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思想の体幹を鍛える

 「四十にして惑わず」といい、これは一般的に人格の完成に至る道だと理解されている。そして多くの人は自嘲的に言う。四十過ぎても迷いなんてものは全然なくならない、と。四十年も生きれば、人は自分のそれまで生きてきた経験と知識をいったん整理し、適性や能力を把握できるようになり、その限界を客観視できるような気分になってきて、人生に対していい意味でも悪い意味でも諦めが出てくる。その結果、この先に残された長くても数十年の人生において、自分にとって必要なことと不必要なこととの分別がついてくるような気がする。

 しかし実際四十になってみて気づくのは、不惑というのは惑うている暇がなくなってくるという人生の焦りを却って表現しているのではないかということである。自分は社会に溶け込まず、いつまでも馴染めない都会の片隅に基本的にひとりで生きていて、人と交わることをほとんどしない。自分に向き合う時間が十分にあるが、自己と対話を繰り返してどんないい考え方に巡り合えたところで、他人や社会と向きあっていなければその価値は誰も認めまい。

 すなわち、このように文章でしたり顔に宣っていても、自分など所詮はネット弁慶の如き存在であるに過ぎず、どこかの巨大サイトのコメント欄と大差ない空に向かっての呟きである。研ぎ澄ましたつもりで放った言葉も概念も、あっという間に消えてゆくのが世の定め。海水を飲み込むたびに意図せず吸い込んでしまう砂を、延々と吐き出し続ける海中のアサリのようでもある。
 自分の住処では砂のようにさらさらと吐き出していることも、時おり実社会で発言する機会があると、出てこないのが常套。思考というものは練りすぎると泥のようになって肝腎な時にほどけないようだ。これはつくづく、こまごました砂は吐き出しても、泥を放出するための鍛え方が足りていないせいである。思考するスタミナも瞬発力もないし、パワーもない。うかうかしている間に、じっくりと考えたはずの練り上げた思念が、頭の中からするりと抜けて行ってしまう。それでもネットがあるおかげで、多少の知ったかぶりができる世界であるから、その場しのぎで話を合わせているうちはいいが、いざ考え抜こうと思ったとたんに、息切れしてしまう。

 じっくりと対話をしてみたい古人の、あるいは古典の思考にさえもついていけない。本当に言いたいことはなんなのか、じっくり読解してわかろうと、腰を据えて挑むことができない。つまりはこらえ性がない。若い頃はただ目先の知識欲を充たすことに躍起になっていたのだけれども、そのようなことでは全く身につかないことがわかっていながら進歩していない。そうやって気怠いまま手元にある本を眺めていると、中村光夫が中島敦について語った文章の中で、次のように述べているのを見つけた。

 世の中には知識を生活の手段として求める人がゐる。また知識を知識のために求める人もゐる。前者のやうに知識的俗物の群についてはここに論ずる必要はないが、後者の場合にも、そのいはば、純粋な知的衝動は必ずしも真に教養ある人間を作らないのである。…
 僕等は哲学とか文学とか美術とか実際生活の必要とはあまり縁のないものについての知識を殖やすのを、教養をつむことだといふ風に漠然と考へてゐる。しかし…人々が教養と考へるものが、実際はその持主の人間としての価値と何等の関係もない知識の集積にすぎない場合は実に多いのである。どれほど厖大に積み重ねられようと知識そのものが教養になることは断じてない。知識が人間の心の高さまたは豊さに溶け込んだとき初めて教養と云へるのである。

中村光夫「中島敦論」

 かつてこうした考え方に共鳴し、またげんに共鳴するものではある。しかしながらかつての自分は人間の心の豊かさを感じとることなく、クイズの達人に憧れるかのように知識を獲得するほうに気が向いていたわけである。真の教養人になりたいと願っていた自分の現実が、いかに愚かであったことか。
 また、知識を身につけることの意味について、丸山眞男はちょうど不惑前後の年齢でこうしたことを言っている。

学問に打ちこむということは実に苦しいことであり容易ならぬ知的な勇気を必要とします。そうした認識への情熱を経験しない人は何年学校に居てもついに学問の何たるかを理解しない人です。わが国では昔から「文弱」などという言葉が示すように、智恵と「強さ」とは本来相容れないような考え方が支配的ですが、ややもすると進歩的学生のなかにもそうした伝統的な観念が裏返しになった形で忍び入つているように思われます。学問することの厳しさ、durchdenkenする考え抜くことの苦しさに堪えられないような学生に、私たちは日本の将来をゆだねることは出来ません。ラディカールということは本来「事物の根源から」という意味です。諸君、真にラディカールに学問しようではありませんか。

丸山眞男「勉学についての二、三の助言」

 どうもこのnoteでは似たようなことを何度も書いている気がするのだけれども、結局何度も繰り返している漠然とした「そのこと」が自分の一番引っかかる点なのだろうと思うし、このようなくだ巻きを他人の目に晒してどうなるものかとも思うのだけれども、他人がどう思おうとも追究して自分なりの答えを求めねばならない点なのだろうと思う。人間はそれぞれが追究しなければならない課題というものを持っており、そういう課題があぶり出されてくるのが五十歳くらいの年齢なのだとしたら、現代において天命を知るとはそういう風に読み替えることができるかもしれない。

 自分は馬鹿者なのでわからぬことはずっとわからぬまま考え続けているしか能がない。どうでもいいことは「合理的」に処理していくことに長けているが、わからぬことだけはどうしようもない。わからぬことがあるときに助けてくれるのが、思想という名の宗教である。宗教が麻薬アヘンだとすれば思想もまた麻薬なり。信教・思想・良心の自由。いずれも日本国憲法で保障されている。近代社会とはアヘンへの陶酔を公式に許容してくれる恐ろしくも偉大な社会のことをいうのか。

 そもそもこの記事に何となくつけてみた「思想の体幹を鍛える」というタイトルにしても、いかにも「賢いこと」・「うまいこと」を言っている感じがするだけで空疎、何の意味もない。思想は身体ではないのだから、思想自体に体幹などない。そもそもは漠然とふにゃふにゃしているのが思想なのだ。状況に応じて、あるいは練り上げ方に応じて、それがまっすぐになったり、さらに昂じて硬直化したり、引っ張って延ばしたり、うま味が出て来たり、悪臭を放ったり、脳を刺す官能になったり、霧のようにうすく広がったり、水のように浴びているうちは心地よいがあとでべたべたして気持ち悪かったり、いろいろに変わっていくのが思想だ。個人的な感覚を言えばその中に不変のものを見出すことができれば、それが核心というものだろうが、それを追究するのは玉ねぎをいつまでも剥き続けるような作業になりかねない。自分に必要なのは思想ではなく実際の身体の体幹を鍛えることなのだ。怠け者が老体に鞭打つようなことにならないようにするには、これは切実な課題である。

 ところで冒頭に「四十にして惑わず」という論語の言葉を引いたが、この解釈には異説があるらしい。実は「不惑」ではなく「不」であるというのである。不或とは枠を作らない、すなわち自分の枠からはみ出して様々なことを学ぶのだという意味とのこと。なるほどそうであれば「惑わず」どころか、多種多様な学びを得るための迷いが増えるのは当然である。いずれにせよ五十で天命を知るところにたどり着けるのか着けないのかわからないが、なすにまかせぬ思いを抱えつつ学んでいくことのみが、人間の成長であるのかもしれない。




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