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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.03.05(42/68篇)

「レオナルド」(1933年)、「環」(1934年)を読む。

「レオナルド」にしても「環」にしてもナボコフの作為的な構成が印象的。

「レオナルド」は、言葉によって小説が形作られている過程が語られている。

素材は呼び出しを受けてさまざまな場所から集められ、集積されていくのだが、なかには空間的な距離だけでなく時間的な距離を乗り越えなければならないものもある。集めるのによけい手間がかかるのはどっちだろう。空間の放浪者か、はたまた時間の方でしょうか。たとえば、近所に植わってはいたけれど、もうだいぶ前に伐られてしまったポプラの木、それとも、今でもあるにはあるが、場所はここから離れているという選りすぐりの中庭なのでしょうか? さあ、どうか答えをお急ぎください。
ほらどうです、卵型のちっちゃなポプラが、点描のような四月の緑におおわれて早々と到着し、支持されたとおりの場所に落ち着いているじゃないですか。それは背の高い煉瓦塀のそばだけれど、そいつもほかの街から根こそぎ持ってきたものだ。その向かい側には、大きくて陰気で汚らしいアパートがにょきにょきと背を伸ばしていき、安っぽいバルコニーが抽斗みたいにつぎつぎに飛び出てくる。中庭のあっちこっち小道具が並べられる。樽、おまけにもうひとつの樽、仄かな木陰、壺らしき物、それに壁すそに立てかけられた石の十字架。(「レオナルド」貝澤哉 訳)

言葉が紡がれていくごとに世界が立ち現れていくさまが、自己言及されている。読んで行くごとに世界のパーツが一つずつ組み上がっていくように思える。

ナボコフは、先に世界観があるタイプだろうか、それとも書いていくうちに世界観を作り上げていくタイプだろうか。言葉によって世界が立ち現れていくことそのものに言及したこの作品を読むと、後者であるようにも思える。

僕の浅薄な知識のなかの前者の代表は、『グイン・サーガ』で著名な栗本薫で、後者の代表は森見登美彦である。なぜこの二人かというと、どちらも自らそういうふうに書いていると言及しているからだ。

栗本薫の場合、頭の中に世界観がすでにあって、それを言葉にしているだけだそうな。

森見登美彦の場合、言葉が紡がれることによって世界や人がどんどん立ち上がり、作られていくらしい。

先にナボコフは後者のタイプじゃないかと思ったのだが、むしろすでにある記憶を素材として、それらを布置することで世界観を作り上げていくようにも思える。だから前者と後者のハイブリットとでも言えるのかもしれない。まぁでも結局、どちらにももう片方の要素があるのだろう。無駄なことを書いたものだ。

「環」は、「第二に、突然、狂おしいほどロシアのことが懐かしくなったからだ」という一文からはじまる。

「第一」はどこやねんとツッコミたくなるが、それがこの短篇の肝であって、「第一」は一番最後に置かれている。だからこその「環」というタイトルである。

このような工夫が見られるようになって、ナボコフがどんどんイメージしていたナボコフに近づいているような気がする。



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