

その次の「『にごりえ』の世界」にしても、そういう読みと同時に、一葉を取り巻く環境や言説の条件などを参照させながら読み解いていて、単なる作家論や作品論ではないけれども、テクスト論に振りきったわけでもない論証の進め方が勉強になる。

最後の「子どもたちのの時間――『たけくらべ』試論」では、一葉の姿はほとんどなくて、当時の「子ども」を取り巻くコンテクストや、吉原とその周辺という都市空間や習俗を元にテクストが読み解かれていく。

この作家論から作品論、作品論からテクスト論へと推移していく構成は、僕になんでもっと早く読まなかったんだろうと思わせたし、同時に、今読んだからそういうものが理解できたのだろうとも思った。

それと一つ思い出したことがあって、僕はフーコーの『言説の領界』という昔読んだ本をなぜか大事にしていたのだけれど、なぜ大事にしていたかといえば、僕自身がどのように言説の産出を管理されているのかということの自覚のためだと思っていたけど、それだけではなくて、小説を読むときに、書き手が言説を制限されたり排除されたりという管理を受けたという事実があるということを思い出させてくれるものとして参考にすべきものだと思っていたのだ。それは、作者の死という言葉がひとり歩きした研究に違和感を感じはじめたころと合致する。そのことを『樋口一葉の世界』を読むことで思い返したのである。


いろいろなモチベーションを取り戻すことができているように思う。たとえば、『樋口一葉の世界』から樋口一葉の研究書へとステップアップしてみたり、批評についての座談会を拾い読みしたり、花村太郎の『思考のための文章読本』を読んで、これって全部と一部の思考だよなと身近な言説に触れて思ったりなど。

衝動的に動く悪い癖で、吉村萬壱さんの小説を図書館で借りまくった。時間的・精神的に読めるかはわからない。『家の馬鹿息子』に取りかかるのはまだまだ先になりそうだ。

職場で他人に対する自分の応じ方が昔と変わってきた気がする。少しは成長できていると言えるのか。頭が働いているような気がしてうれしかった。

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