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『家の馬鹿息子』を読む日記2022.04.08-10

中島敦の「山月記」は何度も読んでいて、そのたびに李徴が虎になった姿を想像しているのだけれど、意識することなく小さく見積もっていたらしい。

本物の虎を見た。本物の虎は大きい。なるほどこれなら食われてもおかしくない。李徴はきっとあれよりも大きい。

動物園の檻の周りに、ウイルス対策だろうカラーコーンとコーンバーが置かれ、虎は守られていた。暑さからか、右往左往しながら巨体を揺らしている。人間の腕より太い尻尾が苛立たし気にしなる。

たいていの動物は暑さからか、容赦のない視線から逃れるためか、ガラス戸や金網から一番遠くの壁にいる。ゴリラやチンパンジー、シカなど。目を凝らしてみると、ゴリラはおっさんのように寝っ転がり、腕を上下させている。

こちらの目も気にせずにいるのはゾウやキリンであったり、ミーアキャットやワオキツネザル。大なり小なりだ。

ゾウやキリンの大きさは、当たり前なんだけど自分の目で見てみるとあらためて大きいなぁと思わせる。酔いそうになる。ある種の畏怖でもある。ゾウをゾウと、キリンをキリンと知らないころの驚異を想像する。

ワオキツネザルは、素早く動き回ってなぜかお腹を見せてくれる。子どもたち(大人も)は動かない生き物を見続けることに慣れていない。動くものに興味を示す。そういう意味ではワオキツネザルはたくさん動き、近くに来てくれて絶好の観察対象になる。僕はワオキツネザルという名前が好きで、よく自分の出せる限りのいい声でワオキツネザルと妻に言っている。

不思議なもので、最初は檻の中のどこにいるのかわからなかった動物たちが、見ることをこなすことによってだんだん見つけやすくなっていく。きっと読書も同じ。


動物園に続いて美術館に行く。目の筋トレみたいなものだと思う。

大阪や京都の画壇についての企画展で、池大雅、谷文晁、田能村竹田・直入、蕪村、蒹葭堂などの画があった。

石川淳のエッセイや、『渡辺崋山』といった伝記には、よく江戸画壇の人びとが登場する。なかでも池大雅の評価は高かったように思う。

池大雅の画を初めてこの目で見た。月並みなことしかわからないが、やはり炭の濃淡、陰影の美、曲線の美しさなどは目に焼きつく。焼きつくというのはふさわしくない。染みとおるといえばいいのだろうか。箕山瀑布図を見た。箕面の滝という題材を同じくする蒹葭堂、谷文晁と並んで展示されていた。それぞれ池大雅を参考にしたと書いてあったような気がする。

池大雅の画が、目に飛び込む。奥に轟々と落ちる滝があり、手前に荒々しく削れた岩がある。これは位置的には上部に滝が、下部に岩があるのだけれど、線の太さ、影の濃さ、岩の荒れた存在感が、遠近感を生み出しているように思われる。建物の床が平行四辺形のため、線遠近法はまだないのだろうけど、縦長の図から感じられる奥行は実景に劣らぬ迫力がある。

一番惹かれた画が奥谷秋石のもので、この人は明治生まれ、戦前に亡くなった画家だ。松渓風雪遊鹿山水之図だった。隣の直入の一望萬松図もかなりよかったが。

秋石の画は、松の生える渓谷に月が出て、斜めに光を落とした先に鹿が二匹いるというもの。近づいてみると緻密な筆で、松であったり、月の光であったり、山水であったりが描かれている。

一歩引く。空間があらわれる。

二歩引く。空気が目に見える。

三歩引いて椅子に座る。月の光が柔らかく、画と同じ空間にいるのかと思う。

素人の感想に過ぎないけれども、見事な絵だった。



樋口一葉の研究書を引き続き読んでいる。前田愛を尊敬し、参考にし、乗り越えようとする論文で、丁寧な読解に目を開かされる。

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