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詩人の寿命を燃やすこと

 国文学研究者の西郷信綱は、「詩人の命」(『古典の影』収録)という短文で、大伴旅人や山上憶良といった万葉の歌人たちの、老いらくの歌が若々しく優れていることに注目した。そして、その理由を考えながら室町期文人の没年齢表を見ているうちに、多くのめぼしい歌人が長寿を全うしているのを発見して一驚を喫したという(例えば飛鳥井雅親96歳没、今川了俊96歳没、正徹79歳没、心敬70歳没、宗祇82歳没、肖柏85歳没、宗長85歳没)。さらに時代を遡っても、西行は73歳没、俊成が91歳没、定家が80歳没といずれも長命だった。そして、そうした近代以前の歌人たちが長寿であるのに対して、近代詩人たちの薄命(北村透谷27歳没、石川啄木27歳没、中原中也30歳没、立原道造25歳没)との著しい対照性を指摘している。

 しかし、そのことを指摘したすぐ後で西郷氏は、詩人には古今を問わず長命も短命もあったので、詩人の生物的な寿命を議論しても意味がないとして、文学上の問題としての「詩人としての寿命」について考えを転換する。例えば80歳で没した高浜虚子が、詩人としての生命を全うしたのはいったい何年間あったかと問う。長命な詩人も、若い時分の詩的惰性をずるずると引きずっているだけで、詩人としての寿命はとうに尽きている人が多く、近代における詩人の命の短さは否定できないのではないかと述べる。

 その証拠に、島崎藤村の詩人的生涯は『落梅集』を出した二十代で終わり、あとは小説家に転向している。また蒲原有明、三木露風、佐藤春夫のような人物も、詩的生命は二十代で燃え尽きているという。先に名前が挙げられた近代詩人としての透谷や啄木は、詩的生命を生物学上のそれに一致させることを自ら選んだのではないかとさえ思えるという。また西洋の事例にも目を向けて、シェリーやキーツ、バイロンといった近代社会に生きた詩人は自殺したり若死にしている傾向があり、したがって「近代社会においては詩人の詩的生命が短く、詩は青春の文学であらざるをえぬ」と述べる。
 これに関連して個人的に想起するのは萩原朔太郎である。朔太郎も近代詩の代表者と見なされているが、ある時期からはエッセイばかり書いている。これは詩人の寿命を失ったことを意味するかもしれない。

 いずれにせよ、西郷氏は万葉の時代と近代の詩人たちとの詩的寿命の対比から、古代と近代とでは詩の条件がひどく違っていたという消息を暗示するものだと書いている。これは興味深い指摘である。万葉の時代そのものとして若く未分化で、詩と対立する散文をほとんど知らなかったことが、憶良や旅人の老いらくの作品に若さを与える秘密であったという。他方で、万葉には個人の中での作風の変化がみられないという問題があり、生涯を通じて作風を変化させたのは芭蕉あたりから始まって、近代では変化が常態となり、詩人の命は若くして燃え尽き、あとにはしばしば燃えがらだけが残るという。

 西郷氏はかく指摘するが、近代「以降」の詩人がこぞって詩的に短命であるとは言い切れない。現代においては、息の長い詩人というものは存在している。若い頃から老年に至っても感性の衰えない詩人の代表として、人はただちに谷川俊太郎氏のような名前を思い浮かべるだろうし、詩人の寿命などというものは、まさしく「人による」としか言いようがないものかもしれない。しかし、詩的感性に目覚めてから詩的感性が潰えるまでの寿命、あるいは芸術に向き合うための寿命というものは確かにあるように思われる。

 現代においてはまた、詩から遠い人生を送っていた個人が、老いらくを迎えてから詩的精神に目覚めるということもありえる。個人的に興味があるのはそちらのことだ。以前の記事でそのような内容を書いたことがある。

 青春を燃やした人間が、老いて再度青春に至るのか。それとも若き日の燃え残りが、燃えがらにならずに再燃するということがあるのか。詩的生命が限られているのだとすれば、それを一気に燃え尽きさせることのできる人間は幸福な悲劇を享受している。
 現代のように、生活様式に符牒を合わせるかのように文学そのものが多様化し、詩歌においても散文においても多彩な表現が成り立つ時代にあっては、詩的生命はひとときに燃やし尽くすものではなく、持続的にあるいは断続的に、少しずつ変化させながら燃やし続けることができるようになっている。そういう意味では、我々は長く詩的寿命を永らえる幸福な時代を生きているといえる。しかし他方で、明治の若死にの詩人たちのように詩的精神の命じるままに燃え尽きるほどの情熱を注ぐこともできず、青春をのっぺりと伸ばしきったり、そうでなければ分断させるだけ分断させて、詩において死ぬに死にきれず、いつまでも本当の詩的精神を求めて、真っ黒に炭化した燃えがらを燃やし続けているという不幸な時代に生きているともいえるのかもしれない。




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