『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.03.04(40/68篇)
「さっそうたる男」(1932年)、「海軍省の尖塔」(1933年)を読む。
「さっそうたる男」は、行商する男が女性をかどわかす話。「ぼくら」という人称が使われているが、コンスタンチンというかどわかす男が主体として動いているものの、語り手がどこにいるのかはわからない。そういう意味では難しい作品だ。
「海軍省の尖塔」は、『海軍省の尖塔』という小説を書いた女性と思われる人物にあてて書かれた手紙という体裁をもつ話。
手紙を書く「私」は、『海軍省の尖塔』の書き手に対して、過去の自分と交際していた女性を勝手にモデルにしたうえにその思い出を改悪したと非難する。
これはナボコフの実際の経験を材料にしているらしく、そのうえで、テクスト上の人物はあくまでも創作であることが注釈では強調されている。
私小説においても問題になることの多いモデル問題そのものが、ナボコフの経験と、テクスト上で自らの経験を勝手に作品化される男とで二重に取り上げられている作品だ。
前回の日記から一週間以上が経過した。
自分はまだこのひどい状況について語る言葉を持ちえない。
多分僕の力では、何を言っても現実の悲惨さを表象することができないし、誤解を生むこともあるだろうし、それならば沈黙することが一番できる最善のことなのではないかと思っている。
これはあくまでも僕個人の話であって、ほかの人が語るのは自由だし、それについて何も思うことはない。
けれども、今、言葉は氾濫している。今までにないくらい言葉が飛び交って、誰かを幸せにしたり、不幸せにしたり、生かしたり、そして殺したりしている。
僕は言葉に対して、基本的にラフでいたいと思っていた。ただの記号であって、軽いもの。必ずしも深刻に捉えなくてもいいもの。透きとおり、浮遊し、見えても見えなくてもいいもの。
ただし、感情を乗せると重みが出る。深刻になる。色がつく。目に見える。人に多大な影響を与えるようになる。昔の僕は、言葉の記号的な側面と、感情という人間的な側面と、両方を意識していたと思う。
でも、今はそうはいかないだろう。言葉の使い手がいくら言葉を透明化し、軽量化し、軽薄に扱おうとも、受け手の多い現在では、誰かがきっと色をつけ、重くとらえるだろう。
それは決して受け手が悪いのではない。
そして、必ずしも使い手が悪いのでもない。誹謗中傷を除いた場合には、きっと誤解もあるのだろうし、おそらく悪気もないのだろう。ただ、風船のように言葉を浮かばせただけなんだろう。
けれど、誰かがそれを爆弾だと思い、信じるがゆえに、本当に風船が爆弾になってしまうこともあるだろう(本当は爆弾という言葉も使いたくはない)。
だから、言葉の使い手は、注意を払わなければならない。そうでなければ沈黙するのが一番だ。黙っていて困ることはない。これは言論封殺ということではなくて、人間そんなにしゃべらなくてもいいじゃないかということだ。
もちろん僕は矛盾している。今ここに書き連ねていることが、誰かを傷つけるかもしれないのだから。
でも、それでも書きたい言葉があったとき、そういうときになってはじめて言葉を使ってもいいのだと思う。そういう時代になってきていると思う。綿毛を蹴とばすように言葉を吐くということは、なかなか難しくなっている。
息苦しいといえば息苦しい。こういう大上段にかまえてしゃべろうとするからダメなのであって、ケースバイケースですり合わせていくしかないのだろうな。
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