見出し画像

『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.03.15(52/68篇)

「雲、城、湖」(1937年)「独裁者殺し」(1938年)を読む。

「雲、城、湖」はベルリンに住む語り手「ぼく」が、代理人であるヴァシーリイ・イヴァノヴィチ(推定)の身に起こった、亡命者の親善旅行で出来事を語ったものである。

(推定)というのは、「ぼく」がヴァシーリイ・イヴァノヴィチと思われる男の名前を正確に覚えていないからであり、ヴァシーリイ・イヴァノヴィチという名前は、先の「スカウト」という短篇で語り手がベンチに座っていた見知らぬ老人を元に考えついた死を待つだけとなった人物の名だ。

ヴァシーリイ・イヴァノヴィチというのは、ナボコフの短篇では語り手が焦点化する「代理人」であって、その語り手は小説家という設定であって、ということは信用できない語り手である。

だから、「雲、城、湖」における親善旅行でのヴァシーリイ・イヴァノヴィチに対する同行者たちの執拗ないじめは、おそらくテクスト上における創作なんだろう。

雲と城と湖というナボコフが何回も描いてきた故郷の光景にヴァシーリイ・イヴァノヴィチは希望を見出して、ずっとここに住むことを願うのだが、同行者たちによって無理やり引きはがされ、列車内でリンチを受ける。

この希望を見出した途端にそれが奪われる筋立てからは、亡命者ナボコフの自傷行為が感じられるようで、痛々しささえ感じられる。


「独裁者殺し」は、レーニンに向けられたであろうストレートな批判が感じられる作品。

独裁者である「彼」は、語り手「私」のかつての顔なじみである。冒頭からありあまる憎悪が「彼」に向けられていて、今の状況とも重なって、拍手喝采というよりは、読んでいて辛くなっていった。

彼の権力と名声が増大するにつれて、彼に負わせてやりたい罰の重さも、私の想像力のなかで膨らんできた。だから、最初のうちは選挙で敗北したり大衆の熱狂が冷めれば満足できたはずなのに、やがて彼の投獄を求め始め、さらに時が経つと、孤独と恥辱と無力が形作る永遠の地獄の底を示す黒い星印のように、たった一本の椰子の木だけが生えたどこか遠いのっぺりとした島への流刑を求めるようになった。そしていまでは、彼が死ななければ満足できなくなった。(「独裁者殺し」諫早勇一 訳)

こうして「彼」の青年期のことや現在の演説のひどさなんてものが語られていくのだけれど、やがて「私」は自分のなかにある「彼」を殺すためには自分が死ぬしかないというところまで来る。

そう思った瞬間に、「私」は「錬金術的ともいえる変容を遂げる」。「私」は「彼」に「あなたは私たちの誇りです、栄光です、御旗です」というようになる。

もちろんそのまま終わるはずもなく、最後の章ではそれがひっくり返されることになる。

ところが、笑いが私を救ってくれた。憎悪と絶望をところん味わってから、私は滑稽なものを鳥瞰できる高みに到達することができた。心からの歓びの笑いは、子供向けのお話の中で、「プードルの愉快ないたずらを見ているうちに、喉の腫れ物が吹っ飛んだ」紳士と同じように、私を癒してくれた。手記を読み直しながら、彼を恐ろしい存在にしようとして、実は滑稽な存在にしたに過ぎないこと、そして、それによって彼を処刑したこと――古めかしいが、確かな方法だ――に私は気づいた。(「独裁者殺し」諫早勇一 訳)

アイロニカルに独裁者を描くことでそれを「殺す」という抵抗のしかたがある。ナボコフは古めかしいと言いながらもそれを用いた。おそらく文学にできる最低限で唯一の抵抗なんだろう。

最後の文章はいろいろなことを考えさせる。

私は奇跡を信じている。私にはわからない何らかの方法で、明日でも明後日でもない遠い未来に、この手記は他の人たちの手に渡るだろうと私は確信している。その時が来れば、今日の悩みに劣らず愉快な新しい悩みを目前にしても、一日くらい考古学的な発掘を楽しむゆとりはあるはずだから。そして、ひょっとすると私がたまたま書いたものが不滅のものとなって、何世紀ものあいだ、ある時は迫害され、またある時は称えられ、しばしば危険視されながらも、いつも有益な書とみなされないとも限らない。そして、「骨のない影」である私にとって、忘れてしまった過去の眠れない夜々の成果が、将来の独裁者たち、虎のような怪物たち、人々を虐げる間の抜けた迫害者たちに対する密かな特効薬としてこれからも長い間役立つとすれば、これほど愉快なことはない。(「独裁者殺し」諫早勇一 訳)


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?